一法学生の記録

2014年4月に慶應大学通信部に進んだ法学生の記録である
(更新)2017年4月に神戸大学法科大学院へ進学しました。

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『テオクラシー』-中世の教会と権力―

2017-09-17 14:44:44 | ヨーロッパ中世政治思想
『テオクラシー』-中世の教会と権力―

第一章 基本的概念
一 古代の遺産
A ローマ帝国治下の教会と国家
○ストア哲学は、国家の存在を、普遍的なものと考えた。
○使徒時代における、神ー皇帝ー信徒 の考え方
○【390年】聖アンブロシウス(332-397)は、ヴァレンティアヌス二世に対して、宗教問題についての聖職者の優位を訴え、テオドウシス帝を破門にした

B 聖アウグスティヌス 
○【5C】西ローマ帝国の没落
○アウグスティヌスは、聖俗両権の分解について、俗界の崩壊は、天界の崩壊とは異なることを説いたが、人々の時間軸についてのある種の誤解が生じた
○アウグスティヌスの説法から、教会に聖俗両権への介入を認容する解釈を生じた

C ゲラシウスの説法
○ゲラシウスの説法とは、二元主義であり、王の権力の唯一の源泉は神であり、教会も然り。だが、権威はつねに、教会にのみ付与されるとする、理論。

二 蛮族王国の道徳的指導
A 新しい時代
○6~7Cは、曾てキリスト教を擁護したテオドウシス帝やコンスタンティヌス帝はとうの昔話であり、異教徒の王を前にして新たな教会の姿を示す必要があった。
○異教徒たる蛮族の王と共有するため、教会は王たちの導き手として、権威を回復していく

B 大グレゴリウス
○コンスタンティノープルのヨハネス大司教とローマのグレゴリウス教皇との間でどちらが正統かの争い
○グレゴリウスは皇帝マウリキウスから、ローマ司教でありローマ教皇に認可されることに、大きな疑いを持たなかった
○【593】ビサンツ皇帝は、官吏に聖職に就くことを禁止し、官吏と軍人が修道士になることを禁止する、法を発布し、グレゴリウスは後者に反対した。
○グレゴリウスは、帝国が教皇権に隷属するという観念を有していないため、ビサンツにおいては斯く振る舞ったが、ゲルマン新興諸国の西欧においては、一切の公権力を拒否することができた。
○グレゴリウスは、自分を君主たちの道徳的助言者として、考えた。
○大グレゴリウスは、王権の教権に従属するを問わず、ただ、王たちがいかに振る舞うべきかの指針を与え、世俗権力を慣習に浴していた王たちは、これに素直に従った、こうして霊的権威を高めることに成功した。

C 説教の完成
○【7C】の西欧は、依然無政府状態であり、スペインでは司教の選挙により、国王が任命され、国王はこれに服した。
○イシドールスは、王権が教会に裁治権を及ぼすことは、教会を保護することであり、王権がこれがために存在理由があると、述べた
○【8C迄】テオクラシー理論の生成に必要な要素、(1)聖俗二元論、(2)世俗権の範囲と教会の協力が、出来上がる

第二章 九世紀と十世紀における教皇と皇帝
一、帝国によるキリスト教秩序
A できごと
○【741】ピピン宮宰、ピピンは、教皇ザカリアスに、問いを突き立てる
○【751】ピピン王位、メロヴィンガ朝のキルデリックを修道院へ引退させる
○【754】教皇ステファヌス二世はランゴバルド族の脅威から支持を求めた、ピピンを聖別する
○【800】クリスマス・フランク王シャルルマーニュは、教皇から皇帝の冠を受ける。
○教皇ステファヌス二世は、ビサンツ帝の従属から脱するため、西欧フランク王国のピピンに協力した。
○偽コンスタンティヌス寄進状:コンスタンティヌスは、聖ペテロの後継者たる教皇に、西ヨーロッパの主権を委譲し、自身はコンスタンティノープルに退く。
○帝国は、ローマ的、フランク的、キリスト教的であり、ローマ人は歓呼賛同により、これを迎えた
○教会は神意の解釈者であり、キリスト教の目的を達するために、シャルルに聖別を与え、シャルルは霊的威厳を得た。

B 背景
○聖アウグスティヌスの新解釈(政治的アウグスティヌス主義)によれば、地の国をこそ、神の国の一表現と見做し、(これは間違っているのだが)実世界には、西ヨーロッパ・キリスト教世界が形成されていく。
○【790】アルクイヌスのシャルルマーニュに宛てた手紙には、世界は3人、ペテロの後継者たる教皇、ビサンツ帝、フランク王によって統治されるが、事実、フランク王に従うべきと。

C 権力の起源
○【9C】聖俗両権が独立しているてから、皇帝は教皇に作られるのではなく、神からその権威を授けられていると、信じられ、教皇は自らの選任に、皇帝の同意を求めたが、これには帝国の隆昌が背後にある

二 教会権威の強化
A 流れの逆転
○【814】シャルルマーニュの死により、国家権力は流動する。道徳権威は教会に帰し、教会は要求した。
○【814~822】ルイ敬虔王の治世、①教会は大きな自由を要求、②帝国の理念を高め、③教会は固有の道徳的権威を確保
○【816】新教皇ステファヌス四世は、ランスで皇帝と会見
○【817】後教皇パスカリス一世に、ランス会議の証書を送る:①聖ペテロの国を皇帝は侵さない、②教皇の選出が自由に行われる
○【817】リヨンの大司教アゴバルドウスは、キリストの神秘体と、帝国の全国民が信仰を有していると進言する。
○【822】ルイ敬虔王は、【818】イタリアのベルナールとその一味(多くが聖職者)を、余りに厳しく罰したと思いこんだ、全面悔悛を決意したーーー『アティーニの痛悔事件』
○このことは、皇帝に道を示すのが、聖職者であることを、印象付けた。
○【829】皇帝が権力を神から直接受け、その行為は神のみに責任を負う(ゲラシウス)傍ら、パリ教会会議にて、ローマ教会のみ、権威を有す(ゲラシウス)から、高位聖職者の優位を主張する
○ルイの後世は、皇妃ジョディトの影響もあり、【817】の帝国領分割を修正し、【830】の危機、【833】兄弟たちは皇帝を責める司教と連合、屈服し、ロテールが帝権の所有者となり、司教は、ルイに公の告白を課した。
○【829】司教は、公正に従って統治せよと皇帝に要求す。
○【833】屈辱の儀式:教会の権威こそ、神の決定を公にし得るという信念(テオクラシーの萌芽)
○グレゴリウス四世「教皇に属する霊的支配は、皇帝に属する世俗支配より重要であることを無視してはならない」
○【843】帝国の統一は消失する

B 霊的権威の昂揚
○【840~850】イシドールスの偽教令集:ローマ教皇のみが教会会議を召集し、司教たちを裁くことができるーーー霊的な物の不可侵と、教皇首位権(テクオクラシーの萌芽)

