神父の放言

言いっぱなし。そんな風に気楽に語りたいもんじゃ。

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まことのユダヤ教徒

2015-08-05 | 聖書

〈1〉旧約(ユダヤ教)を廃止するのではなく完成するキリスト


「私は廃止するためではなく完成するために来た」(マタイ5章)とキリストはおっしゃった。しかし当時の宗教指導者たちは、キリストがモーセの律法を変えようとしている、と非難した。しかし変更や廃止のように見えて、キリストはさまざまなものを完成なさった。

マタイの5章―7章の山上の垂訓の中では、キリストによって「廃止ではなく完成した」倫理的教えの数々がまとめられている。「敵を愛しなさい」というのもその中にある。
ヘブライ人への手紙の中では、いけにえの動物や祭司制度など、キリストが完成したがために廃止されることになったいくつかのものが取り上げられている。ヘブライ書の著者は、「力あるものが到来したために、今までの力のないものは廃止される」(cf.7:18)といって、モーセの律法の主要なものがいくつか廃止されたことを宣言した。これは当時では驚くべきことであって、こんなことを書くと、伝統的ユダヤ人から命を狙われるほど危険なことだった。

キリストは旧約聖書(ユダヤ教)を完成した。新約は旧約の中で準備され、旧約は新約によって照らされる、とのちの聖なる学者(教父と呼んでいる)たちは表現した。



〈2〉真(まこと)のキリスト教徒は、真(まこと)のユダヤ教徒とも言いうる


ユダヤ教はキリスト教に継承された。ただし、このイエスをキリスト(救い主)として受け入れなかったユダヤ人たちは今日でも旧約聖書の掟を厳しく守って「ユダヤ教徒」として生きている。

彼らはユダヤ教徒であるが、しかしまことのキリスト教徒もまことのユダヤ教徒といえるかもしれない。ユダヤ教の聖書が予言したメシア(油注がれた者という意味。ギリシア語ではキリスト)を受け入れ、ユダヤ教の神が望まれたようにキリストを信じたのだから。もとより、ユダヤ教の神もキリスト教の神も同じ神だが。

ユダヤ人がキリスト教を受け入れるとすれば、それはユダヤ教を捨てることではなく、まことのユダヤ教徒となることだ。キリスト教はユダヤ教の部分(旧約聖書)を捨てていない。大事にしている。ただキリストによってもたらされた出来事が旧約時代のいろいろな出来事を凌駕しているので、キリスト(新約)が中心となる。

新約は旧約の中で準備され、旧約は新約によって照らされる。



〈3〉キリスト教とヨーロッパ思想の対決、そして包括


さて、ユダヤ教の文化の中で発生したキリスト教は、その教えの性格ゆえにユダヤ教の枠を脱し、世界宗教となっていくが、ヨーロッパ世界に広がるにしたがって、すぐにギリシア・ローマなどの思想と対決することになった。プラトンやアリストテレスなどを学んだ多くの学者がキリスト教を信じるようになった。そしてキリスト教とギリシア・ローマ哲学の統合が行われていった。

キリスト教神学の歴史とは、このような思想の中での発展だった。そして中世の聖トマス・アクィナスにおいて、一応の統合の完成が見られる。聖トマス・アクィナスはアリストテレス(ギリシア哲学、前4世紀の人)に洗礼を授けた、という言い方がされる。それは、非キリスト教徒であるアリストテレスの哲学をキリスト教的観点から受け入れ、統合したので、アリストテレスがあたかもキリスト教徒になったかのようだからだ。アリストテレスの哲学はキリストの教会から捨てられることなく、キリスト教に受け入れられ、利用され、キリスト教を豊かにした。

カトリックは異教的哲学であるプラトンやアリストテレスその他を排斥するのではなく、対決し、良いところを受け入れ、間違いを正し、異教的哲学によってキリスト教を歪曲するのではなく、むしろキリスト信仰の元に諸思想を包含し、カトリック信仰を豊かにしてきた。


〈4〉カトリックは包括的


ときにキリスト教は排他的と見られることがある。これはキリスト教の教派にもよる。しかしカトリックは排他的ではない。カトリックも時代によっては排他的だったことはあるが。

