きち女と啄木の距離

女啄木といわれた川場(群馬)の歌人江口きちと御本家石川啄木を、あれこれ気ままにリンクさせてみたいと思います。

歌碑  江口きちの歌碑第一号

2011-08-14 03:33:08 | Weblog

 瀬の色の目立たぬほどの青濁り雪しろのはや交じりくるらし
                           
きち女

名山・武尊山(ほたかやま、2158m)の南麓に広がる川場は、その名の通り村内を清流が幾筋も流れている。街道筋のきち女の住居兼店舗も薄根川という一級河川のすぐ近くにあった。彼女はよくこの薄根川の河原田におりて散策したという。
雪国の人間は春の兆しに敏感なものだが、それにしてもきち女は目ざとい。川面の「目立たぬほど」の異変に気づいてしまうのだから…。
この歌はきち女二十三歳のときの作品だが、こういった自然の中で人が見落としがちなものに目がいき心を動かす傾向は、子どもの頃からのものらしい。
きち女の幼いときからの親友・矢島けいがこんな追懐をしている。

 私たちが七才の秋…。ある日栗の林へ栗拾いに行きました。
よくその場所も記憶していますが、枝と枝の間から空が少し見えていました。母が「きち、お前上ばっかり見てたって栗は拾えやしないよ」こういったのです。私は思うに、きち女は生まれながらの詩人ではなかったかと思われてきます。木の間の空を見てたか、栗がどこから落ちてくるのか、どんな風になっているのか、きっと色々思ったのでしょう。          
矢島けい編著『江口きち書簡集』より       

この「生まれながらの詩人」は、十七歳になって、東京の河井酔茗・島本久恵夫妻が主宰する「女性時代」の誌友となり、ようやく本格的な表現の場を得ることになる。以来自殺する年までのおよそ七年間、短歌を主に投稿していくのだが、それは本人がふりかえっているように、「遊戯的でも野心的でもなく」、「芸術的良心に愧じない」「嘘でない生活記録」であった。

働いて働いて一家を支えてきた母ユワが急逝したのは、きち女が十六のとき。少女は勤めて間もない町の郵便局をやめ、すぐに母が経営していた大衆食堂「栃木屋」をつぐことになる。同居の父や兄はあいかわらず頼りにならず、小学校に通う妹もいて、こんどは彼女が一家の支柱として働かねばならなくなったのだ。生涯、ふくらみこそすれけして消えることのなかった厭世のそもそもの核は、この母の死後あたりからきち女の胸底に生じたようだ。

文芸雑誌「女性時代」を知るのはそれと相前後した時期で、多感な娘の一つ胸底に厭世観と詩魂が同居しはじめる。二つは、いつしか不即不離になって、きち女の日々の感情を大きく支配。作品のひとつひとつはその結晶だったのだ。
それを踏まえてきち女の歌に親しめば、どの歌からもおのずから哀切さがにじんでくる。この早春の歌も例外ではない。

きち女が作った一千首を超える歌の中から歌碑第一号の歌としてこの歌を選んだのは、川場土着の農民歌人だった。秀歌には違いなくもこの作品と決定するまでに、彼は大いに迷ったことだろう。なぜなら、きち女の代表歌の第一は辞世の歌というのが当時すでに定着していたからである。

きち女は、昭和十三年十二月二日払暁、知的障害のある兄の死を見とどけてから自分も青酸カリをあおる。発見されたとき、傍らの炬燵の上に、便箋に書かれた次の二首が遺されていた。

睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初む

大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり

特に「大いなる―」の歌は、きち女の師で作家の島本久恵をして
「江口きち二十六年の生涯は実に実にこの一首への道であった」
と言わしめた。島本が著した『江口きちの生涯』(図書新聞社刊 昭和四十二年)のなかでだが、その言葉は
「私はそれを主人の声からも聴く心地がいたします」
とつづいている。

このとき島本の夫・河井酔茗は故人になっていたが、口語自由詩の開拓と後進の育成に尽力しみづからも平明温雅な作品を発表しつづけたことなどで、その名を日本文学史にとどめている。広辞苑に載るほどの人物
もっとずっと親近感のもてるところをいえば、小学唱歌「鯉のぼり」の作詞者である。そう、あの、

  甍の波と雲の波
  重なる波の中空を
  橘かをる朝風に
  高く泳ぐや鯉のぼり

この唱歌が発表されたのは大正二年(1913)。きち女が生まれた年である。
現在、川場村民俗資料館として活用されている建物は、かつてきち女たちが学んだ校舎を移築したもので、その庭に立つと、窓のどこからかオルガンに合わせて唱歌を歌う当時の子供たちの元気な声が聞こえてきそうだ。もちろん「鯉のぼり」も。その中の一人の女の子が、将来、この歌の作詞者の門に入り、そして死後までも引き立ててもらうことになろうとは、いったい誰が想像できただろう。

