きち女と啄木の距離

女啄木といわれた川場(群馬)の歌人江口きちと御本家石川啄木を、あれこれ気ままにリンクさせてみたいと思います。

江口きちと相寄る魂

2011-01-19 04:13:19 | Weblog

  生き死にはさもあらばあれひとすじと相寄る魂の揺らぐはなくに
  
                                 きち女

  きち女は「相寄る魂」という言葉が好きだった、と親友矢島けいが書いている。すぐさま晩年の道ならぬ恋と関連付けたくなるが、実はきち女はその恋の始まる前からこの言葉を登場させていた。けいに宛てた手紙に「相寄る魂っていゝ言葉だね」と書いたのは昭和十年、恋が始まる前年である。この相寄る魂の出所は、つぎやんという友人がもっていた生田春月の小説の題名だという。

 その小説『相寄る魂』だが、三年の歳月をかけてようやく完成した(大正十二年、きち女が十歳の頃)三巻からなる長編と知って、私ははなから読むのをあきらめてしまった。どうやら、ついには心中に至る純愛物語のようだ。それに主要人物の厭世ぶりは生半(なまなか)ではなさそう。きち女は恋愛ものが好きで、厭世家、そして読書好きだったから、身近な友達がこの一昔前の人気小説を持っていたとすれば、それを借用して長さなどものともせずに読了していたかもしれない。

 ちょっと調べただけでも、春月の小説以外に、書籍、日本映画、洋画、芝居等々、タイトルに「相寄る魂」のついたものがけっこうある。見た限りいずれも春月の小説の初版より後のものだ。

 評論家亀井勝一郎の『人生論集』(大和書房 昭和四十二年)のなかに<相寄る魂について>という一文がある。私は読んでみて、次のくだりで思わず知らず肯いてしまった。

夫婦として長い生活を続け、それぞれに仕事で苦労したり、或る場合は浮気を起したり、貧乏したり、様々の曲折を経た後、やがてごく素直にそれを回顧し、「お互いに苦労かけたなあ」などと言いあうその状態を、私は「相寄る魂」と言いたいのです。言わば病める魂の抱擁を意味しているわけで…。

  きち女と密かに恋愛関係にあった男性の、きち女亡きあとの歳月を私はふと想像していることがある。そのたびに漠然と旧家の広い屋敷が浮かびあがり、家の中にはきち女のことで傷つけ傷つけられた夫婦の影がこれまた漠然とあって、冷たくて暗い空気が流れているばかりなのだった。それが、そうとばかりは限らないのだということに、いま気づかされたのである。
 夫婦は時間とともに縒りを戻していき、いつしか亀井のいうように相寄る魂状態となり、知らぬ間に偕老同穴となっていたということだってありうるのだ。きち女ファンの私は、それを想像するだけでなぜかホッとする。

  ここで、きち女の<男性に宛てた遺書>の一部分をあらためて見てみよう。

  生きるならきっぱりと 生きなければいけないものを、所詮、生まれついた厭離の念から抜けがたい命は、何の創造もありえないでせう、あなたのためにこれまで生きたいのちでこそあれ、あなたのために死ぬのではないことは幾度もくりかえした通りです、単純な定見から決してご自分をお責めにならぬやう お悔ひになることのあらぬやう祈つてやみません。 
     
島本融編著 『塔影詩社蔵 江口きち資料集成』(不二出版)

  きち女の自殺には、道ならぬ恋の前途を悲観してとか、男性を愛するがゆえに自分を犠牲にしたのだとか、まるまる男性がらみの推測がいくつかある。一方、恋愛云々は自殺決行の時期には作用しただろうが直接の原因ではない、きち女の自殺は遺書にある通りもともとの厭世からだと言い切る人もいる。
 真相は本人のみぞ知るで、永遠の謎である。そうではあるけれども、私の気持はいまようやく遺書を額面通りに受け取るほうに傾きはじめている。きち女はもともとの厭世から自殺したのだと考えると、想像するその後の男性とその妻の”相寄る魂”状態がより現実味を帯びてくる。

 生田春月が、<孤独の結末>と題して、こんな言葉をのこしている。

どんな孤独者でも、その孤独の重みに堪へられなくなる時が来る。そのときは、彼は恋愛するかも知れぬ。自殺するかも知れぬ。ことによると、卑しいゴシップメーカーの中に入つて、ゴシップを楽しむかも知れぬ。恐らく、孤独の対症療法としては、この最後の方法が、最も賢明なものであらう。   
                    阿呆理詰(Aphorismen)より 

 春月もやはり恋愛と自殺を直接連関させてはいない。追い詰められた孤独者の選択肢として並列させている。
  実は春月自身が孤独な厭世家だった。不倫を重ね、しかしそれに心から癒されるということはなく、三十八歳のときに播磨灘で投身自殺をしてしまう。つまり彼は、三つの選択肢のうち”最も賢明なもの”を選ばず、あとの二つを選んだのだった。
   きち女もまた春月同様、”最も賢明なもの”を外したことになる。それは、当然かもしれない。厭世家は、だいたいが自身のゴシップにも傷つきやすいゴシップ恐怖症なのだから。

 ともかくこうしてみると、貧乏、家庭不和、疎外感などでこの上なく孤独だったきち女が、自分の店の客で、村の紳士で、インテリで、おまけに十八も年上の頼もしい男性に恋心を抱いてしまったのも、自然のなりゆきだったと思えてくる。

  青春のよはひはすぎて秋ふかくこの恋ごころかりそめならず 
                                             
  
 しかもその男性は心を動かし向き合ってくれたのである。きち女は青春の齢を過ぎてようやく男女の相寄る魂を実感することができた。最初のうちはそのおおっぴらにできない、けれどけして仮初なんかではない本気の恋を逃したくないという思いで必死だったにちがいない。

  しかし孤独は癒されるかに見えて、所詮、道ならぬ恋、相寄る魂は実はしだいに孤独を深化させるばかりになっていったのである。それが厭世家きち女のかねてからの自殺願望の実現に多かれ少なかれ作用したことは、否めない。
 いまから七十年もそれ以上も前のできごとである、すべては淡々しい光景の中に佇んでいる。

            ※

  きち女の好きだった言葉「相寄る魂」から生田春月にもふれましたが、そこに、きち女の師・河井酔茗が登場することによって、だんだんにさかのぼって石川啄木のところまでたどり着くことができます。次回は、そこを書く予定です。                                                                 


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啄木の死顔 きち女の死顔

2011-01-19 04:06:07 | Weblog

  呼吸すれば、
  胸の中にて鳴る音あり
   凩よりもさびしきその音!

