神父の放言

言いっぱなし。そんな風に気楽に語りたいもんじゃ。

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聖トマス・アクィナス雑感 その2

2012-05-31 | 神学
彼は晩年、キリストのご出現を賜ったようだ。そして「あなたは私についてよく書いてくれた。何を求めるか」と言われたようだがそのときに、「主よ何も、ただ御身のみ」と答えたという。

だから彼の信仰が知的のみのものであって、愛がなかった、などと言ってはいけないと思う。
またこの逸話によれば、彼の作品は、キリストのみ心に適っていた。イエスに対する愛が、超人的な彼の活動の原動力だ。

彼がガチガチの神学者ではなく、実は詩人であったことは、彼が残した数々の聖体賛歌でわかる。カトリックが歌っているラテン語の優れた聖体賛歌は、ほとんどが作者は聖トマス・アクィナスだ。

彼は自分から作ろうとしたのではない。教皇から依頼されたのだ。聖体についての神学、そして聖体についての典礼や歌を作るよう、依頼された。そして彼は実は詩人であることがそれで分かった。

詩人は、心に感動がないと作れない。いかに彼の心が感動していたかが、分かる。トマスの歌を歌う人は皆感動する。

その短い歌詞の中に神学が見事に簡潔にまとめられる。そしてそれがうまく並べられる。しかも韻がつく。

また、晩年の逸話がもう一つ。
彼の罪の告白を聞いた聴罪司祭は、列福調査か列聖調査のときにこう語ったと言う。「彼の罪の告白は5歳の子供のようであった」。もちろん司祭は許しの秘跡の守秘義務があるので、許される範囲で語ったのであろうが。

知性では秀逸、しかし心は罪に対して5歳の子供。純粋無垢という意味だ。

列聖調査のときに、トマスには目立った奇跡がないことが問題になった。時の教皇はこういった。「彼が解決した問題の数々、このひとつひとつが奇跡だ」。これほど彼の解決した問題はすごかった。

よく覚えていないが、話によると、200年来議論されてきたことがトマスによって決着がついたものもあるという。そういうものはいくつもあると思う。

わたしも具体的には、原罪の教義について書いてある本を読んでいたときに、歴史の中でいろいろに議論されていた問題が、トマスによって見事に説明されていたのを読み、驚いたことがあった。「ああ、こういうことか」と思った。

「リンボ」についてこのブログで書いた項目があるが、この中でもトマスの解決についてふれた。昔から、キリスト教神学者たちは、洗礼を受けていない者の救いについて真剣に考えた。

あるプロテスタントの方がコメントをよこしてくださった。わし自身逆に感動してしまったコメントなので、ちょっと引用させてもらいたいが、

「私はプロテスタントの教えしか聞いたことがなかったので、煉獄やリンボというものについて知らず、神父さまのブログの記事を通し初めて教えていただきました。
…なんだか心の底からホッといたしました。
天国か地獄かの二つしかないと聞いておりましたので…信者になって以来…もう30年にもなるのですが、いろいろな悲しい出来事があるたびに、信者になる前よりもむしろ不安や恐怖、疑問で心がいっぱいになっておりました。
大きな重荷をおろし、初めて安らぎを得られました。本当にありがとうございました。」

わしはブログをはじめて本当に良かったな、と思った。このコメントだけでもわしが救われる。

さて、このリンボの見事な解決を示したのもトマスらしい。興味があれば、読んでみて欲しい。カテゴリーは教義だ。わたしは納得した。今でもリンボについて勉強会などで使わしてもらっている。未信者の親戚・友人が多い日本社会では、必要な知識ではないだろうか。

トマス雑感、本当にわたしの手に届かない、感動する人だ。残した業績があまりにも大きい。

トマスやスコラは万能ではない、と書いたが、この項では「これだけすばらしい人だ」ということが書きたかった。決してスコラを嫌わないで欲しい。

日本宣教のためにはけっこうスコラは必要ではないかと思う。なぜならば、さまざまな思想、文化と取り組んできて、それにキリスト教の洗礼を授けたからだ。

そしてギリシア・ローマ哲学という壮大で見事なヨーロッパ文化のインカルチュレーションに成功した。(※inculturation=文化内受肉と訳される。文化の中に福音を入れること、あるいは文化を福音化すること)

それがスコラ神学だ。
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