し、河井酔茗・島本久恵夫妻がきち女の才能に気づかなかったとしたら、そして二人がその死を惜しんで遺稿集や伝記を世に問わなかったとしたら、彼女の真価を理解する人の層はかなり限られたものになっていたのではないだろうか。

きち女の遺稿集『武尊の麓』(婦女界社 昭和十四年)の広告は、刊行の年に東京と大阪両方の朝日新聞に載り、そのどちらにも「大いなるこの寂けさや―」の寸評が添えられていたという。書いたのは、徳富蘇峰。私などは、群馬は伊香保を主要舞台にした明治時代のベストセラー小説『不如帰』の作者・蘆花の兄として覚えた名前だが、実は、蘇峰は、明治・大正・昭和の三代にわたって活躍したジャーナリストであり歴史家。この巨人の名は、それだけでぞんぶんにキャッチフレーズの役目も果たしたことだろう。

そこでもう一人、異色のきち女理解者の名をあげてみよう。世界的な数学者で文化勲章受章者の岡潔。彼は昭和十四年、大阪朝日新聞に載った広告をみて「十里の道を遠しとせず」奈良から大阪に出てゆき、名もない歌人の遺稿集『武尊の麓』を自ら購入している。そうしてこの人も彼女の辞世の歌「大いなるこの寂けさや―」の絶賛者のひとりとなったのだった。

岡はエッセイ集『月影』のなかの日本民族列伝の章でこの歌を引き合いに出し、驚いたことに、「ある無名女流歌人」としながらも彼女を日本民族の典型の一人とし、聖徳太子らと同じ範疇に並べている。
岡はさらに、この範疇の人たちをみていると松尾芭蕉の句

  白菊の目に立てて見る塵もなし

を連想すると結ぶ。

わがきち女が、いくら目を凝らしてみても塵ひとつない清らかな白菊!
喜ぶのは、ファンばかりではあるまい。当人
が生前にこの章を読んだら、まずは面食らうだろう。
なになに、この私が日本民族の典型のひとり!
そして自分をこのように評価してくれる人もいたのかと感涙し、生涯「流れ者の子、博徒の子」だからと卑屈なほどに苦しんで生きたことをばかばかしく思うのではないだろうか。

川場村文化協会がきち女の歌碑第一号を建てたのは昭和三十七年だから、これら著名文化人の辞世の歌絶賛のほうが だいぶ前のことになる。

では選者はなぜ最終的に、評価の高い辞世の歌でなく「瀬の色の目立たぬほどの―」のほうを選んだのだろうか。

最初私は、辞世の歌のほうはすでにきち女の墓石に刻まれているからそれでよしとしたのだろうかと思ったが、よく調べたら建墓は歌碑が建られてから三ヵ月後だった。
それで推理するのだが、選者が選ぶ基準にしたのは、作者の背景をまったく知らない人にも親しまれる、愛誦性の高い歌だったのではないだろうか。

瀬の色の目立たぬほどの青濁り雪しろのはや交じりくるらし

これなら春の兆しを発見したときの歌だから希望につながって、これから死にゆくときに作られた歌よりも気持ちよく愛誦されていくのでは、と見込んだのではないだろうか。

この私の推理がすこしでもあたっているとすれば、選者がこの歌に託した思いは、果たして思いどおりになってきたかどうか―。

私は、きち女に興味を持つようになってから、よくこの第一号の碑の前に立つようになった。
場所はきち女が愛した薄根川にかかった吊橋・ふれあい橋のたもと。村の吊り橋といっても、ぐらぐら揺らぐ素朴な木の吊り橋ではない。全長226メートル、幅2メートルの堂々とした金属製の吊橋である。
農業が主だった人口約3、4千のこの村は、ただ単に山紫水明の地というだけでなく単純泉の温泉地であり名峰武尊山の登山口であり、おまけに都会からの交通の便(関越自動車道沼田インターからすぐ)もよくて、平成になってから村おこしのためのスマートな半観光地化がすすめらる。この吊り橋もその一環として一年半の歳月を掛けて建設されたもの。
 きち女の歌碑は、最初彼女の家の近くの小さな神社の境内の一隅にあったが、村おこしの「担い手のひとり」として現在の場所に移されたのである。
歌が刻まれた部分は自然石を板状にしたもので、大きさは―たまたま持っていた新聞紙を物差しにしたのでおおよそだが―高さ111センチ、幅55センチ、厚さ10センチ。それが高さ120センチのごつごつした自然石の台座の上にたっている。
橋を渡っていく観光客を見送り渡ってきた観光客を出迎え、そして観光客もこの立っ端二メートル数十の碑におのずと気づかされるようになっている。