  眼閉づれど、
  心にうかぶ何もなし。
  さびしくも、また、眼をあけるかな。 
 啄木

  睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初む   

 大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり 
                             きち女

 啄木ときち女の最後の作品を並べてみた。二人の死の覚悟の違いを見比べることができないだろうか。

  啄木の二首は、いわゆる辞世の歌ではない。「さびしき」「さびしくも」という語が使われていて、どちらからも満たされない気持ちや心細さがつたわってくる。病が重くなってきてもう死を覚悟はしているものの、なおあきらめきれない生への執着がひっそり潜んでいるような、そんな気がしてならない。

 一方、 きち女の二首は、自死した部屋の炬燵のうえに遺されていた紛れもない辞世の歌。「聴きをさめなる」「時刻あやまたず」という語句からも、ゆるぎない覚悟がみてとれる。

 啄木はもっと生きたかったけれども、病気に負けて死に、きち女はもっと生きられたのに、自ら命を絶ってしまった。そこのところを、少し詳しくみてみよう。

 啄木は結局は病死だったが、自殺を考えたことが何度もあった。

   いくたびか死なむとしては
   死なざりし
   わが來しかたのをかしく悲し
    啄木

 たとえば、ある朝、なんとか明るい気分になりたいと思っていた啄木のもとに、友人から葉書が来る。質に入れてある貸した時計を返してほしいという催促。いわれた日限まであと数日しかない。よけい暗い気持ちになってしまって、次のように落ち込んでしまう。

 ああ! けさほど予の心に 死という問題が 直接に迫ったことがなかった。きょう社に行こうか行くまいか……いや いや それよりもまず 死のうか死ぬまいか?……そうだこの部屋ではいけない。行こう どこかへ行こう……  
                          ローマ字日記より

  それで啄木はいったいどこへ行ったかというと、先日行っていい気持ちになった湯屋。やがて、湯から出ようか出まいか考えているうちに、そのことのほうが主になっていつのまにか死のうか死ぬまいかという心理状態ではなくなっている。そして日記はこうつづく。

水をかぶって あがったとき 予の心は よほど軽かった

 なんだ、啄木の死の逡巡とはこの程度のものだったのか、と思ったら間違いだ。きち女の自殺願望が、拭っても拭いきれない”血の呪詛”に裏打ちされていたので揺れることはあっても消えることがなかったのに対し、啄木のそれは、ある意味一過性である。しかし、その都度、深刻ではあったのだ。

 啄木は、明治四十年五月(二十二歳)、「石をもて追はるるごとく」故郷渋民を出てから北海道に渡る。仕事を得て離散した家族を呼び寄せたかとおもうと、事情ができて一人他所へ移住、一年弱の間に、函館、札幌、小樽、釧路と漂泊している。その間、収入があっても、半独身者のような放恣なところがあったので、家族を常に困窮させていた。

 しかし、啄木の心にあるのはつねに文学であり、家族に対する責任だった。

 明治四十一年春、母と妻子を北海道の親友・宮崎郁雨に託し(父は青森)、小説に賭けようと一人上京する。が、書くものはことごとく失敗、金がないので家族を呼ぼうにも呼べない。自分は同郷の親友・金田一京助に助けられながら、文学を捨てるか、家族を養う責任から解放されるか、いやそのどちらもできない、と日々懊悩する。自殺を考えるのは、それが行き詰ったときだ。実際に電車に飛び込もうとしたこともある。
 単身上京してから一年後の明治四十二年三月、ようやく、東京朝日新聞の校正係として定職に就く啄木だが、六月に宮崎郁雨に付き添われて家族が上京してくるまでの間にも、

ああ!みんなが死んでくれるか 予が死ぬか。ふたつにひとつだ! どこからも金の入りようがない。そして来月は家族が来る……予はいま底にいる――底!ここで死ぬか ここからあがって行くか。ふたつにひとつだ。

  こんな風に死にたいという感情に幾たびも襲われている。
  そんなときの啄木にしてみれば、質草にした時計を返してほしいと日限までいわれて催促されることは、追い討ち以外のなにものでもなかったのだろう。

  立ち直り、夢をもち、生きようとする啄木が、本当に深刻に考えなければならなかったのは、自身の体のことだった。

  そんならば生命が欲しくないのかと、
  医者に言はれて、
  だまりし心!  
      

  啄木の母カツは、渋民を出てから死ぬまで、夫一禎のあとではなく、溺愛した一人息子・一(啄木)のあとを追い続ける。 啄木はカツが娘時代に肺結核を患っていたことを聞いていながら、また彼女が喀血するのを見ていながら、同居の危険に気づかなかった。自身の体調が悪くなってもまだ軽く考えているくらいだから、妻の節子がすでに感染していることにも、なかなか気づいてやれない。ついには、病人だらけの家になって家主に立ち退きを迫られ引っ越すのだが、それでも家族は、一緒だった。啄木一家に限らず、肺結核にたいする当時の認識は、民間ではその程度だったのだろうか。死の病と薬代さえままならない貧困、かててくわえて母と妻の不和、啄木の晩節は悲惨としか言いようのない状態におかれていたのだった。
 明治四十五年に先ずカツが没し、その一ヶ月後にあとを追うように啄木が没し、そしてその翌年の大正二年(この年、きち女生まれる)に妻の節子が没している。

 金田一京助が、

あの啄木を生んだのももちろんおかあさんですが、また、その啄木を生涯浮かび上がることのできない貧困に踏み落としたのも、やはりそのおかあさんだったのです。中略。ああいう苦労をしたからこそ、あれだけの、今日日本の隅々に至るまで多くの人々が多大の感銘を持って読む、あの体験、あの傑作を残せたので、したがって、それらをつくったのもそのおかあさんなのです。