キリスト教が生まれたときすぐにヨーロッパ世界に広がったのでヨーロッパ哲学とぶつかることになったが、初期の代表的な教父(教父とはキリスト教古代の聖なる学者たちを指す。例えば聖アウグスティヌス、聖ヒエロニムスなど)はギリシア哲学の中にキリストの種がある、と見ている。そしてキリスト教を「真正の哲学」と呼んだ人もいる。このように他文化思想を受け入れる態勢があり、またそうせざるを得なかった。

カトリックは排他的な時代もあったが、現代の公式な見解は「他宗教をも評価する」というものだ。これははっきりしている。ただし、キリストの絶対性を捨てているわけではない。さまざまな宗教の中にもキリストの福音の種がある、キリストへと通じるものがある、と見ている。福音への準備とみている。



〈5〉諸宗教比較の3つのタイプ――カトリックは「包括主義」を取る


日本においては仏教や儒教との関わりを考える必要がある。すべてのよいものは同じ源から来る、つまり神から来る。旧約聖書(ユダヤ教)がキリスト教に比べて完全でないからといって神から来たのではない、とはキリスト教は言わない。神に啓示にも段階があると考える。神はユダヤ民族への啓示によって、キリストへの道を準備なさったと教会は考えている。

同じように考えるならば、他宗教が、もしそれが本当に良いものであるならば、たとえキリスト教と比べて不完全なものであっても、それが神から来たのではない、とは言わないと思う。啓示にも段階がある。


さて、日本にもいろいろな宗教があり、仏教の中にもいろいろな経典、宗派がある。

諸宗教を考えるときに3つのタイプがある。排他的タイプ、多元主義タイプ、包括主義タイプ。排他主義は読んで字のごとく、自分の宗教のみを正しいとし、他のすべての宗教を排斥する考え。多元主義とは排他主義の逆で、「どの宗教でもよい」というものだ。包括主義は、「どの宗教も捨てるべきではなく、かといってどれでも一緒というわけではなく、この教え、あるいはこの経典を頂点に、重要性が秩序付けられている」という考え。キリスト教では当然のことながら、キリストを頂点として、他の思想や宗教が秩序付けられることになる。

日本思想の中でこの包括が見られるのは空海が初めではないだろうか。彼は若い頃仏道に入るとき、道教と儒教と仏教を比較して、なぜ仏教を取ったのかを述べている(『三教指帰(さんごうしいき)』)。また仏教の中にもいろいろな経典があり、同じ仏教といっても経典によっていろいろ違うので、仏教の諸経典を比較して、『大日経』を頂点に諸経典を10段階に順序付けている(『秘密曼荼羅十住心論』)。そのやりかたは、人間の成長を、動物的段階から道徳的段階、そして悟りを得る段階と10段階に分けて、それぞれの経典を当てるというやり方だ。

このやり方は排他でもなく多元でもなく「包括」だ。以降、日本の仏教界のみならず、神道、儒教でも空海のこのやり方に倣って、自らの教えを頂点とする諸宗教包括の理論付けがなされてきた。

キリスト教がこの中に入ってくるとどうなるだろうか。



〈6〉キリスト教信仰に酷似している浄土真宗


さて、仏教も大きく分けると小乗仏教と大乗仏教とあるが、大乗仏教になるとキリスト教との相似点が際立つ。そして法然の浄土宗になると、その相似がいっそう強まり、親鸞の浄土真宗では相似は頂点に達する。浄土宗は阿弥陀仏(あみだぶつ)信仰を中心とする絶対他力信仰であるが、その信仰のあり方はキリスト信仰と極めて似ているところがある。

ただし阿弥陀仏は歴史的に存在していたとは考えられていない。少なくとも現代の科学的世界観から見ればそうなる。そのように認める浄土宗神学者もいる。しかし歴史的実在ではなかったにしても、霊界の実在というものがある。

さて、このようなわけもあってか、浄土真宗からキリスト教に転向した人の中に「キリストこそまことの阿弥陀仏だ」という人がおり、私も何人かから聞いた。確かにそのように言いうる。キリスト教神学から見れば、阿弥陀仏はキリストの予表、予型、かたどりであると言っていい。