C 9C後半における聖俗両権の関係
○【843~855】兄弟協調:ローテル、ドイツ王ルイ、シャルル禿頭王は、帝国を分割管理し、互いに協調。この根本を支え、平和と正義を掲げたのは、カトリック教会。(帝国の統一は、いかなる犠牲の上にも維持されねばならず、世俗権が失敗することがあれば、そのときはカトリック教会がこれを握らざるをえない、という暗示)
○【855】ローテルの死、兄弟協調は終焉する。(今や統一維持の責務を負うのは教会のみと司教たちは、信じ込む)
○【858】司教ヒンクマールは、シャルル禿頭王を圧迫するルイに、長文の書簡を送り、ルイの申し出を断る「王ルイが、キリスト教的生活の規範を尊重するべき」司教たちは、神としか結ばれれいないから、すでに戴冠を認めたシャルルから鞍替えするなど(神の意志が表されないのに)、有りえない。----教会の独立と、教会の監督権を確認するもの。
○【870】教皇ハドリアヌス二世が、シャルル禿頭王とドイツ王ルイに、教皇の意に反してローテルの王位を継承しようとしたのを叱責し、司教ヒンクマールは教皇の要請に従い、シャルルの破門を拒否した。ヒンクマール曰く「教会の問題が教皇の管轄に属するならば、政治上の問題は諸王の問題だ」
○【862】ロレーヌの君主ロテール二世の離婚問題:八人の司教が妾であるヴァルドラードを正式の妻にしたローテルに対して、前の正妻との結婚無効を宣言することを承認したが、この件はドイツ王ルイとシャルルによって、教皇に調停が託された。教皇は三名の高位聖職者を指定し、再審議させたが、二名の高位聖職者を抱き込みに屈した。これに立腹した教皇ニコラウス一世は、ローテルを叱責し、二名の高位聖職者を廃位した。
○ニコラス一世は、さらに西欧で懸案になっている問題に裁定を下そうと振る舞うが、諸王の一致した反対にあっている。
○しだいに、皇帝の帝位は実際上の価値をうしない、ローマ・カトリック教会は自己保存のために、皇帝を必要とした。皇帝候補者は、権威が欲しかった。両者は利害が合致した。
○矛盾:〔教会は国家に対する道徳的権威を約目とする〕&〔属人の束縛から逃れる為に、聖俗両権の分離〕

三 帝国の再来
○皇帝と言う称号が10C前に消滅した。背景には封建制の進展があり、一方では王が最高度の正義を体現し(諸侯を従順ならしめる)、他方では封建制は公権力を制限し、王は慣習を守る役目のみ。
○【962】オットー大帝の皇帝の戴冠は、西ヨーロッパの再興を企てた。教皇ヨハネス十二世は、イタリアのベンガリウス王の脅威を恐れて、オットーは教皇援助に赴いた。この見返りに戴冠したのだが、再生した帝国は、領域的にも政治的にも、ゲルマン的なものであった。オットーは、教皇庁に対して、教皇の選出に介入しようとした。
○【800】ヨハネス八世と【962】ヨハネス十二世の違いは、オットーがシャルルのような広大な領域を把持しなかったのにかかわらず、キリスト教世界の統一の如くに、ハンガリア人に対する勝利の報酬として、オットーに対して冠を与えた形を取ったことである。
○かつて、シャルルマーニュの威信の前では、教皇がどんな意見も具申できなかったが、ヨハネス十二世は、自らが皇帝を≪創造する≫が如く振る舞ったため、衝突は避けられなかった。

第三章 グレゴリウス的テオクラシー
○【11C前】前に展開した教皇権の成果・諸原理は、教会内部の危機に応じて、首尾一貫しなかったが、それらの原理は後に、世俗権との争いを経て、テオクラシーへと磨かれていく。

一 グレゴリウス改革
A 十一世紀前半における帝国と教会
○オットー三世の治下、シルヴェステル二世が教皇となり、古ローマ帝国の普遍を愛した皇帝と強調した。彼らは、コンスタンティヌス大帝とシルヴェステル一世を模したが、帝国外は蛮族があふれていた。
○オットー三世には、シャルルの帝国概念、即ち、大ローマが神の国である政治的アウグスティヌス主義の神秘主義であり、このため、コンスタンティヌスの寄進状が、助祭ヨハネの偽造であると断言した
○【1001】オットー三世が早世し、ドイツの権力が乱れ、【1002】クレスケンティウスとトゥスクールム伯たちの陰謀により、【1045】までペテロの座を私有化した。
○【1046】ドイツ王ハインリヒ三世がローマへ秩序回復に来て、クレメンス二世を教皇に指名したとき、キリスト教世界は安堵した。こうして、皇帝は教皇座に監督の目を光らし続けた。
○【11C中】は、司教ブルカルドゥスは、教会法令集でテオクラシーと正反対の主張をするなど、皇帝が主権者としての教皇庁に従属し得ると考えられなかったし、皇帝に対して人々は教会の最高指導者を求めた。だが、一方で九世紀の伝統と962年の思い出は残っていた(ゲラシウス理論を厳格に守りたい一派)。

B 教会の危機
○【10C以降】、聖職売買と司祭畜妾が聖職者を堕落したが、封建制は、司教がその職務を可能にする封土の授与を前提にしたので、俗人の教会侵入は、避けられなかった。
○諸侯は、自らを助ける高位聖職者を望んだし、司教はその封土を必要としていたから、俗人による叙任は当然の儀式になり果てた(司教選挙と叙階式は形式化)
○諸悪の根源は俗人による叙任にあったが、グリュニー修道院は①助言や模範により教会法の制裁によって聖職者の悪と戦い、②当代の乱を苦々しく思っている人々に聖なる隠れ家を提供することで、グルニュー修道院は指示を得た。
○皇帝ハインリヒ三世も、ローマ改革派教皇レオ九世を支持し、教会と君主の密接強調した(聖俗両権の調和の理想)
○【1058】最も洞察力のある人々は、俗人叙任権は結局改革を放棄することであり、枢機卿アンベルトウスは、「聖職売買駁論」により、叙任権闘争の火ぶたが切られる。
○【1056】ハインリヒ三世の死後、教皇庁は四世の長い未成年期を利用して主導権を回復しつつあり、【1057】にはステファヌスの聖職選任には、ドイツ宮廷は批准を求められたのみである。
○【1059】ニコラス二世の教令により、教皇は枢機卿により指名され、その選挙はローマでのみ実施することを宣言し、教皇は自由を回復し、そのついでに道徳的権威の回復に野心を持った。教令にて、聖職者に俗人の手から教会を受け取ることを禁止した。
○【1061】ニコラス二世の後継、アレクサンデル二世は直ちにこの教令を守らせることに着手したが、【1065】ハインリヒ四世は成年に達した。
○ハインリヒ四世は、教会大権(教皇選出権)の回復と、叙任権を保守することを、決意しており、【1073】にアレクサンデル二世による王の顧問の破門は、教皇と皇帝の争いを惹起した。

C 闘争
○グレゴリウス七世での、別の戦いは、ローマ教皇庁の中央集権化、教皇首位権であったが、グレゴリウスはこれらをテオクラシーの霊的原理に集体してゆく。
○ハインリヒ四世と五世は、ドイツと北イタリアの司教座を掌理したが、シャルルのような尊敬はなく、従ってウルバヌス二世、ゲラシウス二世、カリクストウス二世を経て、最大敵手グレゴリウス七世が登場した。
○【1067】ハインリヒ四世の支持者であるドイツ司教により廃位されたグレゴリウス七世は、三週間後に皇帝を破門することで応えた。この行為は、結果として、ドイツで反乱がおこり、ハインリヒ四世は教皇に赦しを乞う羽目になり、【1077】カノッサでその赦しを得る。
○【1080】権力回復したドイツ王は、再び破門・廃位されるが、対立教皇を選出しドイツを平定してローマに進軍し、カステロ・サン・タンジェロの中に教皇を閉じ込めた。
○【1085】ノルマン人に助けられた教皇は、逝く。20年後、叙任権闘争は、ハインリヒ五世の治下に激しくなり、【1111】パスカリス二世から、司教と大修道院長を叙任する権利を得たが、あらゆる国の高位聖職者の抗議に直面し、【1115】に教皇使節たちより、【1118】ゲラシウス二世により破門・屈服した。(【1122】ヴォルムスの政教条約)