とかなり圧縮していっているが、その意味はわかる。

 きち女は自殺だった。啄木とは反対に生きようとさえすればもっと長く生きられた身体だった。死の二十日前の日記を開いてみよう。

昭和十三年十一月十二日 曇
営業者の健康診断で白沢小学校へ行く、中略、診査は簡単、異常なし。

 胃痛とか歯痛とか、そんなのはよくあったようだが、彼女は元来健康体だったのだ。それから、その健康体を見込まれてかどうか、もうすこしのところで自殺をやめて生の方向へ向きそうになった出来事も見落とせない。なんとそれは死の一週間前であった。日記はまだ書かれていたから、その記録がある。

十一月二十五日 薄曇り 午後は雪ちらつく
生方たつゑさんから、東京の恩師のお宅へ女中にとの手紙を受ける。折も折、思ひがけないことゝて天意か、とも思はれ、夕方なお子さんに相談にゆくやら、近所の人たちにはかるやら、大へん心がうごいた。結局とりやめる、食欲なし。たきから手紙がくる。

 生方たつゑは三重から沼田に嫁いで来た、きち女より十ほど年上の人で、文芸的な関係でわずかながら面識があったようだ。生方が日本の代表的歌人のひとりと目されるようになる前のことである。生方の恩師というのは、著名な歌人今井邦子のこと。今井は、きち女の師・河井酔茗の早くからの門下生で、その半生は波風の多い人だったから、きち女など案外気に入られ、あるいはお手伝いさんというより短歌の世界を広げてもらえる書生のような処遇が受けられたかもしれない。

  きち女がこの話を、心が揺れながら結局は断ってしまった理由のひとつは、プライドだったのではないだろうか。彼女を精神的貴族という人がいるが、そうかもしれない。他人の下で気をつかいながら働くことへの厭い…、彼女なら考えられなくもない。
  ”流れ者で博打うち”だった父・熊吉を異常なまでに憎んだのも、煎じ詰めれば、繊細な若い娘にありがちな精神的貴族のプライドがそうさせたのかもしれない。

  逐はれては死なじと思ふ女子の驕りをもちて死に臨み来し                                                          

 そうだ、忘れてはいけない。きち女には、面倒を見てやらなければならない知的障害をもつ兄がいたのだ。たとえ今井邦子のところの条件がよかったとしても、当てにはできない老父にこの兄を任せて自分ひとり出て行くわけにはいかない。

  いひさとす言葉に涙ぐむわれをおそるるらしもかなしき兄は

  これの生にいのちを受けしかなしさよ兄の若さのやゝすぎむとす

  啄木同様、きち女もまた家族というしがらみから逃れられない宿命を負っていたのである。自分が死んだあとのことまで心配して、生命保険にはいっているほどだった。

  うかららに先立ち死なむ日もあらめ生きのいのちに保険つけてし

 
彼女は兄を道連れしてに逝ったので、この保険は、あんなにも憎んだ父のために役立ったということになる。

 啄木ときち女の死に方の違い、冒頭に掲げた二人の最後の歌にみた覚悟の違いは、そのまま二人の死顔にも違いとなってあらわれた。                

 
若山牧水は、啄木の最期に居合わせたただ一人の友人だが、「石川啄木の臨終」の中で、こう書いている。

 私は永く彼の顔を見てゐられなかった。 よく安らかに眠れるといふ風なことをいふが、彼の死顔はそんなでなかった。

  きち女の親友のひとり・小林なを子は、「江口さんの死の前後」という手記に、きち女の死顔をこんな風に書いている。

  生けるが如きその顔は白い枕の上にきちんと眠ってゐた。おちついた心で対することができた。取り乱したあとは何処にも見られなかった。閉じた眼もすぐ開きさうに、唇もちやんと結んで、どうしても息が通つてゐさうであつた。

 

○付記

啄木の歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』はともに三行書きですが、表記の仕方に少し違いがあります。『悲しき玩具』は三行の頭がそろっていていますが、『悲しき玩具』のほうは、そろっていたりいなかったりいろいろです。それに、『悲しき玩具』では、句読点、感嘆符、ダッシュなどの記号が、散文のように使われています。『一握の砂』ではまったく使われていません。

※次は啄木の妹ときち女の妹を予定しています。


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きち女と雀 啄木と雀

2011-01-11 02:59:08 | Weblog

  睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聽きをさめなる雀鳴き初む
                              
きち女


  ふと思ふ
  ふるさとにゐて日毎聽きし雀の鳴くを
  三年聽かざり               
 啄木

 昭和十三年(きち女の死の年)、「女性時代」誌がアンケートをとったなかに「好きな鳥」は何かという質問があった。これに対してきち女はつぎのように回答している。

 雀、他の鳥を知らないためでせう。

 他の鳥は知らないというが、彼女は、カッコウやキツツキの歌もいくつか詠んでいる。
  
    かなしみを人には告げずわびしらに夕はきけるかくこうの声    

  前山は降りけぶらひてかくこうの声のありどのさだかに知られず 

  春雪のしき降る中に一羽ゐて日もすがらなる啄木鳥の音

  雪に埋む墓場つゞきの竹藪にきつつきのゐて竹つゝく音


 自然の豊かな川場村に住んでいれば、ほかにカラスやヒヨドリなども身近にいただろうし、季節になれば、ウグイスの囀りを聴きツバメの飛翔も見たことだろう。きち女のように自然をこよなく愛した繊細な女性が、村にいる鳥や飛来してくる鳥に無頓着でいるわけがない。そのなかでもっとも親しみ愛した鳥がスズメだったのだ。「他の鳥を知らない」といったのは、それを強調したいがために誇張したのだと思う。
 スズメが一番好きだというだけあって、きち女はスズメの歌をけっこう詠んでいる。

  只一人群れに離れし雀見て一茶の俳句口ずさみけり

  庭先に忍び寄るごとゑを拾ふ雀よ友はいづくに居るの


  夕立の前ぶれなるか雀らの声かしましく鳴いている今


  無邪気なる少女にも似し小雀の家の中まで入りてゐるなり                  
             (昭和四年頃  矢島けい宛手紙で披露)

  寝ねてあれば思ひはかなし屋根の上に遊ぶ雀をいとほしみゐる

  屋根裏の屋根のトタンに一二羽の雀ひそかにあそべるらしも

          
   (昭和八年 歌帖 風邪と雀と)
  
  うち仰ぐ桐のこぬれに愛しもよ雀の群の雪ちらしあそぶ

  觀てあればわれにもの云ひかくるごと雀の所作のひた愛しかも
                          (昭和十年 歌帖)
  