〈7〉キリストの予表、予型、象り(かたどり)という考え方


予表、予型と言う考え方はキリスト教神学の中で一般的だ。旧約聖書の出エジプト記で見られるいけにえの子羊は、イエス・キリストのいけにえの予表であるとか、出エジプトの過ぎ越しの出来事は、キリストの死と復活でなされた救いの出来事の予型であると考えられている。

また例えばキリストの言葉の中に、「モーセが砂漠で青銅の蛇を挙げたように、人の子も挙げられなければならない」(ヨハネ3章)というものがある。モーセの時代、人々が神に背いて砂漠で蛇にかまれたとき、モーセの作った青銅の蛇の像を仰ぎ見ると救われたという話しがある。それと同じように、キリストも十字架に上げられ、人々はこのキリストを仰ぎ見、信じることで救われるとおっしゃりたかった。人々が仰ぎ見た青銅の蛇は、キリストの予表である、とキリスト自らおっしゃっている。

このように旧約聖書の中に、将来のキリストを指し示すさまざまな予表が埋め込まれ、人々はそれに気付かなかったが、キリストが到来してから改めて聖書を読むとそれに気付く、というものだった。新約は旧約の中で準備され、旧約は新約によって照らされる、という言葉があるが、こういったことを指している。キリストは「(旧約)聖書は私について証しをする」(ヨハネ5章)と述べている。



〈8〉キリストを信じても真(まこと)の阿弥陀教信者でありうる


さて、まことのキリスト教徒はまことのユダヤ教徒だと言いうる。ユダヤ教からキリスト教に改宗しても、その人はユダヤ教を捨てたのではなく、継承したのであり、ある意味でまことのユダヤ教徒となった、と言える。旧約聖書(ユダヤ教)の信仰はキリストによって完成され、キリスト教信仰をを豊かにする。

同じように、キリストを信じた阿弥陀教信者は、阿弥陀教(浄土宗・浄土真宗)を捨てたのではなく継承しているのであり、まことの阿弥陀教信者である、とも言いうる。そして阿弥陀教はキリスト教を豊かにする。阿弥陀は歴史的実在者ではないだろうが、霊界における実在者であろう。それはまさにキリストを指し示している。キリストの象り(かたどり)、予型といってもよい。キリストは霊界においても歴史的においても実在者となられた。多くの日本人が信じている阿弥陀仏とは実はキリストのことを指しているのだ、とキリスト教信仰からは言いうる。パウロが日本人として現代に生きていれば、そのように言うだろう。阿弥陀教はイエス・キリストの予表であり、イエスという存在によって歴史的実体が与えられ、完成される、と言いうる。このように、イエス・キリストへの信仰が仏教を完成する可能性がある。

そう考えると、浄土真宗の信者を数多く抱える日本には、キリストへの信仰の種を持っている人々が多くいると考えてもよいし、本人たちはそう言わないだろうが、来るべきメシア(キリスト)を待ち望んでおり、阿弥陀仏の実体である方(キリスト)を待ち望んでいると言いうる。


他の仏典においても、キリストを指し示すものが豊かに見られるに違いないが、これらを見出し、著述するのはキリストを受け入れる今後の仏教徒、仏教学者たちの仕事となるだろう。彼らは仏教を捨てるのではなく、おそらく継承するのであり、キリストを信じる仏教徒というのは相反しないと私は信じる。もちろん、輪廻(りんね)のように、キリスト教と教義的にぶつかる概念もあるが。キリストが仏教教義におけるさまざまなものを完成する可能性がある。キリストによって仏教や儒教が包括される、照らされる、完成される可能性がある。多くの人々が潜在的に、深層心理的にキリストを待ち望んでいる。

このように見ると、神が旧約聖書の教えを通してユダヤ民族を教え導き、来るべき者によって完成なさったように、神は日本民族を仏教を初めさまざまな教えによって養い、来るべき者(キリスト)へと導き、来るべき者によってそれらを完成なさる、と見ることができる。



