百休庵便り

市井の民にて畏れ多くも百休と称せし者ここにありて稀に浮びくる些細浮薄なる思ひ浅学非才不届千万支離滅裂顧みず吐露するもの也

宮史郎さんの 「 女のみち 」 が大好きやった オトン への オマージュ

2017-02-16 19:25:32 | 日記
 H2.1.12 72歳でオトンは死にました。肺がんの手術を受け まもなくのことでした。今年12月 その齢を迎える老生は、この頃 オトンのことをよく思い浮かべます。そして思います。もっともっと 長生きし 好きな歌と 旅を こころゆくまで、浴びるほど 楽しんでほしかったなぁ こんかぎり と。

オトンは、オイラの生まれる 3年前と7年前に 死んでる銀三郎と寸恵という両親、女(没齢30) 男(64) 女(75?) 男(82) 男(8) 男(オトン) 女(30) の兄弟姉妹 という家族構成で育ちました。オトンの父 銀三郎は、町史には 盆踊りの歌い手であった旨 記されておりますが、その血を引いてのことでしょう。オトンは歌が、といっても当時のことですから 演歌となりますが、ほんとうに好きでした。とりわけ好きだったのが 宮史郎さんの 「 女のみち 」。岡山駅近くの「ふき?」とかいう飲み屋に 馴染みの女性がいるようなことも チラッと聞いたことがあるような気がしますが、これと何か関係あるのかどうかは不明です。

オイラは オトンの この血を、イチバンよく引いているのではないかと思っているのですが、オトンは ほんとうに自由人でした。オトンが死んで どのくらい経った頃か定かじゃないですが、県北の駐在所にいた折の オトンのずいぶん年下の上司、現地採用組(ノンキャリア)の警察官としましたら最高のポストの 西だったか東だったか警察署長さんまで上り詰めた 西田さんとおっしゃる方と、鮒めしで超有名だった「太平楽」さんでお会いしたことがあるのですが、もちろん初対面(オトンが引き合わせたのかも)でして、とっくに退職されておられたですが、その西田さんは おっしゃられました。「アンタのお父さんはなぁ、やんちゃ坊主っちゅうか、勤務中といえども自由奔放に振舞われとった、実にユニークな人じゃったですねぇ」と。

戦前一時期、大阪の住友系の会社に務めていたことがあると聞いてますが、大東亜戦争に衛生兵として出征、戦後まもなくから警察官の仕事でありますが、学歴と試験の成績だけで決定づけられる しかも超閉鎖社会となれば、高等小学校卒の学歴で 上述のような気質のオトンなら、まぁどこの組織でも同じことにはなるのでしょうが、一生 ウダツの上がることはなく、北へ北へと左遷させられた とは言っても県内のことですから、最後は鳥取県境にイチバン近い駐在所で止まりということでしたが・・・。ちなみにオイラは初めて、連れ合いは n回目 ( n > 10 ) の 見合い会場となりましたは、結局1年こっきりの勤務先であったですが、温泉で有名な 湯郷の街中にある 派出所の 2階であります。オトンのことだから、きっと フーゾクの取り締まりを大目にみたせいだろうかなぁと、想像しているのですが・・・

子供4人抱え 安月給、超閉鎖社会のうえ ガンジガラメな縛りの 窮屈な仕事となれば、筋金入りの気ままなオトンとしましたら、受けるストレスは さぞかし相当なものだったことでしょう。「オトン、よう我慢して 俺らぁ 育ててくれたなぁ」と、こころから感謝しているのですが、小さい時からオイラは貧しさは十分自覚しておりまして、高校時代は 近くの中学生の家庭教師をしたり、ドカチンの仕事があれば参加したり、1年生のときから春夏冬の休みには必ず、神戸市東灘区 いわゆる灘の酒処にある奈良漬屋さんで 住み込みバイトしたり、修学旅行には行かなかったりと、できる限り親の負担にならないよう心掛けており、オイラがイチバン 親のお金を使わずに育ったと 今でも自負しているのです。

そしてこの話、連れ合いにしてやれば「 マミさんとおんなじだ~ 」と大喜こびするのですが、高3 のときだったですか、夜8時頃 学校発の、大阪で開催されている見本市見学という バス旅行がありまして、夕食を用意してくるようにとありましたので、オイラは、食パンを2枚焼き、実は 焼きすぎて かなり黒くなってしまったのですが、白っぽい安マーガリンを 黒いススの上に塗りたくり、新聞紙にくるんで持っていったのです。で バスのなかで 食べる時を迎えたのですが、周りの連中は 海苔が巻かれている おいしそうなおにぎりが ほとんどでありました。オイラは 周りから見えないようかがみ込み 背を丸め肘を張って パンをかじったのでありますが、味は何も記憶がないですが、ずいぶん しけていたことだけは、よぉく覚えておりますです。