  とび交ひて雪ちらしつゝ桐の枝に雀の所作のひた愛しかも
              
  觀てあればわれにもの言ひかくるごと桐のこぬれに愛しかり雀 
                
                         (昭和十年 女性時代)

  うつつなに晝を臥やれば障子一重隔てて愛し雀來遊ぶ

  羽ばたきの音は障子の外に近し身じろがずゐて姿態(すがた)                      
  想ふも  
                 (昭和十一年 歌帖)

  桑畑の中は小暗く降りもやふ夕をひそかに遊ぶ雀子

  地に低く桑の下葉に遊ぶらし夕かたまけて雨に濡れつゝ

  飛び入りて桐の下葉にひそみしが雨に耐えずや間なく去りけり
                 
(昭和十二年? 歌帖 夕雨と雀 )
  
  軒近く雀來啼くも齒いたみて眠られぬ夜の明けそめにけり

  家ぬちは灯のいろふかきあかつきを雀の群のすでに集へる               

                            (昭和十三年 歌帖)                       
 
 これらを読むと、微笑ましくなったり、頷いてみたり、あげくにスズメに慰められている悩み多き娘の孤独感が伝わってくるような気さえしてくる。辞世の歌にまでスズメを詠み込んでいるが、こうしてみるとそれはいかにもきち女らしい。
 彼女の辞世の歌二首のうち、どうももう一方の「大いなるこの寂けさや」と歌いだす方が重んじられる傾向にあるのが、私には少し不満である。歌の文学的なよしあしは判らないが、故人の思い入れを重視してみれば、二首は同等の価値があるように思えてならないのだ。

  睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聽きをさめなる雀鳴き初む

  大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり

 雀と天地、つまり掌上にも乗るほどの小さな生き物と広漠とした宇宙空間、二首はたくまずして絶妙な対比となっていて、支えあってバランスをとっている一対のもの、そんな風なみかたもできなくはない。

  さて、啄木のほうだが、スズメの歌は冒頭の一首だけなのだろうか。それにしても日本ではもっともポピュラーな鳥であるスズメの鳴くのを、三年も聴かないなんてことはありえないような気がする。啄木は、ふるさとを喪失してから終焉の地東京に出てくるまでの間に北海道を約一年間漂泊しているが、その北海道にだって、明治には稲作が本格的になりスズメがいたという。この詩人は、三歩、三度、三月、三尺四方などなど、三という数字をよくつかっていて、それらはときに歌のイメージや調子づくりを優先させた数字なのかもしれない。それはともかく啄木にとっても渋民村にいるときは、やはりスズメがもっとも身近な鳥だったということがわかる。 
 
最後に啄木が函館で書いた日記を引用してみよう。

 今日は京子の誕生日なり。新鮭を焼きまた煮て一家四人晩餐を共にす。 人の子にして、人の夫にして、また人の親たる予は、噫、未だ有せざるなり、天が下にこの五尺の身を容るべき家を、劫遠を安んずべき心の巣を。寒さに凍ゆる雀だに温かき巣をば持ちたるに。               (明治四十年十二月二十九日)

渋民村の広い禅房に育ちながら、ここには、いまやスズメをも羨む家なき子啄木が…。

○付記
※「女性時代」誌の同じアンケートで他に八つの質問があり、きち女はすべて回答を寄せているが、そのうちの二つ。

問 生まれた土地(府縣市町村名)
回答 群馬縣利根郡川場村谷地

問 現在住んでいる家の近所
回答 二十年位前までは通るのも淋しい原だつたのが、今ではやゝ村の中心となつてゐます。從つて父祖傳來の舊家もなく、床しい傳統も持合せない植民地?です。公けの建物が近年續設され、その昔荒涼たる原つぱに新開の闘士だつた我家も、だんだん肩身せまく「故郷の廃家」になりつゝあります。隣村白澤と境をなす雨乞山を毎日毎日見てゐます。

※あとから歌帖にウグイスの歌発見

  清流のたぎち流るゝかたへには夏深くして鶯啼くも
                         きち女

※次回は、「一つ書物にきち女と啄木が…」を予定しています。


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啄木の父 きち女の父

2011-01-02 04:18:54 | Weblog
    かなしきは我が父!
   今日も新聞を読みあきて、
   庭に小蟻とあそべり           啄木

   老父がすべなき業に昼はやく風呂焚くらしも音の静けさ                          きち女

 啄木ときち女の境涯に関心をもつ前の私だったら、二首とも、所在無げな老父の孤影を子としてどこか哀れみ寂しんでいる歌、それぐらいのところで鑑賞は終わっていたと思う。しかし、今はついつい深読みをしてしまう。すでに死病を得ていた啄木と自死を引き寄せていたきち女の歌である、もっと複雑な心情がこめられているのではないだろうか、などと。ちなみに、ここに詠われた頃の二人の父はどちらもまだ六十代のはじめ。「老父」といっても、またいまどきの六十代とは年のとりかたが違うといっても、まだ老いさらばえるような年ではない。にもかかわらず、いやそれ以前から、一家が極がつくほどの貧に迫る状態にあっても、経済的にほとんど頼りにならない父たちだった。

 ある時期まで、石川啄木の父・一禎(嘉永三年生まれ~昭和二年没・享年七十七)は寺の住職、江口きちの父・熊吉(明治六年生まれ~昭和17年没・享年六十九)は博徒だった。特権階級として仏道を歩いてきた者と国禁を犯して見え隠れに極道を歩いてきた者、社会人としては両極に生きた二人ではある。 が、それぞれの子供時代までさかのぼれば、なにやら共通点がなくもない。

 どちらも生い立ちに関する資料は乏しいとはいうものの、熱心で優れた研究家たちのおかげで、今、私たちにはある程度の輪郭をつかむことができる。 一禎も熊吉も再婚した母の連れ子だったという。ふたりともそれに伴う家庭的な悲哀をあじわい、やがては否応無しの出家と止むにやまれぬ家出というかたちで僧になり博徒になっていく。元々は一禎は寺の子ではなかったし、熊吉は渡世人とは無縁だったのだ。

 一禎が僧にならなければ、師僧・対月の妹カツと相思相愛の仲になって結婚し啄木をもうけることはなかったし、熊吉が渡世人にならなければ、流れていった先で似たような境遇のユワと意気投合して結婚しきち女をもうけることもなかった。