〈9〉啓示の頂点であるキリスト

キリストとは歴史的存在者であるが、その本来のお姿は父と子と聖霊の三位一体の神、その「子」にあたる。おん父と共にご一体の神であり、天地創造の前から存在し、おん父と共にこの世をお作りになった。宇宙と生命の根源であるお方だ。はじめであり終わりである方、アルファでありオメガであられる。

神はこの独り子を世にお遣わしになるご計画をお立てになった。これが神から人類への啓示の頂点となる。そのために、ユダヤ民族をお選びになり、準備をなさったが、他民族をもいろいろなしかたで準備なさったことだろう。この方によって造られた人類は、この方を認識するように方向付けられる。

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キリストを迫害した人々

2015-08-01 | 聖書
キリストを迫害し、死に追い詰めた人々は、皮肉なことに「自分は最も信心深い者だ」と思っていた人々だった。そんなことがありえる。ファリサイ派と律法学者たち、彼らは当時のユダヤ教社会の宗教的指導者、権威者だった。聖書を最もよく知っていた人々だった。

しかし知識で知ることと、心で知ることは違うのだろう。

後にキリスト教に改心してもっとも大きな功績を挙げたパウロは、以前は熱烈なファリサイ派だった。そのときの反省があってか、手紙の中でこのようなことを言っている。
「知識は高ぶらせるが、愛は作り上げる」。(Ⅰコリント8章)
「文字は殺し、霊は生かす」。(Ⅱコリント3章)

律法を知っているだけでは、「文字は殺し」「知識は高ぶらせる」ことになる。律法を行い、愛に生き、聖なる神の霊によって生かされなければ、律法を知ってかえって悪しき人間になることもある。彼らは民衆を見て、「律法を知らないこの人々は不幸だ。」「呪われている」(ヨハネ7章)と言い、さげすんでいた。

多くの人がイエスのなさる業を見たり、説教を聞いて「この人こそメシアだ」と思ったが、ファリサイ派の人々はそのあら探しばかりした。そしてイエスの揚げ足を取ろうとしていろいろ質問した。それがうまくいかないと見ると、イエスを殺す相談を始めた。

彼らはイエスの革命的な教えを聞き、その行いを見て、「モーセの教えと違う。聖書に反することをしている」と考えた。だから許してはならないと思っていた。しかも自分たちの偽善をイエスが厳しく指摘する。われらこそはメシアに最も気に入られると思っていたのに、このイエスの前では立つ瀬がない。民衆の前で恥をかかされる。

「聖書は私について書いているのに、あなたたちは私を殺そうとしている」(ヨハネ5章)とイエスは言われた。

またファリサイ派や律法学者たちが昔の預言者たちの記念碑を立てて、「私たちがその時代に生きていたならば預言者を殺さなかっただろうに」と言っているのをイエスが聞いて「あなたたちは先祖の悪行を完成したらどうだ」(マタイ23章)と皮肉をおっしゃった。案の定、彼ら自身が、預言者の中の預言者であるキリストを死に追いやることになる。

このようにして、聖書に最も詳しかったファリサイ派と律法学者たちが、聖書が予言していたメシアを死に追い込む先導をした、という皮肉な結果になった。これは現代でも繰り返される。神学を勉強した者でも、実はまことのキリストを知らない、ということがありえる。キリストを文字や知識だけで学んでもダメだ。心で読み、実践しなければダメだ。現代、もしキリストが予期しないお姿で来られたならば、「私こそ聖書の先生だ」「神学を知っている」「大変信心深い」と自認する者が、率先してキリストを教会から追い出す、ということが極めてありえる。司祭も気をつけなければならない。またよく教えを知っていて熱心だと自認する信徒も気をつけなければならない。

聖書について最もよく知る者が、一番聖書に反することをする、ということがありえる。これは他宗教でも同じだろう。仏典を最もよく知ると自認する者たちが、最も仏典に反することを行っているということがありえる。

私たちは聖書を知れば知るだけ、へりくだりたい。

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罪があふれるところに、恵みはさらにあふれる

2015-07-22 | 聖書
〈1〉聖書の心は忘れられやすい

論語読みの論語知らず、という言葉がある。聖書を読んでも実は聖書を知らないことがある。

聖書読みの聖書知らず、ということは大いにありえる。ファリサイ派や律法学者はそうだった。最も聖書を知っていたのに、聖書の心を知らず、来るべきメシアを迫害した。現代でも聖書や神学に詳しい者が、キリストが実際においでになると迫害するだろうことはありえる。聖書は心で読まなければならない。