二 グレゴリウスの教説
A 基本的諸要素
○【11C中】テオクラシー教説が宣言された
○【1181~1183】教会の全面的な自由の追求は、盟友アンセルムスの教会法として集大成され、法律上の武器庫をつくり、後の議論に貢献した。
○【1195前】枢機卿デウスデーディド『教会法侵犯者と聖職売買者に反駁する書』はグレゴリウス7世の行動を正当化した。
○パウロ的自由:神の意思に完全に従い、罪と効果的に闘い、自発的にキリストの僕となるべく人を魔の隷従から解放するため、創造主より与えられる特権たる神的恩寵をもっともよく使用できること(教会的自由⇒法的・政治的内容と結ぶ)
○教会の自由を保障する諸特権や諸法とは、キリストによりよく仕える可能性を人類に与える制度形成の要因である。人間の解放を促進する罪と悪との闘いは、教会がこれらの諸制度を維持することが必要であり、教会の自由が支持される。
○≪カトリック教会の諸々の自由≫は、リベルタスすなわち絶対者である神の自由意思にもとづくもの。司教杖と司教指環により世俗君主の授ける叙任に反対する闘争は、悪に対する一般的な対決の一側面となった。
○グレゴリウス以前の理論:ペルトルダミニアは、世俗的行為は本質的に霊的行為から区別できない、なぜなら、あらゆる個別の目的を有する行動は物的なもので有るとはいえ、霊的価値を最大化するように成就されるものである⇒聖俗両領域の混淆
○このように説くことによって、教会の神秘性は高まり、教会の自由がテオクラシーに結着してゆく。
○そもそも国家が作られたのは、異なる次元で教会の目的を果たすためであったが、このために公権力は正当化されたが、【10C~11C】には、公権概念が消失し、古代の国家概念との断絶が生じる。
○行き着くところは、帝国が宗教的機能を果たす。その本質は、教会の権威と同一のもの⇒世俗と教会の混淆
○デウスデーディドは、権威によって基礎づけられた聖俗両権は、社会のキリスト教化によって人々を救いに導き、天上の国を現世に実現す唯一の目的を果たすため、それぞれ固有に創造された。
○グレゴリウス七世は、聖俗両領域が重複する場合、教会が権力を行使できるのは、霊的権威が優れているからでなく、重複しているが故に教会の権威が一つなので、教権は俗権をしはいする。
○聖職者が人間の救いについて神の前に責任を負うので、世界の道徳的指導は聖職者に支配される以外にない。
○「キリストの司祭たちが、王や君侯や全ての信者の思索の上での父であり師であると考えられることを、誰が疑いえようか」(テオクラシーへの途)
○グレゴリウスの念頭には、テオクラシーの中心は教会になく教皇座にある。
①教皇の教会における首位権、教皇は改革運動の長であり教会の自由を支持し、罪を抑えるため最大の功労者である。
②教皇がペテロの代理人であり、教皇権は霊的に上位にあるだけでなく、源泉において、ペテロはキリストから直接「繋ぎ解く」権力を受けたから、地上の権威を代表しており、反面帝国は人間の創造物に過ぎない【1076】ハインリヒ四世を廃位したのも、使徒ペテロに依ってである。
③教皇のみが主のヒツジの群れである司牧する配慮を引受けた。したがって、教皇は全ての霊魂に責任を負い、司教や司祭は、司教区・小教区の範囲のみ、教皇のみが神意の正当な解釈者(カロリンが朝の観念)
④何人も不可侵の教皇を裁き得ない。教皇は法に拘束されない、完全な≪主権者≫である⇒教皇不可謬の原理→テオクラシーの到達点

B 聖俗両権の関係
○聖俗両県はここに、教会しかも教皇座に帰属した。ハインリヒ四世の破門は、①ハインリヒが罪びとたちと交わり、聖職者に暴力をふるい神から離れ、②皇帝は教会の自由を妨げ、教会を隷属状態に追い込もうとした。
→公然の事実に基づき、主権者たる教皇は、ゲルマニア王がもはやキリスト教社会の外にあることを確認した(破門)。
○【1080】、グレゴリウス七世は、ハインリヒ四世の道徳的過ちと、政治的過ち、そしてカノッサで結んだ約束の反故を批判した。また、教皇の定めし和会の会議にハインリヒが参加を拒んだことを出した。
○教皇はドイツの内乱に終止符を打ち平和を確立(教皇庁を隷属に戻そうとし続けたハインリヒ四世との闘い)
○グレゴリウス七世は、彼の臣下に臣従の誓いを解くことで彼に服従することを禁じた。悪い君主により現世において統治されることは、キリスト教徒にとって危険であると、教会に考えられるが故に。
○教会は自らが臣従の誓いの唯一の保管者であるから、これは教皇の権限の内にある。そして、グレゴリウス七世は、ハインリヒ四世に第三の罪、すなわち廃位を宣告する。
○教皇グレゴリウスにとって、廃位は破門ほどの意味を持たないもの。「教会の掟を破ったものはたんに、廃位されるだけでなく破門に処される。」廃位は破門に直接したがって生ずるもの、なんの理由もいらない。
○教会の自由を侵したものは霊的権威により、破門され、廃位されるが、これは教皇の根本に宗教と世俗の混淆が存在するを示している。
○第二の問いは、教皇の世俗権力に対する介入は、道徳的監督のみならず、実質的な権威も持ち合わせているのではないかという疑いであるが、グレゴリウスの想像はそこまで及んでいない。
○マニ教によれば、世俗権は、教会によって予兆的に示されている善に対する悪の勢力を現世によって代表しているものとされる
○グレゴリウスが、君主や王を選ぶ権利を主張したとすれば、この主張は、道徳的治裁権の完全なる超逸であると認められる
○【1080】ハインリヒ四世の第二の破門状によると、王の指名は人民に属するが、選ばれたものは教皇の認可を経ると解される。
○王の権力は神から授けられ、この王に導かれたいとする人民と、王として守るべき諸義務を約束する者との契約を法的に認定し、裁定するのが教会の役目であり、教皇座はこの王を裁定し監督する。
○統治権は、戴冠式ないし聖別式を通じて君主に授与される。
○王国の契約的性格が霊的・道徳的原理に基づく、聖俗両権の混淆を体とするテオクラシーの概念に刻み込まれ、この意味からハインリヒ四世の破門が理解される。
○グレゴリウス的テオクラシーとは、霊的権威に基づき、皇帝を廃位し、その選出を監督し、また君侯の良き導き手となることである。これによって、教皇座はかつての貴族的秩序における首位の威信から、中央集権体制の整備により、君主政的組織の指導部となり、教会の上に位置し、それ故に霊的な物として国家の上に位置するようになった。

