一法学生の記録

2014年4月に慶應大学通信部に進んだ法学生の記録である
(更新)2017年4月に神戸大学法科大学院へ進学しました。

普選法の成立と社会主義政党の出現

2015-07-01 20:54:07 | 日本政治史
普選法の成立と社会主義政党の出現

○1892年、大井憲太郎の東洋自由党結成のさいの、普選期成同盟が運動の起源とされている。
○1901年、社会民主党ができると、結成と同時に結社禁止になるが、その綱領には普選実施を掲げた。
○1906年、日本社会党は幸徳秋水を代表とする直接行動主義と、田添鉄二を代表とする議会主義とが対立する。
○1917年、ロシア革命が起こり、俄に盛り上がったボルシェビズムとサンディカリズムは、議会主義軽視の傾向を産んだ。
○1920年、尾崎行雄、犬養毅、島田三郎、植原悦二郎などによる普選法案が提出されたが、政友党の原敬は反対し、否決される。
○1924年、安倍磯雄を中心とする穏健派が集まり、政治研究会を開始する。
○1925年、護憲三派の加藤内閣で、普選法が成立する。

以上

条約改正について

2015-06-28 19:39:09 | 日本政治史
条約改正について

〇1858年に、アメリカとの間に結んだ日米修好通商条約は、相手国の日本国における治外法権を認め、且つ国際決済における日本国の関税自主権が無い、不平等条約であった。要するに、日本には近代国家の基本原則である国家主権すら、成立していなかったと言える。この様な、情勢に知識人を中心にして、反対意見が唱えられた。また、明治政府の首脳部では、日本の近代化が強く求められたのである。
〇1971年、岩倉具視一行の欧米派遣に当たって、政府は日米修好通商条約にある、この条約が結ばれてから171カ月後における改正の規定を持ち出しアメリカの意向を確かめたところ、脈ありと感じられ、急いで全権委任状を取り次いで、交渉にあたったのである。だが、一国に利益を与えた場合に、同じ利益を条約を結んでいる他国へも均霑させなければならないという規定が問題となった。
〇後、一行はヨーロッパに渡り、条約改正問題について意見交換をしたが、時期尚早の印象が強く、ヨーロッパの文物を視察し帰国したのであった。
〇条約の改正には、わが国の文明の発達と国力の充実が欠かせないと見た欧米視察団は、政府に渦巻く征韓論に否定的態度を採った。
〇征韓論で敗れた外務卿の副島種臣に代り寺島宗則が就任すると、寺島は早速交渉に当たった。交渉の相手方は、アメリカ駐日公使のビンハムである。寺島は、治外法権の問題は国内法典の整備に時間を要するために、後回しをして、関税自主権を優先する構えで挑んだ。しかし、当時ハートリーのアヘン密輸事件にさいして、イギリス領事裁判所が無罪判決に処したことが、俄に世論を盛り上げ、治外法権の伴わない改正は無意味であると主張された。
〇次に、交渉にあたったのが外務卿、井上馨である。井上は、改正には準備交渉が必要であるとし、予め改正案を作成し各国に配布せしめた。これに、各国は同意を与えなかったため、井上は予議会を開いて各国と意見交換をした上で、更に修正案を提議した。
○一方、政府では欧化政策をとり外形的に一流国たる印象を与えようとし、頻繁に鹿鳴館でのダンス・パーティーが開かれ、西洋建築・洋装・洋食が奨励された。なお、このころに万国赤十字条約に日本は加盟している。
〇しかしながら、修正案には外国人の日本裁判所への起用や、法律用語として外国語を使用すること、また改正法律案を事前に外国政府に通知するなど、依然として不平等を孕むものであった。これに、お雇い外国人であるボアソナードが反対意見書を送り、この文章が世間に漏れるや、一気に世論は紛糾し、第一次伊藤内閣は崩壊に追い込まれた。
〇1889年、明治14年の政変いらい下野していた大隈重信は、黒田内閣の外相として入閣し、世間を騒がせた。大隈は就任するや、条約改正交渉は秘密主義を採り、現行条約で規定しているところを只管に励行することによって、外国人が不便で耐えられなくなった結果、先方から修正を望むように仕向ける方針を定めた。だが、大隈の案にも弱点があり、大審院に限っては外国人の判示を任用する、治外法権の撤廃と関税自主権の自立は12年後に確立する、あるいは法典編纂を約束するなど、これらが市井に流れるや反対論が濃厚となった。大隈は玄洋社員の来島恒喜による爆弾によって負傷し、改正交渉は挫折せざるを得なかった。
〇黒田内閣が倒れ、内大臣三条実美が一時首相を務めたが、この間外務次官を務めた青木周蔵により条約改正は一時延期された。ほどなく、山県有朋内閣の外相に就任した青木は、改正交渉を開始したが、政権が松方正義に移った。このとき、ロシアの皇太子ニコラスが、大津への視察中に警備隊によって負傷する事件が起こった(大津事件:1891)。青木はこのために辞職し、榎本武揚と交代した。
○条約の改正は、第二次伊藤内閣の陸奥宗光外相によって、治外法権の撤廃が成り(1898)、関税自主権の完全自立については、第二次桂内閣の外相、小村寿太郎によるまで待たなくてはならなった。日本は、アメリカとの条約を結んでから、概ね半世紀を要したのである。

以上。