聖書の心・聖書の文底は忘れ去られやすい。イエス・キリストの愛の啓示は忘れられやすい。いつの間にか、イエスの神は恐ろしい神だ、というふうに変わってくる。愛の神ではなく正義の神、旧約時代の神となってしまう。神の清さを強調するために、人間の悪を極度に強調したヤンセニズムなどは大変厳しい神観を信者に植え付け、行き過ぎた畏怖の心を起こした。



〈2〉時代によって信仰や愛の力が減退する、という考え

さて、時代によって信仰は推移するのだろうか。
キリストは世の終わりにご自身が再臨することを述べて、「果たして私が来るとき、地上に信仰を見出すだろうか」(ルカ18章)とおっしゃった。そのころには地上に信仰を見出すことが難しい、という意味だろうか。時代とともに信仰が薄くなり、時代とともに推移することを述べておられるようにも見える。また世の終わりのことを述べて「不法がはびこるので愛が冷える」(マタイ24章)ともおっしゃった。愛のあり方にも推移が見られるのかもしれない。



〈3〉聖心(みこころ)の信心の意味――冷えた愛を再び暖める

カトリック教会では時代に応じて新しい信仰の形態が示される。私的啓示などによって神から示される。
カトリックには「イエズスのみ心」の信心がある。17世紀にフランスの修道女、聖マルガリタ・アラコックに与えられた私的啓示に基づくもので、教会はこれを審査し、現在は公的な典礼で祝われている。


イエズスのみ心の啓示に関しては、すでに13世紀の末に、聖ゼルトルード(1256-1302、ドイツのベネディクト会修道女、神秘家)が神からその計画の一端を示された。ヨハネの祝日に、聖ゼルトルードは主のおん胸に憩うという大きな喜びを体験した。これは使徒ヨハネが最後の晩餐でイエスの胸に頭を持たれかけていたのと同じ体験だ。そして聖ヨハネは、「この心臓の鼓動の甘味さを人々に知らせることは、後の世に残されている。世の愛が冷えた時、この不思議を世に示すことが、老衰しつつある世を暖めるのである」と彼女に言われたという。

聖ヨハネの言う「後の世」というのが17世紀のアラコックへの啓示のことだろう。「世の愛が冷えたとき」ということばは、愛のあり方が時代を経るにしたがって推移することをほのめかしているように思う。そのときにこのみ心を示すことが、「老衰しつつある世を暖める」意味を持つ。

よく知る人は、聖ゼルトルードへの個人的な啓示がイエズスのみ心の第一の啓示と考えている。第2は聖マルガリータ・アラコックへの啓示であり、私的啓示でありながら、教会内に広めてほしいという神の意向を伴っていた。



〈4〉時代の困難さに応じて神からの助けが示される

時代は世の終わりへ、終末へ、末世へと進んでゆく。そして信仰や愛が失われてゆく。だから末世の人々は苦しむことになる。この中では新たな信仰の形態が求められるのだろう。その一つが「イエズスのみ心」の信心だろう。また20世紀にはポーランドの修道女、聖ファイスチナに「神のいつくしみ」の私的啓示がなされ、これも教会に認められて全世界に広まった。(日本ではそれほど知られていないが、世界的にはこの信心は大変盛んだ。)罪人たちが神の慈しみにより頼むようにとの招きだ。「罪深い者こそ、私に慈しみを受ける資格がある」という言葉もある。これは聖書のメッセージと合致する。冷え切った時代の人々は信仰者であっても心が冷えてしまう。だからといってふさわしくない自分が神に近づくことを恐れるのではなく、神の慈しみに信頼してむしろ近づかなければならない。近づくことによって私たちは暖められ、平和が与えられ、愛することが可能となる。