啄木ときち女はこの世に生をうけたことだけでなく、薄幸のまま夭死しなければならなかったこともまた、煎じ詰めればその父たちの運命と大きくかかわっているのだった。一禎も熊吉も家族をおいて失踪事件を起こしているが、そのあたりを軸に因果を探ってみたい。

   ○

   ふるさとの寺の畔の
   ひばの木の
   いただきに来て啼きし閑古鳥!      啄木

 石川一禎は啄木が一歳のとき、小さな寺から渋民にある格上の寺、宝徳寺の住職におさまった。しかし、極端な言い方だが急逝した前住職の遺族を放逐させ窮地に追い込んだ上での赴任だったから、裏で反対派檀徒の恨みをかったのはいうまでもない。そのくすぶりが、のちのち石川一家を離散へと追い込む火の手のひとつになろうとは、このとき一禎は知るよしもない。

  啄木の幼年期・少年期は、この渋民村宝徳寺を中心にして育まれる。父母にはこの上なく大事にされ、寺を一歩出れば、岩手山が目に飛び込み、北上川も指呼の間、ゆたかな自然があった。啄木の短い人生でいちばん恵まれていた時代は、まさしくここにあったのだ。懐かしいはずである。晩年、

   今日もまた胸に痛みあり。
   死ぬならば、
   ふるさとに行きて死なむと思ふ。

と詠うほどに恋しがる。
しかしそのふるさとは、もう五年も前に喪失していたのだった。

 故郷喪失までの過程を少しさぐってみよう。
一禎が宝徳寺に赴任して十八年後、宗費の滞納が理由で一禎が曹洞宗宗務院から住職を罷免されてしまう。なんでも、中学を中退し文学での成功を夢をみて上京したり帰郷したりの息子(啄木)のために、宗費を流用してしまったらしい。
 寺を出た一家は、渋民、盛岡(途中から一禎は野辺地)と困窮した生活を送った後、再び渋民村に戻って、住み慣れた宝徳寺を目と鼻の先に借間暮らしを始める。

※一家が宗費滞納で宝徳寺を放逐されてからというもの啄木の懊悩ぶりはすざまじく、常軌を逸した行動が目立つ。友人たちがお膳立てしてくれた自分の結婚式をすっぽかしたり、著名な詩人に偽手紙を書いて金銭的な迷惑をかけたり、こんな行動もこの父の住職罷免のショックに関連付けられそうだ。

 やがて一禎が懲戒赦免となり、一家は宝徳寺再住にのぞみをかけるようになる。だが…、反対派の遺恨晴らさんばかりの迫害などもあり、村の空気に耐えられなくなった一禎は、師僧・対月(妻の兄、啄木の伯父)をたよってひとり家出をしてしまうのだ。このことによって啄木たちの宝徳寺再住運動は頓挫し、ややあって一家は離散、ついに故郷を永久に喪失することになる。啄木が数え二十二歳のときだった。

   石をもて追はるるごとく
   ふるさとを出でしかなしみ
   消ゆる時なし           啄木

 作家・水上勉は、「禅寺の子、啄木」というエッセイのなかで、こう書いている。

「渋民村宝徳寺は、啄木の短い生涯をつらぬく、精神の根となって鮮明だ。一所不住、随所作主の禅境は、むしろ啄木によって実現された。寺にしがみつこうとした父によって、啄木は漂白を与えられた。」                        (国文学増刊号 石川啄木の手帖 学灯社)

  父から漂白を与えられたといっても、啄木には禅僧のような覚悟はできていなかった。一禎は、息子だけは自分と同じ苦労はさせたくない、仏道ではなく好きな道を歩ませてやりたい、と啄木にはあえて後継の教育をしてこなかったのだ。つまり文学への野心だけを芯に北海道、東京を漂白した啄木には、最後まで禅境といえるような達成感や充足感などはなかったはずだ。 

 宝徳寺を放逐されて以来、一家を養う気力さえも失ってしまった父・一禎。かわって啄木が頼られる身となるが、漂白は彼を生活破綻者にし、いよいよ家族に多大な犠牲を強いるようになる。

 やがて啄木は当たり前の生活者になるべく東京朝日新聞社の校正係の仕事を得て、ようやく家族を一つ屋根の下に寄せる。だが、それも幸せとはいえなかった。貧困、嫁姑の確執に悩みそしてついには当時の死病・結核に侵されてしまうのだ。
では、一禎はといえば、ここでも耐えられず、こんどは北海道の娘夫婦をたよって、再び家出をしてしまう。

  病床の枕辺に来た幼い娘をみながら、啄木はこう詠う。

  その親にも、
    親の親にも似るなかれ――
  かく汝が父は思へるぞ、子よ。

しかし、啄木は父を恨んではいない。むしろ逆である。

  ただ一人の
  をとこの子なる我はかく育てり。
   父母も悲しかるらむ

     ○

それでは、一方の江口熊吉は、失踪によって娘のきち女にどのような影響を与えたのだろうか。


たましいの底の底なるうめきかも父につながる血のいきどほろし                                           
                               きち女

 上州の侠客といえば国定忠次がまずあげられるが、同じ江戸後期に活動し、関東一の大親分といわれた侠客・大前田英五郎も上州の出である。この英五郎の流れをくむ一派で、利根沼田の縄張りを分与されたのが川場の与五郎という親分。そして与五郎の跡目を継いだのが、やはり川場の金五郎。江口きちの父熊吉は、この金五郎親分の配下として末尾のほうに名を連ねている。

 熊吉が妻ユワを連れ金五郎親分をたよって川場に流れ着いたのは明治三十九年(啄木が故郷を喪失する前年)だという。二、三年間は親分(といっても、金五郎は堅気の仕事についていた)の家に身を寄せていたが、四十二年にきち女の兄・広寿がうまれて、その年のうちに同じ村の禅寺の一隅にあった元隠居屋へ引っ越している。きち女が生まれたのは、杉林を背にしたその小さな家だった。大正二年のことである。

 ちなみにその禅寺は臨済宗桂昌寺で、当時は、きち女終生の親友・であり、きち女の死後、貴重な資料『江口きち書簡集』を刊行した矢島けいの父親が住職をしていた。『江口きち書簡集』のなかにみつけたのだが、きち女がけい宛にこんなことを書いているくだりがある。

