きち女と啄木の距離

女啄木といわれた川場(群馬)の歌人江口きちと御本家石川啄木を、あれこれ気ままにリンクさせてみたいと思います。

きち女と啄木がひとつ書籍に…!

2012-04-17 03:21:09 | Weblog

   ひそかなるうれひをもちて啄木のうたなど書きし妹もわれも

    一握の砂知りたまはずやかく問ひてそのまゝやみし日もありしかな  

  二首とも江口きちの歌。啄木の歌が好きだったことがよくわかる。

 ここに古ぼけた一冊の書籍がある。ページを繰ればいとも簡単に綴じ糸が切れそうな代物。いや、すでに表紙と扉が本体から離れてしまっている。繕いたいが素人ではもはや手遅れ状態、慎重に扱うしかない。本文のほうも酸性紙なので、いかにも脆そう。付箋も、貼るのをためらってしまう。剥がすときがおそろしいのだ。
 しかし、本文の活字は褪せてはいない。しかも一ページも欠けていない。実はこの本、 昭和十八年、すなわち戦時下に発行された河井酔茗著『酔茗随筆』(起山房刊)で、きち女の師が書いたものだからとただそれだけの理由でネットショップで入手したものだ。本が届くとまず八ページに及ぶ細かい目次に目を通してみた。昔いささか興味をもったことのある夢二、鏡花、荷風、白秋などの名があって、いよいよ読むのが楽しみになっていく。そうして目次七ページ目で息を呑んだ。なんと<きちと兵隊>という題が…!河井酔茗が「きち」と書けば、それは江口きちのはず、とピーンときたのだ。というより浅識すぎる頭にはそれきり浮かばなかった。

 すぐに本文を開いて見ると、書き出しはのっけから『武尊の麓』である。『武尊の麓』というのは、きち女の死後、河井酔茗と妻で作家の島本久恵が編んだ、短歌と日記を中心としたきち女の遺稿集のタイトルである。ドキドキしながら読みだせば、はたして「きち」は「江口きち」のことなのだった。

 さらに、私を驚喜させたのは、この本に石川啄木のことも書かれていたこと。無論きち女と関連付けて書かれているわけではない。目次の<明治大正百詩人>という題に引かれて本文を開いたら、啄木がその一人としてとりあげられていたのである。
 生前は啄木の歌を愛誦し死後には女啄木といわれた我らがきち女が、いまや世界的な詩人ともいわれる啄木とひとつ本のなかに…。これは凄い。
 世界的数学者・岡潔の随想集『月影』に”ある無名女流歌人”としてきち女のことが聖徳太子と並べて書かれていたのをみたときもまさかと感激したものだが、こんどもまた、まさかの驚きであった。
 ついこの間まで、江口きちのことは隣村・川場村のマイナーな歌人という認識しかなくて、どちらかといえば無関心だったはずの人間が、いつの間にかきち女の”出世”を喜ぶファンになっている。きち女自身、名誉欲や出世欲のない(これがあれば、もっと生に貪欲になり自殺などしなかったかもしれない)人だったから、自分の死後、聖徳太子や啄木とひとつ書籍のなかに自分のことが取り上げられるなどということは夢想だにしなかっただろう。

<きちと兵隊>は約一千字ほどの短文である。著作権の問題はもう考えなくてもよさそうなので、まだお読みになってない方のために全文を紹介したい。<明治大正百詩人>の石川啄木のほうは、わずか三行なので、合わせてご覧いただくことに。

 <きちと兵隊>

 『武尊の麓』と現下の時局とは何等の関係も交渉もなからうとは誰しも思ふ処であらう。もし時局の上から批判すれば此国家の大事に当り仮令(たとえ)一女性の身でも銃後の奉仕に任すべきであるのに、生命を軽んじたのはよろしくないといふ寧ろきち女の死を非難する側に一応の理由が付き易いのである。併しよく考へてみるにそれも亦短見たるを免れない。
  きち女はあらん限りの力を以て人生と取り組み合つたのだが、生命がけで当るより他にきち女自身の生涯を完ふする術はなかつたのだ。覚悟に覚悟を重ねて自己の生涯に殉じたのであつて、その気魄は何うしても武士の魂を連想せしめる。歌よみであり、若い女性であり、ちよつとその冷徹さが緩和されてゐるけれど、根本的に観察すると彼女も亦日本魂の国に生まれた一女性という気がする。
  戦地に居る勇士達がもし『武尊の麓』を読んだら何ういふ気がするだらうと思つてゐたが、中支に在る或る婦人の便りに徐州の本屋で『武尊の麓』を見てなつかしく感じたと云つてきたので、きつと戦地に於ても多少は読まれてゐるだらうと想像していた折柄、果然未知の一兵隊さんから手紙が来た。左にその一節を抄出する。

  私達の駐留してゐるところは申されませんが、暑熱つよく黄塵萬丈匪襲のさかんなる地区であることだけお知らせ致します。この地区に在つて軍属部隊として×××の任に当つてゐる私が、故郷からの慰問用品として『武尊の麓』一巻を贈られ、細いランプの下でこの書を読み、真実なる人間とはかういふ人かと、よく解りました。きち女の日記を通読し何処までも真実の生活に生きようとしてゐるのをうれしく思ひました。死ぬまで自分の気持、生活を乱さなかつたことは丁度吾々戦線にあるものと同じです。また墓を掃除したり草花を愛したり之は簡単な事ですけれど、吾々も異国の土となつた戦友の墓標に草花を捧げたり除草したりする同じ気持だらうと思ひます。私たちの場合は友人であり隣人でありますが、きちの場合は母であり祖先でした。銃後にこんな人が幾人でも多くゐてほしい時、私はその死を恨みます。
死ぬまで真の生活を探求してゐた江口きち女に対して、遙に此の××戦区からその冥福を祈ると共に、河井先生の御尽力に感謝いたします。七月十六日  

 きち女は勿論戦死したのでも何でもない。それにも拘はらずきち女の死が戦線に立つてゐる人にまで感激を与へるのは不思議である。惟(おも)ふに人間は生死の界を超越する時にも尚ほ正しく純情に生きたいものである。(昭和十四年、八)


 <明治大正百詩人>より

 石川啄木(故) 或人は啄木の歌を小説の変形だといひ、或人は詩に近いとさまざまに批判するが、歌は歌でも新しい歌に相違ない。詩にもなつたらう、小説にもなつたらうが、彼は短歌の形にして世に遺した。そしてまた詩人の仲間入もしてゐるのである。

 ○付記

<明治大正百詩人>に登場するのは、石川啄木のほかに生田春月、三木露風、野口雨情、与謝野寛、上田敏、山村暮鳥、北原白秋、島崎藤村、森鴎外、土井晩翠、国木田独歩、高村光太郎、萩原朔太郎、室生犀星、佐藤春夫、西条八十…、まだまだ挙げればきりがありません。

河井酔茗と石川啄木がはじめて顔をあわせたのは、東京は千駄ヶ谷。明治四十二年一月十五日の啄木の日記に記録されています。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 啄木の嘘 きち女の嘘 | トップ |   

Weblog」カテゴリの最新記事