ふさわしくなってから神に近づく、という順番もあるが、神に近づくからこそふさわしくなれる、という逆の順番もある。



〈5〉諸信心は聖書の心を思い出させてくれる

このように、「イエズスのみ心」や「神のいつくしみ」、また「聖母マリアの汚れなきみ心」など、時代の必要に応じて啓示が与えらているように思う。これらの私的啓示は聖書のメッセージから逸脱するものではない。聖書に現れた神の愛の啓示はいつの間にか忘れられて、恐ろしい裁判官の神となる。そのつど、聖書の心、聖書の文底に帰り、イエスによって示された神の愛はどれほどのものか、ということを思い出させてくれる。これこそ聖書の中心であり、キリスト教の出発点だ。これらの信心は私たちの信仰を聖書の心・聖書の文底へと戻してくれる役割を持っていると、自分なりに理解している。

時代とともに罪が増し、社会が罪に汚染され、私たちの人間性が未熟化するのであれば、わたしたちは到底神に手が届かなくなってしまう。信仰と愛が未熟化する。しかし父である神は、子供が未熟であればあるほどかがみこんで子供に自分を合わせ、そこから引き上げてくださる。未熟化し、幼児化するのであれば、私たちの側からは神に到達できないが、私たちを救うための手段を神が提供してくださる。

その救いの根源は、人となられた神の子イエス十字架のいけにえだ。これが聖書すべての根源だ。それは神の愛の最高の表現であった。わたしたち人間は、自分の力により頼むのではなく、神であるイエスの無限の功徳により頼むことによって救いを得る。それは昔も現代も同じ。「イエズスのみ心」の信心も、「神のいつくしみ」の信心もすべてそこから力を汲み取っている。



〈6〉罪人を瞬時にして救ってくださるキリストの力

修行を積んで聖人となる人もいる。しかし聖人とはいかなくても神は人を救ってくださる。み言葉の「種」を播き、これに水をやって「成熟」させ、実をつけ、私たちは救いにいたる。しかしごくわずかの時間で救ってくださることもある。

イエスが十字架につけられたとき、両側に2人の罪人が磔刑にされたいたが、そのひとりがイエスの苦しむさまをみて「この方は何も悪いことをしていないのに私たちと同じ刑を受けている」ことに驚いて神への信仰を起こし、「イエスよ、あなたがみ国へおいでになるとき、私を思い出してください」と言った。するとイエスは「私は言う。あなたは今日、私と一緒に天国にいるであろう」とおっしゃった。へりくだり、信仰を起こした罪人が一瞬にして天国を約束された出来事だった。イエスの十字架にはそれほどの力がある。(ルカ23章)

神は修行を積んだ人も、積んでいない人をもお救いになることができる。キリストがご受難とご復活によって勝ち取られた永遠の功徳が私たちを救う。聖なる人も罪人をもお救いになることができる。昔のよき時代の聖人たちをも救うことができ、近現代の末世の未熟な人間をも救うことがおできになる。キリストのおん功徳は無限だ。



〈7〉リジューの聖テレジアが示した霊性が世界に広まる

時代に応じた信仰のさまざまな形態、という意味ではリジューの聖テレジアの示した霊性がある。

19世紀のフランスの聖女、リジューのテレジアは日本の信者の間でも人気がある。彼女が自叙伝で示した道は新たな霊性であった。それは「子供の道」「委託の道」。昔の聖人のような難行や苦行、さまざまな修行が心理的に困難になってきたと彼女は感じたのだろうか。無力な自分を認め、それを差し出し、慈しみ深い父である神に運んでもらう道を彼女は見出した。

それは瞬く間に全教会に広まった。日本のある司教は、聖テレジアの霊性がカトリックの神学を変えた、とさえ言った。



〈8〉まとめ

苦行や修行を重んじる時代もあれば、無力な自分を差し出して神に引き上げてもらうほうがよい時代もあるように思う。時代によって変化がありえると思う。聖書の心は変わらない。困難な時代となり、信仰と愛が冷え切ってしまう時代には、神はますます人間の方にかがみこんで、ご自分の慈しみと愛により頼むようにと招かれる。

「罪があふれるところには恵みは更にあふれる」(ローマ5章)とパウロは言っている。

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キリストの神性

2015-07-15 | 聖書
ヨハネ福音書の有名な出だしに、「初めに言葉があった」というのがある。
新約聖書はギリシア語が原語であるが、この出だしを訳すのは難しい。
ギリシア語では「初めにロゴスがあった」となる。そしてこのロゴスという言葉は実にいろいろな意味があって「言葉」と訳すだけでは実に物足りない。