「お墓は静かだね。この間日が暮れてからしばらくお墓にしゃがんでいてしみじみと静かさを感じた。お墓は人間の最後の安住の地だね。お寺はいゝよ。まったく。あのお寺を離れる時はあなたはきっと泣くに違いない。お寺は私の幼い頃を育ててくれたんだもの。そして、私は終ひにはあのお寺へ帰ってゆくんだもの―。」

 昭和五年八月十九日に投函しているので、母のユワが急死してからまだ二ヵ月半しかたっていない。きち女の死の願望が、母の死を契機にしていることが、ここにもみてとれる。背後に父との確執、あるいはきち女の一方的な父への憎悪がてつだっていることもいなめない。

 江口熊吉が家出をしたのは、きち女がまだ赤ん坊のときだった。理由が理由だから、家出というよりは逃亡といったほうがふさわしいのかもしれない。なんでも金五郎一家の内部で暴力沙汰があり、沼田署が踏み込んだところ、一網打尽のはずが熊吉だけがすばしこく遁ズラして、そのまま川場から姿を消してしまったのだという。

  人目を避けてひょっこり家に戻ることもあったが、出て行くときはたいてい妻のユワに金を無心したという。またいっぽうで家に金をおきにきたという話もある。熊吉がすっかり足を洗って家に戻ったときには、十年の歳月が流れていた。
いずれにしてもこの間のユワの苦労は一通りではなかったはず。きち女の下にもう一人の娘たきが生まれ、女手ひとつで三人の子を養ってきたのである。長男の広寿が脳膜炎の後遺症で知恵遅れとなってしまったことも、苦労に追い討ちをかけた。さらに博打うちの妻、自分だけ逃げた卑怯者の妻、酒を飲ませるために男に媚を売る女などなど、好ましくないレッテルを貼りたがる人もいて、その蔑視にも耐えなければならなかったのだ。

  ただ一人の夫失へる女さへ容れざりし世にいきどほりわく

 これは回想歌のようだ。母を思って慟哭した日々が忘れられないのであろう。                               物心ついたときからそうした母の苦労を自分も傷つきながら傍らでじっと見守ってきたきち女である、元はといえばこれもそれもみんな父が悪い、と心底熊吉を憎みつづけるのも無理のないことだった。

  火の如くわが眼に燃ゆる憎しびはけはしかるらし父を刺しつつ   

  魂揺らぐ憤りはこれの骨肉の父に因るものぞあはれ骨肉の

 冒頭の歌もそうだが、この二首の歌だけでも、きち女を厭世家にしてしまった大きな原因がほかならぬ熊吉の生き方にあったということが感じ取れる。熊吉がつらい子供時代を過ごし国禁の博徒になってしまったのも運命なら、きち女が、その博徒、罪を犯し妻子をかえりみなかった男を父に持たなければならなかったのも運命である。その苦しみは、きち女の日々のいろんな感情にからんで生涯離れることはなかった。

 ここで、江口家に初めて女の子が誕生したときにもどってみよう。誰がどういう思いをこめて、<きち>という名前をつけたかをちょっと考えてみたくなった。母親のユワが、自分のような不幸な女になってもらいたくないので、縁起のよい<吉>をひらがなにして名づけた、という説がある。なるほどと思うと同時に、その吉の字は父親の名の一字であるということも意識しないではいられない。泉下のきち女に聞かれたら墓石がゆれるほど怒られそうだが――。 いまのところ熊吉が娘の誕生を喜ばなかったという記述には出合ってないので、なんでも自由に想像できるというものだ。目じりをさげた父親のイナイイナイバアやタカイタカイに、みどり児が無邪気に笑いはしゃぐ光景さえ浮かんでくる。

 しかし、たとえそんな風に父に可愛がられた赤ん坊だったとしても、哀しいかなきち女のほうに当時の記憶が残っているはずがない。

 その点、啄木は幼いときに父に存分に可愛がられた記憶があるので、何があっても父に心底の恨みを抱くことなどはなかったのではないだろうか。

  われ父の怒りをうけて聲たかく父を罵り泣ける日おもふ
                              啄木                         

 こういう歌からさえ、啄木の懐旧の思いが切なくもやわらかく伝わってくる。

それでは、きち女には、最後まで父を思う気持ちはまったくなかったのだろうか。『江口きち書簡集』のなかから、編著者・矢島けいの解説文を抜粋してみたい。答えが見つかるはずである。

「それはもう二十才ころにも成りました頃かしら、あるとき、うちで三人のおしゃべりが、親達のことになってきち女が、父親を憎む話をしますと、さくのさんがさからうように、『なぜそんなに肉身(ママ)の親を憎まなきゃなんないの?私の父親だって一向いいと云えるわけじゃないけど、親だもの、憎むなんて』こんなことを色々云いましたら、きち女は、怒ったようにまた辛そうに『肉身(ママ)が肉身を憎む気持ちなんて、さくのさんになんか解んないさ』、と云ってました。それから何年かを過ぎた十三年、母の碑に刻む字を私の父に頼みに来ましたとか、父はきち女を知ってますから何も云わなかったそうでした。私の母はそれではすまされない性質できち女に頼むように云って父親を一緒に刻んで置くことをすゝめたそうでしたが、つい聞き入れませんで出ていきましたとか、すると戻ってきまして、『ぢゃあ小母さん矢張り頼むよ』、そういったそうです。これは母が私に話した事です。この頃は大分父を思う心が見えてましたが、それを自分でみとめたくはなかったのでしょう。」

 矢島けいは「この頃は大分父を思う心が見えてましたが」といっている。文中の十三年は、きち女が兄広寿を道連れに自殺した年で、昭和十三年。 同じ年でも、死の二週間ほど前に東京で働く妹のたきに宛てたきち女の手紙の文面になると、それはいっそうあきらかである。

「間に合はないと思ふが、神田かに、古着屋がたいへんあるさうだねえ、そこでもどこでも父の外たうを一枚買って送つてくれないか、むろん安いのでいゝのだから、なるべく丈夫さうなのを探して、新しいのはとても今年は高いし、買えないから。こんな買い物はいやだらうけれど、お願ひする。袖が筒袖になってゐるのをね、オーバーでは着物の上だから、窮屈で駄目なのだ。」
          『塔影詩社蔵 江口きち資料集成』島本融編より