C 源泉と論拠

三 反グレゴリウス主義的教説
○反グレゴリウス的教説には、教皇座の優越とその世俗君侯に対する権利についてグレゴリウスの命題を論破するものではあったが、十一世紀の教会的雰囲気である聖俗両権の混淆については、離れられなかった。
○【1076・1082】ハインリヒ四世の宣言には、皇帝は自分が神から権力を得たのであり、これは世襲によって裏付けされる。”教皇が”私を王にしたのではない。聖俗両権は協働すべしと主張した。(カロリンガ朝=俗権優位)
○【1102】『教皇と王の聖別(ヨークの無名作家)』王が神のみからその権威を得、キリスト教徒の普遍的指導の責任を負う。王は霊的領域に権利を持つ。

第四章 十二世紀における逡巡
一 グレゴリウス主義的立場の維持
A これまでの理論体系の強化
○【1120頃】ホノリウス・アウグストデュネンシス:①旧約聖書より霊的権威の優位を証明、②聖俗両権の同一化”王たちは専ら悪人を罰するために立てられる”その結果、教会に監督される
○【1096~1141】サン・ヴィクトル(当世最大の思想家)
○フゴ:人間社会はキリスト教世界、キリスト教世界とは教会である。聖俗二元論は表面的なもの。その統一は神によって回復される。=実質世界での領域区分を認めている。(聖俗両職務は、全て霊的価値を持つがゆえに、相互依存の関係)
○霊的権威の全き主権:皇帝は教会の働きによってのみ、実質上の権能をもつ。
○【1115~1175】イギリス人ジョン:国家の概念の復権。平和を支配する上で君主に従うべきだが、彼の平和とはキリスト的正義を生み出す秩序。
○”世俗権力は派生的なものであり、霊的秩序との関係においてのみ、その固有の価値を持つに過ぎない”(政治的アウグスティヌス主義→グレゴリウス的テオクラシーに帰着)
○グレゴリウス主義:①教会の権威の本質的優位、②世俗的な物の霊的なものへの包括

B 聖ベルナルデウス
○【1149~1152】聖ベルナルデウス『教会改善論』:世俗世界における教皇の”至高権”、全教会に対する”首位権”、繋ぎ解く権力は信者に対して無制限である(伝統的思考の確認)
○両剣の理論:救い主キリストはペテロに対し自分の逮捕の時、防衛のために抜いた剣を鞘に収めよとすすめる。⇒ハインリヒ四世は、霊的権威は世俗事項に専念すべきではないと主張した。
○ベルナルデウスは、教会は世俗の剣を使用すべきでないが、教会の命に基づいてのみ、人々は世俗の剣を用いる。世俗の剣は教会に奉仕する目的をもつ。⇒あらゆる世俗の活動は、教皇の同意が必要
○類論:主権者たる教皇が、霊的な物と同様に、世俗的な物の長となる【両剣論】

二 もろもろの不備と変化
A 聖俗の職務の区別
○十二世紀は、人口の増大と経済の発展により、金銭と物的関心の高まりは”脱司祭化”の動きが顕著になり、これらは”世俗的精神の誕生”と呼ばれた。聖アウグスティヌスの真の思想が再発見される。
○【1130】イルネリウスの講義に、イタリアにおけるローマ法の復活は見られ、公権の概念を復活し、世俗的諸活動の領域は、霊的裁治権から区別されているだけでなく、何らの繋がりももたなくなった。
○諸君主は依然として彼らの主たる目的は、人々の救霊を成就するために助力することであると考えていたが、グレゴリウス主義的介入から遠ざかっていった。
○ブレシアのアルノルデウスは、教会の富を批判し、インノケンチウス二世により断罪、聖ベルナルデウスの非難により、全キリストの敵となりつつ、ローマ市を教皇に反抗させ、ローマ市自治政府の長となる。
○【1155】教皇ハドリアヌス四世にひきわたされ、世俗の官憲により断首される。(教皇庁の権力に暴力をもって反抗した最初の人)
○アルノルデウスの態度は、原始キリスト教・福音の単純な規範により、個人的信仰への復帰を理想とするパタリアと通じるもので有り、ローマにおいて高位聖職者の痛烈な批判、全教会財産の没収を提唱した。
○教皇は本来清貧のうちに生き、国家も領土も持たず、世界の霊的指導に専念すべき(聖職務の分離)。また、コンスタンティヌスの寄進状を激しく斥けた。

B 世俗諸権力の発展
○【1159】ハドリアヌス四世が亡くなり、枢機卿の意見の一致を見ぬ中で、アレクサンデル三世が登位し、【1152】に登位したフリードリヒとの間で帝権と教権の争いが生じる
○【1160】アレクサンデル三世は皇帝を破門し、一時フランスにのがれた後、【1165】ローマに帰るが、ドイツ王フリードリヒは、軍隊を率いてイタリアに侵入し、【1167】ローマに到着した。アレクサンデル三世は街から逃れる。
○皇帝はローマに自分を支持する教皇を駐在させたが、疫病がドイツ軍を襲い、彼の行動は失敗に終わる。北イタリア諸都市は蜂起して、ロンバルディア都市同盟を作り、ミラノやイタリアを救い、教皇に敬意を表してアレクサンドリアという都市を建設した。
○【1167】フリードリヒ・バルバロッサは、この都市を包囲し、都市同盟の軍は退却を余儀なくされモンテベッロで休戦が締結されたが、アレクサンデル三世の孤立化を謀った皇帝との闘いは再燃し、【1176】フリードリヒは敗れる。
○【1177】ヴェネツィアで平和交渉し、フリードリヒはアレクサンドル三世を正当な教皇と認め、彼は破門の罰を赦される。
○教皇庁はロンバルディア都市同盟の立場であり、教会の自由と都市の解放を含んでおり、バルバロッサは帝国をシャルルマーニュと同じく、キリスト教の完全なる信仰実践の世界を指導したいと欲した。
○教皇庁は聖俗混淆の基礎に霊的優位を主張したが、バルバロッサは戴冠式から引き出されるテオクラシーの教説を拒否した。
○イングランドのヘンリー二世とカンタベリー首座大司教ケベットとの争い。【1164】ヘンリー二世は、教会の伝統を破る”王国の古い慣習”から出たクラレンドン法を提出し、トマス・ケベットは反抗したので、王は彼を告発する。
○【1164】フランスに逃れたケベットは、ヘンリー二世に忠実な司教たちを破門し、教皇派ベケットを支持しつつ分裂回避に努めた。ヘンリーと和解したベケットはイングランドに帰ったが、【1170】騎士たちにより暗殺される。
○教皇庁と交渉したヘンリーは痛悔を約束し、教会の利益を侵害した諸習慣を放棄した。【1172】アヴランシュで破門を赦される。
○【12Cの逡巡】教皇アレクサンデル三世のフリードリヒ皇帝、ヘンリー二世との争いにおいては、教会の特権を侵し且つ、教会分裂を起こしたとして、霊的罪の故に破門したが、グレゴリウス七世がハインリヒ四世のような廃位はしなかった。
○【12C】は世俗権確立の一方で、霊的な者が法と社会に同化することで、その領域を拡大した。教会法による立法の権限は、世俗問題に拡張した。
○”教会の使命”という思想により、神より託された宗教的使命に対する普遍的関心の内に、政治を同化吸収する。教会はその目的に有益たると認められる政策を行使し得る。
○ロンバルディア都市同盟は、教皇庁との共通の利益に基づいて、政治的同盟であり教皇使節たちはこれを行使した。