また小さいときからオイラは、兄妹弟の中でも浮いておりました。ただ とりたてて 可愛がられたとか いじめられたとかという記憶はほとんどないですから、ひがんでいるとか悲しむといった 負の気持ちは一切なく、むしろ自ら望んで そうしていたのでありますが、たとえば、中2 から 中3 になるとき オトンが転勤になりまして、その引越しの日、トラックに荷物を積み込み、いざサヨウナラするとき、移動用のタクシーに乗り込むのですが、1台しかありません。となりますと、どうしても 1人 あぶれることになりますが、オイラは とっさに トラックの積み込んだ荷物の中に 飛び込みましたですね。「このほうが よっぽど 心地ええし 楽しいわ」と 強がりでなく ほんとうにそう思って。

オトンには子供の頃からの夢がありました。川舟を持って 漁をすることです。警察官定年退職時に合わせ オイラが小6までいた古い家の上手に 新しく家を建てました。岡山駅前の三井か三菱か信託銀行の警備員として何年か勤めた後は、山で薪を取り、川で漁をし、好きな歌を唱い、独りで(オカンは極度の乗り物酔いにつき欠)旅行に行き、通販で買い物(オカンはいつも嘆いてましたが)やって、ほんとうに楽しそうに過ごしていたのです。が・・・

落ち鮎の季節となりますと、とくに思い出されることがあります。朝霧のなか 網の手入れをしているオトン、「今日は ようけい捕れたぞぉ 」と、いっぱいの鮎を持ってきてくれた オトン。でも その姿には いつの場合も、肺がんと思しき影が重なって見えるのです。オイラは 手術すべきじゃなかったなぁ と今でも 悔やんでいます。ほかの手当てをすれば もっと生きられたのにと思っています。だから「済まなんだぁ オトン 済まなんだぁ 俺がもっと 知っとりゃぁ こんなことにゃならんかったのに」と 今でも強く思っています。オイラは オイラの体に たとえガンができたとしても 絶対に 手術する気はありません。絶対に。

オイラはオトンに気性がよく似ていると思っています。そして オトンが 大好きです。駐在所務めのときは、地域の住民さんに必ず言われたことがあります。「 アンタのお父さんはなぁ、ほんとうに ええ人じゃど 。こんなええ人に居てもろうて ワシラぁ ほんとうに 嬉しいんじゃでぇ 」と。

数ヶ月前、文藝春秋刊 三田完さん著「 不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む 」という本を読んだのですが、この本で 阿久悠さんの親父さんも駐在の巡査さんと 知りました。何と 寺山修司さんもそうだとのこと。オイラが羨む才能のお二方とも、オイラとおんなじとは、何か 嬉しくなってきたですね。ついでですが、阿久悠さんの愛犬の名前も オラんちと 同じ トト ですってよ。 

この稿 書こうと思いましたのは、H29.2.14 BS11 「 あのスターにもう一度逢いたい 」 という番組で、宮史郎さんが特集されたことがきっかけとなってます。この歌を聞くと ことさらに オトンが 思い出されるのです。で、こうして書いてれば、そのうち子供や孫たちが読んでくれ、オイラの記憶を繋いでってくれるのではないかとも願っています。いいオトンでした。オイラは ほんとうに 大好きであります。では、その TV 画面の いくつか ご覧になって下さい。


  この宮史郎さん 若い時のオイラに 何か 似てるんですねぇ  





宮路オサムさん 言われるに、史郎さんの歌い方は 酔っ払いが ションベンに行くとき
「・・・・てかっ」と言って唱う歌い方に似ているので、「 てかソング 」 というのだとか。
これには笑わされましたです

扇ひろこさんの「 片恋酒 」、ある段では 思いが溢れ 歌えなくなったです
オイラは 絶対に オトコとオンナの関係があったんやなぁ と確信しましたです ええ


 < 追 伸 >
 オイラは 昨日から悲しくて仕方ありません。金正男 さんのことです。長男と 瓜二つ ということもあるのですが、北朝鮮を真っ当にできる 唯一の人を亡くした という 絶望的な悲しみに 襲われているのであります。だから 暗殺されたということかもしれませんが、許せないですね。絶対に!!!。
コメント
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