ギリシア語のロゴスには「理性」「道理」「法」「宇宙を貫く真理」などいろいろな意味がある。当時のヨーロッパ哲学の中では特別な意味合いで用いられていた。聖書にもともとあった「言葉」の概念もあるが、ギリシア哲学、ローマ哲学に見られる有名な「ロゴス」の概念を、キリストを説明するものとして使ったような感じがある。ヨーロッパ世界の人々にはこれでピンと来たに違いない。


「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」そしてこの言葉(ロゴス)こそイエス・キリストが人間となる前の永遠のお姿であった。イエス・キリストは宇宙のロゴスであった。宇宙と生命を貫く根源の真理であった。

キリスト教では父と子と聖霊の三位一体の神の、第二位である「子」がキリストに当たると教える。

「万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1章)

神であるおん父と共に宇宙万物を創造された「子」である神、キリストとなるロゴスが、肉をとって人となり、世に来られた。

聖書は次のように言う。
ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある』」(ヨハネ8章。)

最後の晩餐の時には次のようにお祈りになった。
「父よ、今、御前(みまえ)で私に栄光を与えてください。世界が造られる前に、私がみもとで持っていたあの栄光を」。(ヨハネ17章)

イエスは天地創造の前から、久遠の昔からおん父と共におられ、おん父と共に一体の神であった。


このロゴスという概念は、意味内容の近いものがヨーロッパ以外にもある。仏教で言う「法(ダルマ)」も中国古典で言う「道」の概念もとても似ている。

老子の説く『道徳経』には次のように書かれている。

「形はないが、完全な何者かがあって、天と地より先に生まれた。それは音もなく、がらん堂で、ただ一人で立ち、普遍であり、あらゆるところを巡り歩き、疲れることがない。それは天下(万物)の母だといってよい。その真の名をわれわれは知らない。(仮に)『道』という字(あざな)をつける。」(25章)

「『道』はむなしい容器であるが、いくら汲み出しても、あらためていっぱいにする必要なない。それは底がなくて、万物の祖先のようだ。(その中にあっては)全ての鋭さは鈍らされ、すべてのもつれは解きほぐされ、全ての激しい様子はなだめられ、全ての塵は(払い除かれ)なめらかになる。常に深々と水をたたえた深い池のようだ。それは何ものの子であるのか、われわれは知らない。(だが、それは実質の捉えがたい)すがたとして、(太古の)帝王より以前から存在していた。」(4章)


中国における「道」の概念と、キリスト教における「ロゴス」の概念の近似性は多くの人に気付かれた。明治カトリックで聖書を日本語訳にしたフランス人宣教師、ラゲ神父は、来日する以前、中国にいたらしいが、そこで彼が(日本のために?)訳した聖書では、
「初めに道があった」となっていた、と博学のある神父に聞いたことがある。

中国で言う「道」が受肉して人となり、それがキリストだと捉えることになる。ちょうど、ヨーロッパで言う「ロゴス」が受肉して人となり、それがキリストだ、と聖書が教えるように。

またあるプロテスタントの聖書の訳では「太初に道があった」としていて、「太初」にふり仮名を振って「はじめ」とし、「道」に振り仮名をふって「ことば」としていた。漢字としては「太初に道があった」となるが、読み方としては「はじめにことばがあった」となる。大変味わいのある訳で、漢字の意味が、ギリシア語の言語をぴったりと当てはめている。

「太初」には「はじめ」では言い表せない深い意味がある。つまり広辞苑では「天地のひらけたはじめ」としている。また「道」には「ことば」という訳では言い表せない深い哲学的な意味が隠されている。それは上記の通り。


インドではブラフマンという概念がある。広辞苑では「インドのバラモン教における宇宙の最高原理」とある。もう少し詳しい説明を読むと

「至高の絶対者や究極原理を意味する語として用いられた。」
「ブラフマンは実在、意識、至福、真実、善、美としても述べられる。更に超越した魂、至高の魂、宇宙の魂、最高の精神、最高の絶対、絶対的な一致、超自然的な知性などを意味する。」
「ウパニシャッドによれば、ブラフマンは『私は多くのものになるように』という言葉を発することによって世界を生じさせ、その後世界を維持し、世界を再吸収した。」
とある。