三 新しい理論の模索
A ライヘルスベルクのゲルボー
○【1093~1169】ゲルボーは、教会をより神聖で自由なものにするために聖職者を改革する必要。すなわち、聖俗両領域の区別を徹底すること。(世俗権の行使は自らの手を汚すから禁じられるべきという聖ベルナルデウスの理論を凌駕するもの)
○世俗諸侯は教会を助ける義務を負うが、之のみが使命でない。自律的役割を両者は有す。両権は普遍的な権限を有さない。古代秩序の復古:”世俗の問題は世俗に、霊的問題は教皇に”
○だが、教皇の権限は皇帝に優先する。太陽の月に対するように勝るが、コンスタンティヌスは教皇座に敬意を表したのみであり、ここから聖俗両権の混同は見出すべからず。
○王と皇帝の選出は多分に民衆の歓呼と教会の祝福によるべく(その起源は結ばれているものではない)→グレゴリウス主義との断絶を示し、多く皇帝の主張を取り入れるもの。一方で、ゲルボーは、皇帝フリードリヒに勇敢に対決している。(時代の逡巡を示すもの)

B 教会法学者の運動
○グラティアヌス教令集:教会の絶対自由、教皇と諸侯の協働、教皇権の卓越(誰からも裁かれない)
○万人の救済に責任を持つ教皇は、皇帝や王を裁く権利を有し、臣従の誓いから解放することができる
 ※グラティアヌスは、聖俗両職務が分かたれることを、グラシウス一世のテキストを尊重して解釈している。
○グラティアヌスの矛盾:教皇ザカリアスによるメロヴィンガ朝最後の王の廃位を持ち出し、教皇派皇帝を廃位し得ることを示すが、ザカリアスの廃位は単純に世俗的原因によるもの(→権威の二元性の支持者に過ぎない)
○【1157~1159】ボローニャのルフィタスは、キリスト教社会は分離した二つの裁治権により指導される。聖俗両職務には、協働の領域があり、各々に権限が定められる。
○【1177~1179】シモン『教会法大全』:教会が王たちの間の不和に介入するのは危険であり、教会のみが聖職者を裁きうるが、皇帝が法を制定し、この法の執行を教会裁判所に委ねることを妨げない。
○フグッチョは、旧約聖書の中で聖俗両権が混淆しているが、キリストが両者を峻別した、シモンの論証を採用し、王であり司祭であるキリストの人格に統一するのだが、執行においては完全に分割される。だが、多くの場合に帝権は教権に依存している。
○リフィヌスは、権力の実態である権威と実際の統治権を切り離し、ローマ教皇は戴冠により皇帝を承認し、それゆえに皇帝は統治権を持ち、その権限から教皇は排除される。
○シモンはかつてのハインリヒ四世が両剣の象徴から聖俗両職務が分かたれているから、一方が他に従属する原理には到達できない。→皇帝は教皇からでなく、神から剣を受け、世俗を支配する。
○フグッチョは両剣の象徴から、教皇から”皇帝をつくる”能力は引き出し得ない。だからハドリアヌス一世がシャルルマーニュに教皇選出権を与えたことを主張する人を論破している。
○帝権の起源は、神によって定められ、皇帝を選出する諸君侯から受けること(バルバロッサの原理)。教皇による皇帝戴冠の儀式は、聖別により特別な地位を与え、選挙の結果を確認する手続き。
○【12C】の諸原理は、現実の諸問題に対する自覚を示しており、教皇の主権を維持し、権威は霊的領域の拡大を与えたが、同時に世俗権の発展により教皇を霊的領域に限定し、テオクラシーの放棄に導く。

第五章 十三世紀における綜合
一 インノケンチウス三世
A インノケンチウスの幸運と不運
○【1198~1216】(インノケンチウス三世)12C終わり~16Cまで、異端の問題に取り組む。ワルデス派とカタリ派と闘うため、インノケンチウス三世は、教皇庁の物資的力の増大のため、領域を拡大する。
○【1197】ハインリヒ六世が死去し、皇帝選挙によりオットーの指示を宣言し、競争者フィリップに与えていた忠誠誓約の無効を宣言した。フィリップは支持者を確保し続け、ケルン大司教によりナイツ王に戴冠されたが、暗殺される。
○オットーはイタリアで反教皇政策を企てた。インノケンチウス三世はオットーを破門【1210】し、イタリア諸都市に聖務執行停止と物的制裁をおどし、皇帝の権威から離脱を厳命した。
○【1212】シチリア王フリードリヒ二世を担ぎ、マインツでドイツ王を授けた。オットーは抵抗したが敗れた。イングランドにおいてもジョン失地王と対決して、廃位に追い込んだ【1213】。
○ジョンにイングランドとアイルランドの王国をローマ教会の封土にして保有するのを承服させ、様々なカトリック国を宗主権下に置く。
○インノケンチウス三世は、現実(帝国の仲裁、ジョン王の不人気、十字軍のコンスタンティノープル攻略)を利用して、権利を法的に確立してゆき、教皇権威のテオクラシー的大望を高揚させる教義をひきだす。
○インノケンチウス三世のテオクラシーは、グレゴリウスの伝統に合致し、教皇首位権の宣言と、教会問題の全権を主張した。
○「私はこの岩の上に教会を建てるであろう」はペテロによって導かれたローマ教会が、他の全ての教会の基礎であるという考え。
○一二世紀のテオクラシーの定式:世俗権力に対する霊的権力の優位性(フグッチョ)
○「皇帝が世俗事項において優れており、教皇に勝る、その逆も然り」インノケンチウス三世の理想は俗権との協働
○モンペリエ伯は、庶子たちが地位を継承するために嫡出子として認めてほしいと要請したが、伯の宗主権の強化は手伝えないとした。【1203】フランス王・イギリス王の武力衝突に介入しようとしたが、インノケンチウス三世は封建制の問題は王のみが裁定者たるを宣言する。世俗権を侵害できぬことを承認した。(一二世紀の後半の教会法学者と一致)※インノケンチウス三世は世俗権の完全独立は意図していない。
○世俗行為が霊的性質を有している場合には、教皇の物質的結果をもたらす決定を下せる。【1204】「ノヴィト」にて、戦争が罪の行為であるから、介入するのであり、フランス国王の世俗裁治権を侵害しない。「私は封土について裁定を下そうとするのではなく、罪について裁こうとするのである。」
○罪の理由による介入と、封建制理由による不介入は、世俗権の自律性を示すと同時に、ローマ教皇の権利を拡張することである。
○罪は単に良心の苛責を起こすだけでなく、罪の理由による裁治権を法の中に持ち込み、格別なテオクラシーを極致に導く
○【12c~13c】十字軍は教会の使命として、聖地に宗主権を確立することが、教皇たちとりわけインノケンチウス三世にとっては世俗の最高裁治権を要求することを可能にし、テオクラシーに一地座を占る。
○教皇の行動は明白に世俗的であれ、霊的な装いの下に行使する権利とは、教皇の権威である。
○旧約聖書:神はこの世界の全ての王国をあなたに与えたもうた。あなたは地上の全ての君主を任命するであろう→神が全ての王国を教会に委ねたという確証
○”神はあなたにこの世の全ての王国を委ねた”→教皇はペテロの後継者からキリストの代理人に。霊的・肉的なるものの王者である。
○インノケンチウス三世は、コンスタンティヌスの寄進状が皇帝の勅令が西ヨーロッパの主権の授与であり、帝国全土の指導者ではないから、別に帝国の移転を主張(ギリシア人→フランク人→ドイツ人)
 ※テオクラシーの原理が21世紀の立場と異なる
○帝国は始原的に帝国に帰属する(歴史的な物)。教皇はドイツ王を選挙する権利を諸侯に与えた(帝国のドイツ人の移転)。他方、教会は、その選挙権を承認する役目。
○皇帝の治世が変われば、選考帝たちは、神の使者となり、教皇はこの移転により、最高の権威を表明する。帝国は目的において教会に帰属・服従する。これを証明するのが、皇帝戴冠式。
○教皇は卓越した権利により、選帝侯を審査し得る。それは、選帝侯の意見が分裂したとき、偶然的であり・緊急を要するとき、そして罪の理由により正当化される。すなわち、分裂は悪魔のなせる業であり、神の意思を代表しないものの選出は罪に当たるというロジック。
○イングランド王国のジョン失地王の廃位についての教皇の決定も、破門され王国の混乱が生じ、廃位された後、教皇は、緊急の必要に応じて、王冠を他の人に与えることが可能だ。
○私は、聖なる教会法に一致している。これによれば、忠誠義務は、神に忠実でないものに対して、負うものではないので、私は使徒の権威に基づき、人々を彼らの誓約から解除する。
○国家の存在は、キリスト教的であるという条件に認められる。だが、世俗権力が自由の秩序でキリストに仕えるべき。この意味で、宗教と政治の区別が、承認される。
○インノケンチウス三世の特徴:教会の宗教的問題と言う名目で、世俗的性質の強い事項に教会を誘ったこと。後世に危険を残した。

