神父の放言

言いっぱなし。そんな風に気楽に語りたいもんじゃ。

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聖トマス・アクィナス雑感

2012-05-30 | 神学
わたしはトマス・アクィナスにはとても引かれる。多くの聖人がいるが、この人は何となく「とうていかなわない人」という気がする。

スコラ神学について、客観的に見たあまり、前項でちょっと貶めるようなことを言ってしまったとしたら、ここで取り戻したい。

カトリック神学で誰が一番かといえば、簡単ではないが、アウグスティヌスとトマスの名前が挙がるだろう。その他にもいっぱいいる。でもこの二人はダントツだろう。

カトリックには教会法というものがあるが、その分厚い法律書の中に、おそらく唯一個人名が出てくるとすれば、このトマスだ。

神学生がどのような神学を勉強するかという項目で、信仰と理性を見事にバランスよく把握した聖トマスの精神に倣う、みたいな事が書いている。「トマスに倣え」じゃなくて、「トマスの精神に倣え」だが。

はっきり言って感動すると思う。信仰の真理は、ここまで見事なのか、そして世間的な学問と対決しても、ここまで説明力があるのか、と感動する。

事実、トマスに限らずカトリックの神学者たちは、ギリシア哲学の見事な建物に対して戦いを挑んだ。その最たる牙城はアリストテレスだ。トマスが一般名詞で「哲学者」と言う時は、彼をさしている。

アリストテレスは難解だ。彼はその後ヨーロッパでは廃れた。そして彼の偉業を発見したイスラム世界を経由して、ヨーロッパに再輸入されたのだ。そのときにトマスと、彼の師匠である聖アルベルト・マグヌスがいる。当時アリストテレスは、自然科学も含めあらゆる分野で権威であった。

このアリストテレスを完全に消化して、さらに、キリスト教的諸真理を、彼の哲学を援用しながら、論証していったのだ。トマスがアリストテレスに洗礼を授けた、と言われる意味はそれだ。アリストテレスとトマスの時代は2000年近く違うというのは驚きだ。

これでキリスト信者たちは、知的にキリスト教を完全に支持できるようになった。そういった知的満足をスコラ神学は与えてくれるだろう。

しかしなぜルーテルがスコラを嫌ったか、ルーテルの言葉を参考に少し見てみたい。

「次のように考えなければならない。『本当に私の神は、価値のない、呪われるべき人間であるこの私に、何の功徳もないのに、まったくただで、純粋の憐れみから、キリストを通して、またキリストにおいて、すべての義と祝福に満ち溢れる富を与えてくださった。…』…しかし、残念なことに、この生活はいまや全世界を通じてなおざりにされているばかりか、もはや知られてもおらず、説かれてもいないのである。」

さて、この言葉は聖書の次の言葉を解説している。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章)

新約聖書を一言で言い表せ、と問われたときに、カール・バルトはこの箇所を挙げたが、これは正しいと思う。

このヨハネ3章の言葉から、聖書のすべては来ているともいえる。

スコラの膨大な真理の陰に、この最重要の新約の真理が隠れてしまうことは大いにありえる。ルーテルが「いまや全世界を通じてなおざりにされているばかりか、もはや知られてもおらず、説かれてもいないのである」と言ったとき、その通りだったのだろう。

「それじゃあ、トマスは間違っていたのか」。いいや、そうじゃない。それは天からトマスに与えられた仕事だ。やらなきゃいけなかったことだ。

でも、トマスを知っている人なら、トマスの最後の神秘体験を知っている。トマスはミサの途中神秘体験をしてしまって、その後、一切、著述ができなくなった。「自分が体験したことに比べれば、今までやってきたことは藁のようなものだ」。そして決してペンを握ろうとしなかったそうだ。

彼の大著『神学大全』が完成しようとしていた矢先のはなしだ。

意味深長だ。

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