きち女と啄木の距離

女啄木といわれた川場(群馬)の歌人江口きちと御本家石川啄木を、あれこれ気ままにリンクさせてみたいと思います。

はじめに

2008-11-26 20:54:44 | Weblog
 このブログタイトルから、きち女とは、啄木をめぐる女性の一人なのだろうか、と思われた向きがあるかもしれません。それで、最初にお断りしておきますが、きち女は啄木とは直接には何の繋がりもない無関係の女性です。生きた時代からして、少しずれていました。きち女が生まれたのは大正二年(一九一三)十一月。啄木はその一年七ヶ月前、明治四十五年(一九一二)四月にすでにこの世を去っています。

 その無関係な二人を、私はこれから並べて書こうとしています。きっかけとなったのは、きち女はなぜ女啄木といわれたのだろうか、というちょっとした疑問でした。 私は、自分が住む町・沼田に隣接する村・川場に、かつて江口きちという歌人がいたくらいのことは知っていましたが、彼女が死後「女啄木」といわれたとは、最近まで知りませんでした。 最初はその疑問を解きたくて、軽い気持ちできち女および啄木の世界を覗いてみたのです。

  きち女の自死からおよそ五ヵ月後の昭和十四年四月、遺歌集『武尊の麓』(日記・随筆なども含む)が出版されましたが、彼女の師河井酔茗はその序でこう書いています。
 きち女は日々夜々の生活感情を悉く歌にしてしまってゐる。その点は啄木にも 似通ってゐる
 どうやら女啄木の由来の本源はこのあたりにありそうな気がします。
 きち女の『武尊の麓』が出たとき、啄木が世を去ってすでに二十数年も経っていましたが、彼の人気は衰えを知りませんでした。ある伝記作家は
 少なくとも、文芸または人生に関心を持つ人々にとつて、啄木の歌を愛誦しないものはないであろう
といっています。これだけでも、当時『武尊の麓』を手に取った大方のひとが、酔茗の「啄木にも似通っている」という言葉に敏感に反応しただろうということが容易に想像できるというものです。
 そうして、未知の歌人江口きちの作品や日記を読んでみれば、薄幸の生涯、夭折というところまで、啄木と似ているのです。きち女は、『武尊の麓』を愛読し彼女の死を哀惜してやまない読者によって、自然発生的に女啄木という愛称を冠せられたのではないだろうか…、というのが私の勝手な推測です。

  女啄木の由来については、自分ではこれ以上詮索するつもりはありません。 しかしほんの入り口をのぞいただけなのに、私はいつの間にか、きち女にも啄木にも引き返せないほどの興味を持つようになっていたのでした。きち女の世界も啄木の世界(啄木歌集は愛読しました)もあまりよく知らなかったことが、同時の好奇心へと繋がったのだと思います。

  さて、並行して二人に関連したものを読むのですが、江口きちに関するものは非常に少なく、石川啄木のほうのそれは逆に膨大です。前者に関するものは、入手できるものはなんでも、後者に関するものは特に興味のあるものだけを選択して、一時期は、暇さえあれば読みふけりました。 そうしているうちに面白いことに気がついたのです。 二人は直接には無関係だけれど、後にきち女の師となる河井酔茗と石川啄木が直接出会っていたり、強引に考えれば一縷のつながりはないこともない。それに、共通のテーマで語れるものがいくつもある。

  こんなことをいえば、さっそく同日の論ではないと一笑を買いそうです。啄木は日本短歌史に、いやもっと広く日本文学史に大きな足跡をのこした近代が生んだ天才。海外でも研究者やファンが多いといいます。江口きち女のほうは、群馬県外ではまだそれほど知られていない郷土の歌人。 二人の文学そのものを素養の乏しい私が比較しようとするのであれば、それはたしかに無謀な行為でありましょう。私が書こうとするのは、もっと気楽なものです。肉親、友人、山、川、寺、東京、そのほかなんでも、共通のテーマとなりうるものが見つかれば、そこで道草をするように気ままに書いていきたいと思っています。                                    

                         武尊山の見える窓辺にて 

 ○付記
〔河井酔茗〕詩人。大阪府出身。文庫派の代表詩人。作風は平明温雅。のち口語詩、自由詩に転じ、近代散文詩の先駆となる。詩集「無弦弓」「塔影」「霧」明治七年~昭和四〇年(一八七四~一九六五)                      『日本国語大辞典』(小学館)より1937年、芸術員会員。享年90。 ※酔茗だけでなく彼の妻で作家の島本久恵も、きち女の師。
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