[付記]
※矢島けいの文中のさくのさんというのは、きち女の同級生・林さくののことで、彼女もきち女からもらった手紙をいくつか残している。二人の間に生じた齟齬を、きち女が一方的に躍起となっている様子が肉声のように伝わってきて、きち女の性格の一端を知るよすがになる。

※群馬出身の著名な歌人・土屋文明もきち女と似たような苦しみを味
わった一人だ。文明の場合は父ではなく祖父が博徒だった。それも最後には群盗の一味となって捕まり、牢死しているという。文明が生まれるまえのことではあったが、少年時代に事実を知って衝撃をうけ、「村人に逢うのも恐ろしく」「土にももぐりたい心持」が数年も続いたという。また、文明は父の事業の失敗で、啄木と同じように故郷の家を失っている。その悲しみは、後年の歌にもみえる。

 ひたすらに父はかなしき売りし家に携へかへる夢しばしばにして      

 父の代よりいりくめる金のいきさつに帰る日なけむあはれ故さと  

だが、彼は啄木やきち女とちがって、薄命ではなかった。啄木が生まれた四年後に生まれ、きち女の生きた時代を通り越し、平成になってなんと百歳で没している。晩年、世に貢献した文学者として文化勲章も受賞した。自己実現の夢をかなえ、天寿を全うすることができた土屋文明、彼はどのようにして運命を切り開いていったのだろうか?

※矢島けいの解説文のなかに、肉身という語がでてくる。はじめ、肉親の書き間違いではないかと思って、『江口きち書簡集』の正誤表をみてみたが、触れてはいなかった。ところが驚いたことにたまたま手にとって何気なく読み始めた啄木の小説『刑余の叔父』にこの字が出てきたのである。

  母の肉身の弟ではあったが、

 と。そしてそれには「しんみ」とルビがふってあった。
 ついでながら、この小説の主人公・母の肉身の弟は、

  酒の次には博奕が所好で、血腥い噂に其名の出ぬ事はない。

 という人物。


◎次は、きち女の愛した沼田を、啄木の盛岡時代にも少しふれながら書きたいと思っています。

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母の肖像  ②啄木の母カツ

2011-01-01 20:12:05 | Weblog



  あたたかき飯を子に盛り古飯に湯をかけたまふ母の白髪       啄木


  啄木の母カツの写真は一点も公開されていない。

 カツは啄木二十七年の生涯に多大な影響与えた女性で、啄木の二大親友の一人、金田一京助などは、煎じ詰めたところをこういいきっている。

「あの啄木を生んだのももちろんおかあさんですが、また、その啄木を生涯浮かび上がることのできない貧困に踏み落としたのも、やはりそのおかあさんだったのです。中略。ああいう苦労をしたからこそ、あれだけの、今日日本の隅々に至るまで多くの人々が多大の感銘を持って読む、あの体験、あの傑作を残せたので、したがって、それらをつくったのもそのおかあさんなのです」

 啄木はもちろんのこと父や姉・妹の写真が公開されているだけに、肝心な母の写真が1点も無いというのは、さびしくものたりないことだ。それゆえ、妹光子が『悲しき兄 啄木』のなかで書いている次のくだりは、見過ごせない。

「自分で写真機を工夫して、一生懸命に造りあげ、それで母と私を写してくれたことがあります。私が多分十二歳ぐらゐの時ではなかつたかと思ひます。あの写真こそどうなりましたでせう。勿論完全な写真ではなく、ぼんやりしたものでしたが、母の面影を偲ぶにはこよないものでしたし、兄の手で工夫された機械でとつたものですのに」

 啄木は光子より二つ年上だから、彼が十四、五のころの話だ。岩手の盛岡中学在学中で、休暇で渋民村に帰省していたときらしい。その写真が存在すれば、私たちは五十代半ばの啄木の母の顔を知ることになる。

 しかし、カメラがまだまだ一般の人には珍しかった明治三十年代に、しかもそんな年端の少年に、いったいどれほどの光学器械が手造りできたのだろうか。盛岡の石川啄木記念館の方にたずねてみると、形も仕組みもどんなものであったか、まったくが見当かつないという。

 ちなみに、その明治三十年代に、群馬の前橋にもカメラに興味を持った、啄木と同い年の少年がいた。その名は、後に啄木の影響も受けたといわれる、大詩人、萩原朔太郎。彼の持っていたカメラは市販のもので、「軽便写真器」といわれたものらしい。アマチュア向けとはいえ、ガラス乾板を使用する本格的なものだった。最初の作品といわれる「萩原病院病室新築工事」など、画面の六分の一ほどに小さくおさまった複数の人物の表情までがかなり判別できる。

 啄木が手造りのカメラで撮ったという写真は、もとよりそれと比較にはならないが、 もしいま発見されたとして、果たしてそこにカツと判別できる影が残っているかどうか。江口きちの母娘の写真よりさらに20年以上も遡るのだ。もともと不完全でぼんやりしていた写真だというから、いよいよあやしくなってくる。

 それでも啄木の研究家やファンの多くが、いつかどこからかその現物が発見されないだろうか、と垂涎しつづけている。それは、どこか幻のツチノコ探しに似ているような気がしないでもない。見たという人が一人でもいるかぎり、人々の夢はついえないのだ。啄木の妹光子が書き残した一言が、はからずも啄木を愛する人々にひとつのロマンを与えつづけている。

 では、カツの顔をイメージしようとするとき、基準になる写真がないかといえば、否である。
カツと啄木の親子は、顔がよく似ていたと証言する啄木の友人がいるのだ。また写真を並べて見ればわかるが、啄木の長女京子はどこか父親似である。つまり、カツの孫娘も彼女に似ているということになる。
啄木と京子をたして二で割ったような顔を、カツの時々の年齢相応にイメージすれば、当らずと雖も遠からず、というところではないだろうか。

岩城之徳の『石川啄木伝』のなかに、

「啄木の母は若いときは温和な性質で綺麗な女性であった」

という伝聞が記述されている。啄木の妻との確執などから、どちらかといえば気が強くて意地悪な老女とイメージされがちなカツをおもうと、この一行は爽快だ。生前の啄木が読んだら、どんなにか喜んだことだろう。彼はカツ四十歳のときの子で母の若いときの顔を知らない。東京で電車に乗り合わせた見知らぬ若い母親の顔を見てさえ、こんな夢想をするほどだ。

