きち女と啄木の距離

女啄木といわれた川場(群馬)の歌人江口きちと御本家石川啄木を、あれこれ気ままにリンクさせてみたいと思います。

江口きちと武尊山

2011-02-11 05:56:09 | Weblog

 武尊根は吾が生れどころ小さきいのちいのち終らば眠らむところ                                                                                                  きち女

昭和三十九(1964)年、山岳随筆『日本百名山』を著した深田久弥は、百座を選ぶ基準を品格・歴史・個性の三つにおいていたという。
武尊山(ほたかやま・2158m)も、「すばらしい立派な自然」「日本武尊の伝説を持ち、昔から信仰の山」「長大な障壁のような山」等々で、登山のエキスパートのお眼鏡に適い名誉の座を獲得している。

この『日本百名山』が出版される三十年ほど前に、きち女が「女性時代」誌に<武尊山>と題した随筆を発表しているが、彼女もそこに山の品格・歴史・個性を書いているところが面白い。地元の人間ならではの或いはきち女ならではの観方で親愛と畏敬の念をもって語り、狭い範囲の中ながら武尊山が名山であることをすでに認識していたことがわかる。
少し引用してみよう。

赤城の優雅な山容、裾野に抱いている村落だけでもかなり多く、その寛大さに比して、武尊はまたあくまで険阻、峻厳、みだりに人間の冒すことをゆるさぬ霊峰である。晴れた日、碧空の彼方にそゝり立つ紫褐色の山の線は荒削りな男性的なものである。私たちの村を少し奥地に入るともう既に山岳地帯で、名のある山名のない山、渓谷、また渓谷と幾重ともなく深く重畳してゆく中に、抽ん出て名山の名をなしているのが武尊である。

きち女はこの随筆の最後の方で、こういっている。  

私が若し他日望郷の日があれば、一番深く想はれる山はおそらく武尊であらう。

きち女は生地である武尊の麓の村、川場で全生涯(二十五年と九日)のほとんどを過ごし、自殺して果てると川場に葬られている。
母ユワが亡くなる前の一時期、隣接した町、沼田に出て下宿したこともあったが、それはその気になれば徒歩でも帰れる距離で、武尊山の威容の前ではひとつ庭を移動したようなものだった。

  武尊根のふところ高み町の鐘聴こえくるかも夕の静寂に
                    
きち女

石川啄木が「石を持て追はるる」心境で岩手の渋民村を出てから北海道、東京と流離し、ついにふるさと渋民に帰ることなく異郷の土となってしまったのと対照的である。
そして、歌にみる二人の願望もまた対照的である。
  
  
今日もまた胸に痛みあり。
    死ぬならば、   
    ふるさとに行きて死なむと思ふ。
  啄木   

    
人ひとり生くるも死ぬもかかはらぬ帝都の隅にかくれ住まばや
                            
 きち女

啄木は渋民村に帰りたかったが帰れずじまい、きち女は川場村を出て行きたかったが出て行けずじまい、どちらも皮肉な運命だった。
                 
きち女は、貧乏、家庭不和、道ならぬ恋などなど、若い女性が独りで煩悶するには重すぎるほどの悩みを抱えていた。狭い村落の中では、人の視線も気になりとかく生き辛い。何度となく出奔願望にこころが揺らぐのである。が、結局は、そのたびに目下の現実を宿命とおもい、諦めている。

   (さか)り来て思へばあはれ武尊なる山辺にいのち小さかりけり  

   
帰りゆく武尊は荒れてその下に住ひうごかぬわが定めあり
      
人の子が生まれ育った土地を離れて初めていえる故郷というものをついに持たなかったきち女の一生は、当然のことながら望郷とは無縁だった。

   
ふるさとの山に向ひて
   言ふことなし
    ふるさとの山はありがたきかな
  啄木                

啄木の歌のようにはきち女は、「ふるさとの山」という言葉を使うことができない。彼女がその言葉を使えるのは、川場を出て都会で暮らす妹や友を思うときにかぎられた。

  
ふるさとを遠住む人よふるさとの山の明け暮れにおもひ走せずや

あとは、妹や友の望郷の景色にも見え隠れするであろう、きち女自身の山の明け暮れをひたすら歌い続ける。
  
  武尊嶺の雪を人づてにきくがほどふところ深く住ふわれかも

  人送り人迎へつつ幾夏を侘び生くらむか武尊裾辺に
                              
きち女の自殺は昭和十三年十二月二日だが、そのわずか二十日前の日記のなかにこんな記述がみえる。

十一月十三日 曇
たきから手紙が来る、榛名からの展望の中に武尊が見えたという。麓に住んでいてさえ武尊を見る時は感動をともなうのだから、ましてふるさとを離れて七年、たまたま旅行中の視野に武尊が現れたらなつかしさもひとしおであったろう。

たきはきち女の最愛の妹。奉公先の旅行で東京から伊香保に来たのである。妹は姉がすでに永訣を覚悟しているとも知らず、

姉さんといっぺんここに来たいと思いました、

とも言ってきたという。
伊香保は川場からわずか数十キロの距離。ファンとしては、苦労を分かち合ってきた姉妹が、いつの日かふたたび肩寄せ合ってしみじみと武尊山を遠望する日が来てほしかった。


日記は、死の四日前の十一月二十八日で終わっている。その江口きち最後の日記にも武尊山は登場する。
短いので、その全文を紹介しよう。

十一月二十八日 晴 
 お湯へ小母さんとゆく。頬を刺すごとき風の中に 川原は蕭條と荒れてゐた。まともに仰がれる武尊に向ひ感慨無量の時しばし。ぬるいお湯に永いこと入つたら すつかり体が疲れてしまつた

  まさに江口きちの一生は最後の最後まで武尊の懐に抱かれ、武尊を仰げる範囲にあったのだった。そして今も、武尊の麓で、村に、人に、大切にされながら眠っている。

 武尊根は吾が生れどころ小さきいのちいのち終らば眠らむところ

一生を純化した調べのよい歌だけれど、彼女を知れば知るほどあだおろそかに口ずさめなくなっていく。

○付記
私の知る利根沼田をふるさとに持つ人はだれしもいう。帰郷の車中から武尊山が見えてくると、その見慣れたはずの折々の美しさに思わず息をのむ、と。
「武尊の残雪」は特に美しく、沼田では沼田八景のひとつになっている。

深田久弥が『日本百名山』のなかで、
私は上州の山へ登るときはいつも、この大きく立ちはだかっている障壁を眺めるのが楽しみであった。
と言っているのも、素直にうなずける。

※次回は、きち女と啄木の演じたそれぞれの「嘘」を予定しています。


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