二 偉大なる総合
A インノケンチウス三世時代の教会法学者たち
○教会法学者はインノケンチウス三世の諸概念を解釈しつつ、インノケンチウス三世を超えてい行く。全てのものは帝国は教会の中に存在すると宣言した。
○アラーヌスは①皇帝は諸侯たちが介入するまでもなく廃位され得、②皇帝は霊的な面でのみ教皇に従う(矛盾)
○ラウレンチウス:選挙によって皇帝が選ばれ、皇帝の職は自律的なものだが、権威は教会が付与する。これは、教皇が選挙によって選ばれ、キリストが権威を付すのと同じ。故に、皇帝を廃位できる。

B 教皇政とフリードリヒ二世 -インノケンチウス四世の教説ー
○シチリア王フリードリヒ二世は、インノケンチウス三世より皇帝に処せられるや、イタリア教皇庁と対立した。
○【1220】フリードリヒ二世は自らの息子をローマ王に指名しようと企て、グレゴリウス九世との紛争は激しくなる。【1227】十字軍に参加しない皇帝を破門する。皇帝はそのまま東方へ。
○教皇は、この機にシチリア・イタリア・ドイツで巻き返し、ドイツに反乱がおこる。エルサレムから帰還した皇帝は、領土返還と引き換えに破門を解除する【1230】
○フリードリヒ二世は、シチリア回復、ドイツ平定、そしてイタリアに侵入。ロンバルディア都市同盟の軍隊はコルテヌオヴォで敗れ、皇帝はローマに居を定めることを宣言する【1239】
○グレゴリウス九世は新たに破門を宣言した。
○グレゴリウス九世は、フリードリヒ二世を裁くための教会会議をローマで召集したが、【1241】ピサと同盟軍は司教たちを乗せた船をジェノバで襲撃し、皇帝はローマに進軍、グレゴリウス九世亡くなる。
○【1245】インノケンチウス四世は、リヨンで公会議を召集し、皇帝を破門し廃位する。托鉢修道会に反皇帝のプロパガンダを命じ、ドイツに対立選挙、イタリア反乱し、フリードリヒは【1250】亡くなるまで闘う。
○教皇庁は、シュタウフェン家を全ての役職から排除し、皇帝選挙に介入し、2、3年の空位を生む。シチリアは宗主権を主張し、聖ルイの兄弟、シャルル・ダンジュウに王冠を与えた【1263】→教皇を苦しめる
○グレゴリウス九世は、フリードリヒ二世に対抗するため、新たな原理:帝国は単に偶然的に・緊急の理由によってではなく、本質的に教皇庁に仕えるもの。これは、審査権と廃位権のみを主張したインノケンチウス三世の思慮深さを捨てようとするもの。
○コンスタンティヌス帝は、本来皇帝に属していたものを返還したと解し、教皇は霊的なものへ普遍的支配権を有している故に、身体に対しても同じ権利を有すると主張した。
○インノケンチウス四世は、インノケンチウス三世の思想を踏襲しつつ、世俗権力の自律性については、現実の要請に従い、これを綿密な理論で突破した。
○インノケンチウス四世①キリストの代理人である教皇は、キリストから普遍的代理権を受け取り、人間すべての行為に及び、これは偶然的にも緊急の理由をも制限しない。②教皇の繋ぎ解く力は、霊的権力の本質であり、全てのことのみならず、全ての人も繋ぐことができる。
○聖俗両機能の分離は問題外の結果。教皇は多くの国民の上に立つのみならず、王国や王の上にたつ。
○この世において主権は分割不可能なもの。したがって、教皇は霊的なものの首長であり、固有で絶対的な権威を所有し得る唯一の人であり、帝国は本質的に教皇に属する。(論理・形而上)
○アリストテレス:国家は人間の社会的本性を実現せしめる故に、完全な自然的社会である。(右の実現には、人々に其の救済を助ける<統治>から成立する。このため国家はキリスト教に奉仕する手段となる。
○聖トマス・アクティナス『君主政論』:人間社会の首長たる君主は、臣民を世俗的目的に導く権威を有し、最終的な霊的目的に導く教皇には従属する。『神学大全』:教皇は君主を罪の理由により、罰することができる。
○世俗問題においては、霊的権力より世俗的権力に服従すべき、だが<両権の頭>たる教皇の権威は例外。
○フグッチョは、皇帝は教皇の仲介なく神から与えられた無条件の統治権を有し、ここから帝権はローマ教皇により統御されている→教皇が帝権全体と不可分である(ホスティエンシス)。
○王権の保有者は教皇であるが、皇帝がその行為が正しい場合に、教皇は関心を払わないだけ。なぜならペテロとその後継者の権力を象徴する複数の鍵をイエスから受けた。
○ドウランドウスはホスティエンシスの立場を引き継ぎ、教皇の至高権は法の上にあり、教皇はペテロの後継とキリストの代理という事実により、全体的支配権を有し、自分の思い通りに全てを裁く。
○フリードリヒ二世①1239年、教皇は自己の権力の限界を超え、キリストの代理と見做し得ない。②1240年、神はこの権能を作った一つは、監督するための聖職者の権能であり、二つは他を保護する皇帝のもの。③1145年、廃位に当たり、インノケンチウス四世は帝国の神聖な権利を傷つけ、聖職者の権利の乱用に罪がある教会は霊的業務に専心すべき。
○コンスタンティヌスの寄進状は、初期キリスト教皇帝の行為は取消可能なもの→皇帝に固有の世俗権の回復。
①皇帝教皇主義の復活:皇帝によって、キリスト教徒を教導する(カロリンが朝)
②ローマ帝国の古代観念:世俗の独立した国家観
○右の思考は、大空位時代に明らかになり、ドイツ人著作人が明らかにした。キリストは世界を平和裏に統治することをローマ・カエサルに託した。神的選挙により、ドイツにやってきた。一方の剣が他方に従う根拠はない。
○この時代ローマ法は発展する。ローマ法は、罪の理由によって聖職者がなす一切の統制を禁ずる。1260年、『裁判と法の書』”君主の意に適うことは、法の価値を持つ”
○【13C後】ローマ教会の富、政治的世俗性、福音的理想の放棄は批難され、フランシスコ会内部でも、聖霊派は、絶対的聖貧を唱える。