最初のところは「ロゴス」の概念と近似し、最後のところは聖書のコロサイ書1章
「万物は御子(みこ)において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」
を思い起こさせる。

このように「道」「ブラフマン」「法(ダルマ)」など、世界の東西に「ロゴス」に似た観念があり、これこそ宇宙万物の根源であり、永遠の真理であると説かれてきた。文化によってこのように名前は違うが、とらえているものは同じのようだ。それはロゴス(み言葉)と同じことだ。この方が肉をとって歴史上に存在したのがイエス・キリストだと私たちは信じる。

キリストは久遠の昔からロゴスであり、神の子であり、神であったと教える。

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すべての人の救い

2015-07-08 | 聖書
キリストによってさまざまな価値転換が行われた。

ユダヤ人よりも異邦人が救われる。
大人よりも子供たちのほうが天の国に入る。
正しい人ではなく罪人を救うために来た。
富んでいる人よりも貧しい人々が幸い。
あとの者が先になり、先のものが後になる。

旧約聖書の中でユダヤ人は神から選ばれた選民であった。キリストもユダヤ人であり、ユダヤ人の間で宣教したが、ユダヤ人が捨てられ、異邦人が救われるだろうという予言がなされる。といっても、初期のキリスト信者は皆ユダヤ人であったから、捨てられるといっても皆ではないが、ユダヤ人はキリストを死に追いやり、また、その後もユダヤ教の宗教指導者たちがキリスト教を迫害することになる。

しかしいずれ、神はユダヤ人たちを顧みてくださる、とパウロは言っている。


また大人ではなく、子供のような心を持つ人こそが天の国に入るとお教えになる。
キリストに近づこうとする子供たちを周りの大人たちが阻害したので、キリストは「子供たちを私のもとに来させなさい」とおっしゃった
また「子供のように心を入れ替えて天の国を受け入れる人でなければ、決して天の国に入れない」(マタイ18章)。清らかで純粋で、信じる心を持たなければならない。


富者ではなく、貧しい人こそ天の国に入る。
「貧しい人は幸いである。天の国はその人のものである。」(マタイ5章)
「金持ちは不幸だ。金持ちが天の国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりも難しい。」
貧しく謙虚で、人を踏みつけない者たち、自分のありのままの姿を知る者たちでなければならない。
旧約聖書の世界では富者は神に祝福された人々だと考えられていた。だからこの教えを聞いた人々は驚いた。
キリストご自身も貧しい家に生まれ、生涯貧しくお暮らしになった。


正しい者ではなく罪人が先に天の国に入る。
正しいといっても、自分を正しいと思って人を見下す人たちのことを指していて、一般的に正しい人を否定しているわけではない。ファリサイ派や律法学者たちの正しさは本当の正しさではなかった。キリストは彼らに向かって言われた。
「あなたたちよりも遊女や徴税人のほうが先に天の国に入るだろう。なぜなら彼らは信じたからである」(マタイ21章)。徴税人は当時、罪人の代名詞のように使われていた。
「医者を必要とするのは病人である。私が来たのは正しい人のためではなく罪人のためである。」(マタイ9章)
「私は罪人を探して救うために来た」

真に正しい人を神はお喜びになる。しかし正しさにうぬぼれ、人を見下す人を神はお認めにならない。また人はすべて罪人であり、神の許しを必要とする。自らの罪深さを認め、へりくだって神の助けを願う人が真に正しい人となってゆく。


このように、誰が救われるのか、という考えについて大きな価値転換が行われた。

ユダヤ人よりも異邦人、大人よりも子供、正しい人よりも罪人、富んでいる人よりも貧しい人々。あらゆる人が救われる可能性がある。今まで救われがたいと思われていた人々にむしろ救いの可能性がある。謙虚で素直に信じる人々のほうが救われる可能性が大きい。

「先の者が後になり、後の者が先になるだろう」(マタイ19章)


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