ある日、この歌碑を見ているときだった。私の背後ににぎやかな一団が近づいてきた。どうやら観光の熟年男女たち。彼らはたちまち立ち去ったが、残していった言葉が衝撃的だった。

「でっかい位牌だなァ」
「なにが書いてあるの?」
「ぜんぜん読めないよ」
「どうやら俳句みたいだね」

このころはもう私は歌碑の前に立っても、刻まれた文字をいちいちなぞるようなことはなかった
そこに江口きちの歌碑があるからやってきて、しばし彼女に会っているような気分にひたっているだけだった。
しかし、一団の残していった言葉に驚き落胆したものだから、あらためて歌碑の文字をなぞってみる。

短歌の上の句(瀬の色の目立たぬほどの青濁り)が左上、下の句(雪しろのはや交じりくるらし)が右下という散らし書き
しかもひらがなは元のと違う変体がな混じりの連綿

最初、私も難儀して読んだのを思い出す。もし、きち女に関心がなかったら、自分もおそらくさっきの観光客と似たような印象と感想で終わっていたかもしれない。
つまり、この碑は、江口きちとか短歌とか書とか、そういうことに関心のある人はひきつけるだろうが、それ以外の人にとっては、そばの説明書きを読まない限り、なんだかよくわからない立派な碑ということになるのではないだろうか。

 瀬の色の目立たぬほどの青濁り雪しろのはや交じりくるらし

この歌が、この碑を通して多くの人に愛誦されてきたとはとても考えられなくなってしまった。これからだって…、いやよそう、私はこの碑にケチを付けようとしているのではないのだから。
それはともかく、うらやましく思い出されるのが石川啄木の歌碑第一号。刻まれている文字は新聞の活字体である。(啄木は朝日新聞社で校正の仕事にたずさわっている)

  やはらかに柳あをめる
  北上の岸邊目に見ゆ
  泣けとごとくに  啄木

まだ盛岡の啄木公園を訪れてはいないが、写真で見ても清々しい美しさでかつとても読みやすい。さすが歌碑のお手本といわれるだけのことはある。この歌碑の前に立った人のおおかたの胸に、流離の人啄木の思郷の念がストレートに沁みこんでいくのが容易に想像できる。

いつしか私は江口きちの活字体の歌碑を夢見るようになっていた。
こだわるのは活字体ということだけではない。ほかに二つある。それは碑に書かれる歌と碑がおかれる場所。


歌は辞世の二首。

睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初む

大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり

多くの人が言うようにきち女の究極の作品は「大いなるこの寂けさや―」のほうかもしれないが、私は「睡たらひて夜は明けにけり―」のほうと一対にして初めて江口きちの全き辞世の歌といえるのではないだろうかと思っている。
二つの歌の優劣は私にはわからない。しかし身近な雀の鳴き声も漠たる宇宙の静けさも、これからいよいよ自殺を決行しようとしている人間の生身の感覚がとらえた最後のものとして等価である。どちらの歌にも自然への感慨をこめているところが、いかにも自然を愛した歌人らしい。

さて場所だが、それは第一号の歌碑がもとあった小さな神社・古峰神社の境内の一隅。
そこにこだわるわけは―。

きち女の親友のひとりに
、酒井静江という二つ年上の女性がいた。お互いに敬愛する仲で、前述の『江口きち書簡集』のなかでも、その様子をありありとうかがうことができる。
川場を出てから東京市や鎌倉町などに住む(ある時期まで「派出看護婦」として働いていたという)静江
の元に、きち女は何通もの手紙を送っていて、それが大切に保管されていた。

その文面は、病気がちな静江の体調を心配したり、書物等モノを送ってもらったときの感謝を述べたり、恋愛論を展開したり、川場の様子を知らせたり、とさまざま。そんな散文的な文面の中に、自然を愛した詩人らしい言葉がさりげなく埋め込まれていてはっとなる。たとえば、

「自然には飽くない詠嘆とあこがれをもってゐる私は、海の話をきくととても羨ましくなっちゃうの」
「鎌倉のお土産と言っても、海をそのまま背負って来て、と言っても無理だし、海の匂ひと光りとからだに沁ませてもって来て下さい」

啄木の歌や万葉集の歌が添えられていたりもする。

静江のほうはきち女にどんな文面の手紙を送っていたのだろう。
きち女の死の半月前の日記に、「静江さんと○○から来信」と記されているが、内容については触れていない。その五日後の日記に「静江さん、投函」とあり、きち女が返事を書いているようだが、そのあと九日間で途切れてしまう日記には、もう静江の名は登場しない。