「その顔の形が、予の老いたる母の若かった頃は多分こんなだったろうと思われるほど鼻、頬、眼………顔一体が似ていた」
                             『ローマ字日記』より


付記
カツの生まれたのは弘化四年(1847)。その翌年に御用商人が銀板写真機を輸入している。日本人が写した初めての日本人とされる島津斉彬の写真が登場するのは、それからだいぶ経ってからのことである。ちなみに、カツの生まれた前年には皇女和宮が生まれている。カツは、ついには最後の賊軍とまでいわれた南部藩の下級武士の娘として、人生の最初の三分の一を幕末に生きた人だった。



次回の予定は、啄木ときち女の歌碑についてです。


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母の肖像  ①きち女の母ユワ

2011-01-01 19:49:18 | Weblog

  いとまなき身をもかこたずわがためにひな飾りする母なりしかな    きち女                               

 江口きち女の母ユワの写真は、知るかぎりでは二点が公開されている。 
 
 どちらも娘二人といっしょだが、初めてこのユワと対面したとき、わが目を疑った。
彼女の両脇にいるきち女とたき子が今の小学生の幼さなのに比して、その親というに
はあまりにも老け過ぎて見えたからだ。撮影時は「大正十二年?」と「大正十四年頃」
とあるので、明治十三(1879)年生れのユワは、実際にはまだ四十代の半ばだっ
た。昔の人は今の同い年よりずっと老けて見えたとはよく聞くところだが、それにし
てもである。

 もし、何の知識も持たずにいきなり見せられたら、正直、二点とも「祖母と孫娘」
の記念写真と勘違いしてもおかしくはない。

 そのころのきち女の家は、博徒間の事件にかかわって長いこと逃亡状態だった父熊
吉がもう戻っていて、家族全員がそろった五人暮らしだった。しかし、熊吉は定職を
持たず、また、きち女より5歳近く年上の廣寿は知的障害があって、男二人は二人な
がらあまりたよりにはならない存在。一家を養う中心は、あいかわらずユワの
細腕だったのである。それにしてもである、写真のユワの顔はその苦労を物語って余
りある―。

 ユワの顔を見るたびに、「それにしても」は、つきまとう。

 だが、あるとき写真が専門の学芸員Mさんの話をきいて得心がいった。Mさんによ
ると、当時の写真の感光材料には不完全なものが多く、肉眼の印象を今ほどうまく再
現できなかった。また古い写真は変退色していることが多く、ハーフトーンで表現さ
れていた部分が間引かれてコントラストの強い画像に変化していがちだ。さらにオリジナルであるか複写であるかによっても、感じが違ってくる。このユワの場合も、これらのマイナス要素が生活のやつれをてつだって、過度に老けて見えるのではないだろうか、という。

 いわれて引き算をしながらユワの顔をあらためて見ると、たしかに若返る。かなり若がえる。

 そうか、きち女の母について触れている資料からその時々の彼女の顔をイメージしたかったら、この2点の写真の顔を足し算引き算してみればいいのだ。  

 ユワは人生の後半分、約四半世紀を川場で過ごしている。明治三十九(一九〇五)年に熊吉と一緒に金五郎親分を頼って川場に流れ着いた頃のユワは、まだ二十五、六。
この頃の顔は、もちろんグンと引き算をする。そして、朝食の支度中に脳卒中で倒れて不帰の人となったのは、五十一というから、その顔は、最初老け過ぎて見えた写真そのままにちかいのかもしれない。こうしてどうイメージしようとも、本人の顔からひどくかけ離れて別人のようになるということはまずないだろう。
 
 きち女は次のようなことを日記に書いている。

「母もかなしく、子もかなしく、私は早くから母の嘆きを知り、母もまた我が子の心 に哀傷のひそむことを見逃さなかった」

 Mさんの話を聞くまでは、私はこれを2点の写真のキャプションにしてもいいような文章だと思っていた。なぜなら、ユワが老け過ぎているのと同時に、きち女の表情がやけに暗いからだ。

 この表情の暗さは、感光材料や変退色とは無関係だ。しかし考えてみれば、どうみても母の嘆きを知って哀傷をひそませるには、少女はまだ幼すぎる。慣れないカメラの前で緊張していた、そんな見方が妥当かもしれない。

「おユワ さんは、私に身近なおばさんのようでなつかしい人でした」
「いいおかあさんだとおもいます」

 これは、きち女への厚い友情から『江口きち書簡集』というたいへん貴重な編著を遺した矢島けいのことばだが、彼女はこんなこともいっている。

「おユワさん、この人の、一番印象に残ってます姿は、炉端で独りあぐらをかいて、お 酒を飲みながら私達を優しくほゝ笑みながらみてたことです。花を作ることが大好きで朝顔は毎年でした」

  不幸一色に思われがちなユワの一生にも、ささやかながら幸せな時間があったことがうかがえる。そうして写真にもどれば、彼女はたしかに微笑んでいるのだ。 愛娘二人を両脇に、当時の山村ではまだ特別なことだった写真撮影をしてもらうのだ、ユワにとって、これもまた幸せなひと時であったにちがいない。

付記
この二枚の写真が撮られたころ、正確に言えば大正十三年夏、若山牧水が『みなかみ紀行』の初版を刊行。そのなかに、大正十一年の秋、上州・沼田に一泊したあと、次の宿・老神温泉をめざして片品川(利根川水系)沿いを歩いて遡っていったことが書かれている。
若山牧水といえば、啄木の最期をみとった唯ひとりの友人であり、また後世の研究家に天才として啄木とならび称されることもある歌人。その牧水が、後に女啄木といわれる少女が住む村・川場のすぐ隣の村をてくてく歩いて通過していったのだ。
(もっと時間をずらせば、きち女は沼田とかかわりが深いので、牧水の通った同じ道の上を何度となく行き来したに違いない)
ちなみに、牧水は自分が選んで歩いた旧道の眺めに酔い、片品渓谷のあたりでも、いくつかの歌を残している。
  
 路かよふ崖のさなかをわが行きてはろけき空を見ればかなしも

 岩陰の青渦がうへにうかびゐて色あざやけき落葉もみぢ葉


※次回は、啄木の母の写真についてです。


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