第六章 ボニファティウス八世の時代 厳しい戦い、時代遅れの思想
一、ボニファティウス八世とフィリップ・ル・ベルとの闘い
A 闘争の局面
B 時代に適応できぬ教説
○ボニファティウス八世の説は、過度の一者への還元であり、カロリンガ朝の諸要素、グレゴリウス七世のビジョン、十三世紀の諸観念の到達点を示した。
○官僚が生まれ、彼らの夢は貴族になり、国家はその配慮を受け止める唯一の概念
○ノガレは、異端とみなされた教皇は司教会議により、裁判されるべき。
○ボニファティウス八世の諸説は、アリストテレス主義と比しても時代錯誤であった。

二、テオクラシーの著作
A 展開された主張
○エギディウスの理論:至高の支配権は、王はその王国に最高の所有者として認められるが、現世の財は魂に絶対的な裁治権を有すから、教会のみが真の支配権を有し、君侯は使用権を有す。
○この推論は、インノケンチウス四世の思想よりもグレゴリウス七世に近い。政治的アウグスティヌス主義並びに、12世紀の権力と統治権に関する命題に取って代わられた主張。
○国家は固有の諸権利があるが、固有の目的がない。従って至高の支配権<教会>に服従する。世俗法は、それが正義に合致している場合にのみ、価値を有す。

B もろもろの根拠
○テオクラシー体系の論拠:
(1)聖書 太陽の月の創造物語(創世期)皇帝は、月が太陽から光を引き出す如くに教皇から自らの権力を受ける。
(2)教父および教皇によるもの:教書類(罪の理由:神の目)、聖ベルナルデウスの両剣論
(3)歴史の教訓:カロリンガ朝最後、メロヴィンガ朝の廃位、コンスタンティヌスの寄進状
(4)合理的論拠:A〔形式的〕霊的なものに権力を有する教皇は、世俗にも権力を有す Bテオクラシー理論:宇宙万物の一致から生ずる
○キリスト教世界の一致。ローマ教会の統治権に対する権威、真の支配権と使用権。

三、批判者たちの暴挙
A 王権の上昇
○フィリップ・ル・ベルは、教書に対応して、彼の権力の完全な独立を宣言する。”王は、自らが教会に属している限り、教会の勧告と助言をすすんで受け容れる用意がある。”
○国家とは身体の心臓であり、教会は魂であるから、生命の維持装置に各部は依存するが、教会が国家に依存すべきとは、結論付けず、協同を唱えた。
○テオクラシー理論への批判:月は太陽とは別個にそして太陽より後ろと言うのではなく、神によって創造されたもの。ペテロがキリストから霊的権威のみを受け取った。
○コンスタンティヌスの寄進状は法的に皇帝の明確な権威を示すもの。破門、廃位、帝国の転移は、あらゆる教説とは無関係に突発した偶発事件。
○君主は絶対的な主権者。教会の目的は、単に霊に関わるもの。国家は創造主により人類に与えられた目的を目指すもの。王はその権威を神から直接引き出す。

B 自然的有機体としての国家
○聖書のテキストは霊的意味のみ有する。教会の剣は宣教の職務を象徴する。教皇ザカリアスによるメロヴィンガ朝最後の王の罷免は、世俗の有力者たちの権力の移譲を教皇が認可しただけ。
○基本は、皇帝教皇主義を退け、両者は強調すべき。

C 帝国の命題の復活
○【1313】ハインリヒ四世は、自らの主権を宣言し、教皇の同盟者であるナポリ王ロベールを死刑に下す。教皇クレメンス五世は破門で脅かした。戦争が起こる。
○国家の究極的善は平和であり、これは帝国によりなされる。個の目的は全ての目的に服従すべき。人類が一人の首長をもつときに達成される。
○ダンテ『神曲』:ローマ教会はその世俗的な野心故に、帝国の衰退とイタリア分裂の原因となった。
○サウルを罷免したサムエルは神の代弁者であり、代理人ではない。教皇が解くことができるのは、宗教的行為だけである(結婚とか)から、人間的活動のすべてに及ばない。
○「ああ、コンスタンティヌスよ。どれほどの悪があなたから生まれたことか。それはあなたのキリスト教への改宗ではなく、かの寄進である。あなたからこれを受け取って最初の富める教皇が現れたのだ」→絶対的な皇帝権威を証明する自発的譲渡

第七章 衰退
一 国家理念の強化
A バイエルン公・ルードヴィヒ四世と教皇庁
○【1314】ハインリヒ七世の死後、二人の人物がドイツ王に選ばれ、オーストリアのフリードリヒとバイエルン公のルードヴィヒ四世。
○ヨハネス二十二世はかつてのインノケンチウス三世の様にこの状況を利用できると考えた。
○皇帝空位と見做すと発表し、ナポリ王ロベールをイタリア皇帝代理に立てる。【1322】、勝利者ルードヴィヒ四世は、承認せず。教皇はルードヴィヒ四世に退位を命じ、ドイツ王はこれに応じれ:選帝侯の選挙により、神から皇帝位を受けたので教会の承認は不要。ヨハネスは翌年破門する。ルードヴィヒ四世もザクセンのドイツ騎士団を礼拝堂で、教皇を異端の廉で裁判にかける公会議を召喚した。
○キリスト教世界は、アヴィニョンの教皇に忠誠を持ち続け、権威を回復しつつあったルードヴィヒ四世は、皇帝の選任するカール王にドイツ諸都市と蜂起したが死亡した。
○『平和の擁護者』:国家は神の概念ではなく、人間的組織。全ての権力も人間に起源をもつ。このため、権威は立法者に依拠す。
○立法者とは、共同体である。法の適用に唯一の権力である。かくて君主はその職務を人民の名において実行する。
○だが人間は、霊的理想の実現を求め、二つの国家(政治的アウグスティヌス主義の否定)は区別される。霊的目的は物質的平穏のなかでのみ展開可能。
○人間は、世俗行為において、国家に属し、霊的完成において教会に属す。
○マルシリウスは、聖職者の職務の範囲を規定するのは、立法者にあると主張した。
○教皇は、特別の権限を持っていない。司祭の性格のみを有す。この性格は、国家から由来するもの。教会階層秩序は、神的秩序でない。
○聖職者は、破門する法的能力を持っていない。全ての懲罰権は公的権力のみが保持。
○神法は教義的な意味しかない。市民法は必要になら強制権力を伴ういかなる人も国家の代りなる能力を有さず、罪の理由による教会の介入を排除する。
○世俗権力は、市民社会が一つであり、不可分の主権を所有している。(アリストテレスの経験論拠)教会は社会ではなく霊的なるものは自由意志的である。
○『平和の擁護者』:教会は国家の中に存在する。

