私が体験した瞑想、気功、祈り

瞑想、気功、祈りの体験した事、本を読んで研究したことをブログに書きました。宗教団体、気功団体とは関係なく個人のブログです

瞑想に現れる楽(らく)は「何もしない、何も求めない瞑想」をやらないと現れない。

2017-05-18 08:20:46 | 日記
   何もしない、何も求めない瞑想以外の瞑想では無にならないし楽が来ない
 
 何も求めない、何もしない瞑想では瞑想の二禅の最初の解脱の喜びと楽(らく)、三禅とそれ以上の解脱の楽を楽とも思わない極楽の状態に何十年、一生かけての努力精進によって入っていきますが、他の瞑想である一点集中、神を意識する瞑想、存在瞑想では楽と楽以後の極楽状態には入って行かないと思います。楽を得る瞑想は「何も意識しない、何もしない瞑想」なのです。

 集中や意識する瞑想でも静まりますが何もしないのではなく集中、意識するということをしているので何もしないという無の瞑想状態ではありません。集中や意識する瞑想では本当の無の状態は来ないのです。集中や意識することで自分を抑えて無になっているのですが自分を抑えなかったら雑念や考え事、感情が出てきてしまって無の状態にはならなくなってしまいます。

 「神を意識する瞑想」に限っては他の瞑想よりも多く脳天から外気と呼ばれる宇宙エネルギー、神仏のエネルギー、生命エネルギーが身体に入ってきます。

   何も求めない、何もしない瞑想

 「何もしない、何も求めない瞑想」は初めて瞑想する人にとっては難しい瞑想であります。何もしないため雑念が出やすいのです。「集中や意識する瞑想」は一生懸命やれば雑念や感情が静まっていき、さらに上手になれば眠ってしまいます。このような集中や意識することで静まっていき眠くなるような瞑想を十数年から何十年とやらないと「何も求めない、何もしない瞑想」はやれません。

   私は三十年前に「何も求めない、何もしない瞑想」をやったができなかった

 今から三十年も前のことですが、私はその頃「一点集中の瞑想」を夢中になってやっていましたが長野県へ行った時にあるお寺の座禅会という看板を見てお寺に入っていき住職に「お釈迦様はどのような座禅(静まりの瞑想と同じ)をやっていたのですか?」と聞いたところ「何も求めない、何もしない、ただ座っているだけだ」と教えてもらいました。それから、家に帰ってその瞑想をやったのですが雑念ばかり出てきてやれなかったのです。集中しないと雑念が出てきてしまうのです。それゆえにその後も「一点集中の瞑想」しかやらなかったのです。

 私が「何も求めない、何もしない瞑想」をやりだしたのは五年前ぐらいからですがその四年ぐらい前にあるテレビを見て外人の住職が何も求めない、座っているだけの座禅をやっていたことを思い出して「やっぱり何もしない、何も求めない瞑想やってみよう」と思ったのです。

   「何も求めない、何もしない瞑想」をやってみて驚いた

 私の五年ぐらい前の瞑想は私の無の状態に疑いを持って自分の無の状態を研究していた頃でした。無になることにはなるが自分を抑えて雑念を止めているような無でした。静まってはいるが本当の無になっているか疑わしかったのです。確かに無になっているが少しは自分を抑えて雑念や感情を出て来ないようにしていたのです。

 二十年ぐらい前に一点集中の瞑想で脳天から性エネルギーが抜けて、それ以来簡単に無になると私は人に話していましたが、その無は瞑想で自分を抑えると簡単に無になるというものです。さらに十年ぐらいすると自分の抑え方が少しでも無になっていきましたが、自分が納得するような無の状態ではなかったのです。

 「何も求めない、何もしない瞑想」をやり始めてから瞑想の初めの状態は自分をしばらく抑えなくてなりませんが、やがて意思して自分を抑えなくても本当の無の状態になっていきました。それを毎日やることで三年もすると楽という状態が現れ始めました。これには驚いてしまいました。最も「何も求めない、何もしない瞑想」をやり始めてから四年ぐらいは寝っ転がって瞑想をやっていました。座って瞑想をやるようになったのは最近です。

 私はまだ解脱はしていませんが楽が現れ始めると、次の瞑想状態は(私の推測ではありますが)楽が強くなってそれが喜びとなっていくと思います。これが最初の解脱(二禅の解脱)です。楽が現れるまでに私の場合、脳天から性エネルギー抜けてから二十年近くかかっており、楽が現れ始めてから最初の解脱まで修行者の精進の仕方によって違ってきますが何年、或いは十何年、何十年とかかると思います。強い楽が現れるとストレスに強くなってくると思われます。

 次の三禅の解脱になると喜びが消えて楽あるのみとなります。楽のマンネリ化で喜びも薄れてくると思われます。次の四禅になると楽も消えて楽を楽とも思わない極楽へと進んでいきます。さらに次は四つの処定を進むにつれて増々極楽になっていき、四つの処定を過ぎて肉体想受滅尽定を終えて何も感じなくなり、何に対しても束縛されずに自由自在の境地に入って神と等しい聖人となります。

   強い楽が現れれば一日一食ができ解脱する

 仏教では普通の人(在家解脱を目指す人かも?)は最初の解脱が訪れるまでに一生かかると説明していますが最初の解脱を目指す者は不善をなくし、日常の欲を大方なくさなければなりませんが、一日一食は当たり前のことです。一日一食せずして最初の解脱や以後の解脱はあり得ないのです。一日一食ができないのは強い楽が瞑想中に現れないのです。そしてその強い楽が現れないから喜びも来ないのです。強い楽によって一日一食が辛くはならないのです。

 おわり

 



 

 
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