しかし驚くなかれ、静江はきち女の死後も、きち女に宛てた手紙を書いていたのである。もちろん投函はしていないが。今私たちは、『江口きち書簡集』の中にその文面の一部を読むことができる。編著者矢島けいが解説の中で紹介してくれたおかげである。

そのあたりのことを、編著者の文章(アンダーライン)ごと引用してみよう。

静江さんが死期の近付いた頃、看てた姪ごさんに、これは私の一番大切なものだからと云われ、武尊の麓、歌集、きち女の手紙を預けられたと云うのを聞きました。
拝見して見たく、早速お借りして、歌集を開いて見ますと、一枚便箋がはさまれています。便箋は6と番号がついていまして、次のことが書かれていました。

それからもう一つ、うれしいお知らせよ。あなたの碑が岩田橋のたもとにある、古峰神社の境内に、川場文化協会で建てゝ下さる由、貴女の愛した武尊山を背景にして、薄根川の流れの音をきゝ乍ら、また川場の村を訪ふ人行く人、良く見えて、うれしいと思います。

このきち女に宛てられた手紙の一片に、私は深く感動させられました。なんと尊い、深い
友愛であろうと。これは歌碑のできた年あたりにかかれたものらしい。その翌年の三月に他界なさいました(三十三年)
 

私が江口きちの辞世の歌の碑を古峰神社の境内の一隅にとこだわる理由は、まさにここのところにあるのだ。
江口きちについて調べていると、彼女が村人に対してすこし捻くれていたとか、疎外感をもっていたとか、いやでもそういう側面を感じることがある。そしてそういう側面があっても無理からぬことだとも思う。ごく一部の村人が父や母に向ける白眼を感受性の強い娘が見逃すわけはなく、それが村人一丸の仕打ちのように勘違いして、小さな胸は屈辱や怨みではちきれそうになったことも少なくなかっただろうから。
だからこそ、きち女が矢島けいや酒井静江(ほかにも何人かいる)のような良き友達に恵まれていたことはいっそう意義深い。きち女の短い生涯のここかしこに明るい光を放つのは、ほかでもないその温かな友情なのだ。

いま引用した部分から、きち女の死後二十年経ったころの静江の変わらぬ友情、まるできち女そのものが歌碑となって最適な場所に佇むような喜びようを知るわけだが、現在、古峰神社の境内にはその肝心な歌碑が存在しない。ふれあい橋のたもとに移されるまで確かに建っていたであろう小さな空間を見るたび、物足りなさを覚えるのは私だけだろうか。

ともかくきち女にとってかけがえのない友のひとり、酒井静江の手紙の言葉をぜひもう一度生きたものにしてもらいたいと願うあまり、辞世の歌二首の活字体の碑の夢が叶うなら、場所は古峰神社の境内の一隅以外には考えられないのである。

さて、最後にもう一度、ふれあい橋のたもとにもどってみよう。


ごく最近、この歌碑の文字を書いた関桜涯という人物について
少し知ることができた。生まれも育ちも川場の人だが、書家として一番活躍したのは、関西だったという。ショッキングだったのは、この書家の得意とするところが、楷書だったということ。なんでも、同じ漢字を書いた半紙を何枚も重ねて針を突き刺すと、上から下まで漢字のまったく同じ位置に針穴ができたという。それほどの楷書の達人なのに、「瀬の色の目立たぬほどの青濁り―」は…。

しかし、私はこの歌碑に刻まれた文字の美しさにも素人ながら魅せられていて、許されるものならいつか拓本にして自分の部屋に飾っておきたいと思っているほどだ。そこにきち女の歌が書かれているからではあるが―。

それから、関桜涯の書を石に刻んだ人の技も凄いと思う。碑陰を見ればなおさらだ。きち女の略歴が書かれているのだが、それはそれは細かい行草の文字が見事に刻まれていて、見るたび感動するのは何よりそこのところだ。

この彫り師について私はまだ何にも調べられずにいるが、もし川場出身のひとであったら、私はこう思う。
この碑は、江口きちの第一号の歌碑にはちがいないが、それと同時にいずれも川場が誇れる歌人、書家、彫り師、三位一体の総合芸術といえるのではないだろうか、と。碑の脇に添えてある説明書きも、江口きちだけでなくほかの二人についても紹介したらどうだろう。そうすれば、碑の前に立った観光客が何が書いてあるかわからないというだけで立ち去ってしまうようなことはもうなくなるだろう。碑は多様な存在価値でふれあい橋のたもとに輝きを放つようになると思う。

○付記

大阪大仙公園内の図書館前庭にある河井酔茗の詩碑には、小学校の教科書にも載った詩の一節が刻まれている。活字体で非常に読みやすい。

 年ごとに
 ゆづりゆづりて
 譲り葉の
 ゆづりしあとに
 また新しく


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