C テオクラシーの反発とその挫折
○教会は最も厳密な意味において国である。

二 オッカム主義
A 教皇政に対する批判
○【14C(アヴィニョン期)】教会行政の中央集権化が進み、書記局の権限は広汎になり、会計院の顕著な権力は、税が重くなり、教皇庁の聖職禄が増加し、ローマ教会が一つの絶対国家となり、非常に裕福になった。
○フランシスコ会則厳守派との抗争を生み、教皇政に対する批判がテオクラシーの崩壊を加速した。
○ヨハネス二十二世は、十二世紀の教皇主義理論を繰り返し、教皇冠に第三の冠を加えた。(三重の王権)

B ウィリアム・オッカムの諸命題
○ウィリアム・オッカム:<アヴィニョンの教会>を根本的に斥け、教皇庁は決して受取ってない世造権力を独占したがる、罪ある状態になってしまった。教皇はキリストの裁治権でなくペテロのそれのみを行う
○教会は、一つの固有の社会の帝国は教会から完全に独立している。このため、皇帝の権力は神から引き出され、その下で社会は統一される。帝国の権威は、慣習、権利そして特権の上に築かれたものであり、これらは伝統的なもの。
○中世概念:皇帝は、人々の救済を目的として、個別の権利を持つが、固有の目的を持たない。←オッカムは、世俗権に伝統的正当性を与える。


三 十四世紀以後のテオクラシーの運命
A 反テオクラシー的勢力の発展
○ルポルト:シャルルマーニュは、自らの軍事力で帝国を勝ち取った。800教皇がピピンの息子に帝位を授けたのは、それは人民の名のもとになされた。オットー大帝は、シャルルから正当に継承した。そして、帝国は選挙により、選帝侯は人民の意思の発露なのだ。
○【1356】金印勅書:皇帝の選出と即位は、ドイツ諸王と大司教に委ね、普遍的キリスト教帝国の概念を法的に終わらせた。テオクラシーとは皇帝と教皇の関係を含むため、無義化した。
【15C、16C】会則厳守派は、フスの改革者の理想はコンスタンティヌスに至る。ルターは、両剣を欲すは、反キリストに固有のものと宣言。ルネサンスの営為は、聖書に対する飛躍解釈を拒否した。
○ロレンツオ・ヴァッラは、コンスタンティヌスの寄進状は、偽文書であることを証明。哲学と神学は決定的に分離して、政治理論はマキャベリが君主は唯一の目的として国家の権勢を有し、完全に独立している。





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レポート合格( ´ ▽ ` )ノ

2015-10-21 21:12:42 | ヨーロッパ中世政治思想
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レポート提出★彡

2015-08-23 21:15:09 | ヨーロッパ中世政治思想
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中世の意味

2015-08-08 23:40:48 | ヨーロッパ中世政治思想
中世が終わるというのは、キリスト教社会が終わるということ。宗教による政治が終わるということを意味する。その意味で、宗教が割れていく歴史を、異端という現象で13世紀に見ることができるのは、中世の危機を意味している。それは、「正統」に対する距離感が、地域的・集合的なレベルで生まれてきたことであり、キリスト教社会が一本の柱で立っているのではないということを、人々が気付いていく切っ掛であった。



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13世紀のヨーロッパ

2015-07-19 21:48:12 | ヨーロッパ中世政治思想
13世紀のヨーロッパ

13世紀のヨーロッパは、インノケンチウス三世のテオクラシーの時代であり、またヨーロッパは気候的・風土的な恩恵に戴き、経済成長と人口増加の中で、国家と言うものが意識された時代でもある。キリスト教はこの力を十字軍の遠征と言う、霊的性格をおびた世俗行為に連絡することで、霊的権威の向上に貢献することができた反面、ギリシア文化の侵入は、多くの法学者・物理学者・医学者をして、理性の力に目覚めさせ、頑強な理性の法としてのローマ法体系が建築される。13世紀の初頭はインノケンチウス三世によって、12世紀の伝統である霊的権威の優位と、聖俗両領域の区分は踏襲されたのであるが、ローマ法王の教皇権は新たな解釈を生む。すなわち、教皇は世俗的権威の代表たる諸侯の自律的な権利を承認するものであるが、その権力の行使が教会の自由を侵害するなどの場合には、教皇はその君主あるいは諸侯を破門にし、廃位することが可能であった。さらに、この廃位によって空位が生まれるなどの、偶然的であり・緊急的であり・罪の認められる場合には、教皇はさらに前進して、世俗的権威を代表する諸侯を選出するプロセスに介入して、これを平定することができるのである。この解釈は、イエスキリストが地上の権利を授けたのは、正確にはドイツの諸侯に対して皇帝を選出する権利を与えたのであり、君主に直接権利を授けたのではないということである。このため、選出された皇帝は教皇によってその権利を承認されることにより、地上の支配権を認可されるのである。しかるに、教皇には皇帝選出の審査権を有し、また監督権を有することになる。この権利に基づいて、いわゆるイギリス失地王ジョンを破門に付し、その新たなる王冠を教皇が差配した意味が解されるのである。インノケンチウス三世亡き後、グレゴリウス九世そしてインノケンチウス四世の治世において、フリードリヒ・バルバロッサの血筋である、フリードリヒ二世が登位してゆくことになる。この過程でテオクラシーは次の段階に入る。グレゴリウス九世は、教皇が霊的領域に留まることに執着したのである。フリードリヒ二世は、シチリアにおいて国土の強化につとめ、ドイツとの間で皇帝権の強化を図り、ローマの教皇庁に対しても、圧力を与えた。グレゴリウス九世はフリードリヒ二世が十字軍の要請に答えなかったとしてこれを破門したが、フリードリヒ二世はそのまま東方へ出発した。皇帝不在の機に、グレゴリウス九世はシチリア・イタリア・ドイツで巻き返し、ドイツでは反乱が起こり、終にエルサレムから帰還したフリードリヒ二世は、教皇に赦しを乞うたのであった。さらにグレゴリウス九世はローマにおける教皇権の強化に乗り出した。これに対してフリードリヒ二世の対抗が始まる。シチリアを回復し、ドイツを平定し、皇帝の軍隊はイタリアに侵入した。教皇派であるロンバルディア都市同盟は、フリードリヒの軍隊に敗れた。これに対して、グレゴリウス九世はローマでの教会会議において、フリードリヒ二世を厳しく処分する予定であったが、司教を乗せた船舶がジェノバにおいて、リオとその同盟軍いより襲われ、司教たちは捕虜となった。二年の空位の後に即位したインノケンチウス四世は、現実問題として教皇座の本拠地であるローマから逃れなければならなかった、リヨンの公会議において教会の高位聖職者と審議したのち、フリードリヒ二世を破門し、廃位を宣言した。こうして、イタリアでは反乱が起こり、フリードリヒ二世はその生涯を闘いに埋もれたのである。現実の奪回におよんで、インノケンチウス四世のテオクラシーは徹底され、すなわちペテロの後継者であると同時にイエスキリストの代理人である教皇の権威は、霊的なものを支配するだけでなく、身体的なものについても、その本質からして統御されるのもである。こうして世俗権と霊的権威は、13世紀において統合されるのである。

以上
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