きち女と啄木の距離

女啄木といわれた川場(群馬)の歌人江口きちと御本家石川啄木を、あれこれ気ままにリンクさせてみたいと思います。

啄木の父 きち女の父

2011-01-02 04:18:54 | Weblog
    かなしきは我が父!
   今日も新聞を読みあきて、
   庭に小蟻とあそべり           啄木

   老父がすべなき業に昼はやく風呂焚くらしも音の静けさ                          きち女

 啄木ときち女の境涯に関心をもつ前の私だったら、二首とも、所在無げな老父の孤影を子としてどこか哀れみ寂しんでいる歌、それぐらいのところで鑑賞は終わっていたと思う。しかし、今はついつい深読みをしてしまう。すでに死病を得ていた啄木と自死を引き寄せていたきち女の歌である、もっと複雑な心情がこめられているのではないだろうか、などと。ちなみに、ここに詠われた頃の二人の父はどちらもまだ六十代のはじめ。「老父」といっても、またいまどきの六十代とは年のとりかたが違うといっても、まだ老いさらばえるような年ではない。にもかかわらず、いやそれ以前から、一家が極がつくほどの貧に迫る状態にあっても、経済的にほとんど頼りにならない父たちだった。

 ある時期まで、石川啄木の父・一禎(嘉永三年生まれ~昭和二年没・享年七十七)は寺の住職、江口きちの父・熊吉(明治六年生まれ~昭和17年没・享年六十九)は博徒だった。特権階級として仏道を歩いてきた者と国禁を犯して見え隠れに極道を歩いてきた者、社会人としては両極に生きた二人ではある。 が、それぞれの子供時代までさかのぼれば、なにやら共通点がなくもない。

 どちらも生い立ちに関する資料は乏しいとはいうものの、熱心で優れた研究家たちのおかげで、今、私たちにはある程度の輪郭をつかむことができる。 一禎も熊吉も再婚した母の連れ子だったという。ふたりともそれに伴う家庭的な悲哀をあじわい、やがては否応無しの出家と止むにやまれぬ家出というかたちで僧になり博徒になっていく。元々は一禎は寺の子ではなかったし、熊吉は渡世人とは無縁だったのだ。

 一禎が僧にならなければ、師僧・対月の妹カツと相思相愛の仲になって結婚し啄木をもうけることはなかったし、熊吉が渡世人にならなければ、流れていった先で似たような境遇のユワと意気投合して結婚しきち女をもうけることもなかった。

啄木ときち女はこの世に生をうけたことだけでなく、薄幸のまま夭死しなければならなかったこともまた、煎じ詰めればその父たちの運命と大きくかかわっているのだった。一禎も熊吉も家族をおいて失踪事件を起こしているが、そのあたりを軸に因果を探ってみたい。

   ○

   ふるさとの寺の畔の
   ひばの木の
   いただきに来て啼きし閑古鳥!      啄木

 石川一禎は啄木が一歳のとき、小さな寺から渋民にある格上の寺、宝徳寺の住職におさまった。しかし、極端な言い方だが急逝した前住職の遺族を放逐させ窮地に追い込んだ上での赴任だったから、裏で反対派檀徒の恨みをかったのはいうまでもない。そのくすぶりが、のちのち石川一家を離散へと追い込む火の手のひとつになろうとは、このとき一禎は知るよしもない。

  啄木の幼年期・少年期は、この渋民村宝徳寺を中心にして育まれる。父母にはこの上なく大事にされ、寺を一歩出れば、岩手山が目に飛び込み、北上川も指呼の間、ゆたかな自然があった。啄木の短い人生でいちばん恵まれていた時代は、まさしくここにあったのだ。懐かしいはずである。晩年、

   今日もまた胸に痛みあり。
   死ぬならば、
   ふるさとに行きて死なむと思ふ。

と詠うほどに恋しがる。
しかしそのふるさとは、もう五年も前に喪失していたのだった。

 故郷喪失までの過程を少しさぐってみよう。
一禎が宝徳寺に赴任して十八年後、宗費の滞納が理由で一禎が曹洞宗宗務院から住職を罷免されてしまう。なんでも、中学を中退し文学での成功を夢をみて上京したり帰郷したりの息子(啄木)のために、宗費を流用してしまったらしい。
 寺を出た一家は、渋民、盛岡(途中から一禎は野辺地)と困窮した生活を送った後、再び渋民村に戻って、住み慣れた宝徳寺を目と鼻の先に借間暮らしを始める。

※一家が宗費滞納で宝徳寺を放逐されてからというもの啄木の懊悩ぶりはすざまじく、常軌を逸した行動が目立つ。友人たちがお膳立てしてくれた自分の結婚式をすっぽかしたり、著名な詩人に偽手紙を書いて金銭的な迷惑をかけたり、こんな行動もこの父の住職罷免のショックに関連付けられそうだ。

 やがて一禎が懲戒赦免となり、一家は宝徳寺再住にのぞみをかけるようになる。だが…、反対派の遺恨晴らさんばかりの迫害などもあり、村の空気に耐えられなくなった一禎は、師僧・対月(妻の兄、啄木の伯父)をたよってひとり家出をしてしまうのだ。このことによって啄木たちの宝徳寺再住運動は頓挫し、ややあって一家は離散、ついに故郷を永久に喪失することになる。啄木が数え二十二歳のときだった。

   石をもて追はるるごとく
   ふるさとを出でしかなしみ
   消ゆる時なし           啄木

 作家・水上勉は、「禅寺の子、啄木」というエッセイのなかで、こう書いている。

「渋民村宝徳寺は、啄木の短い生涯をつらぬく、精神の根となって鮮明だ。一所不住、随所作主の禅境は、むしろ啄木によって実現された。寺にしがみつこうとした父によって、啄木は漂白を与えられた。」                        (国文学増刊号 石川啄木の手帖 学灯社)

  父から漂白を与えられたといっても、啄木には禅僧のような覚悟はできていなかった。一禎は、息子だけは自分と同じ苦労はさせたくない、仏道ではなく好きな道を歩ませてやりたい、と啄木にはあえて後継の教育をしてこなかったのだ。つまり文学への野心だけを芯に北海道、東京を漂白した啄木には、最後まで禅境といえるような達成感や充足感などはなかったはずだ。 

 宝徳寺を放逐されて以来、一家を養う気力さえも失ってしまった父・一禎。かわって啄木が頼られる身となるが、漂白は彼を生活破綻者にし、いよいよ家族に多大な犠牲を強いるようになる。

 やがて啄木は当たり前の生活者になるべく東京朝日新聞社の校正係の仕事を得て、ようやく家族を一つ屋根の下に寄せる。だが、それも幸せとはいえなかった。貧困、嫁姑の確執に悩みそしてついには当時の死病・結核に侵されてしまうのだ。
では、一禎はといえば、ここでも耐えられず、こんどは北海道の娘夫婦をたよって、再び家出をしてしまう。

  病床の枕辺に来た幼い娘をみながら、啄木はこう詠う。

  その親にも、
    親の親にも似るなかれ――
  かく汝が父は思へるぞ、子よ。

しかし、啄木は父を恨んではいない。むしろ逆である。

  ただ一人の
  をとこの子なる我はかく育てり。
   父母も悲しかるらむ

     ○

それでは、一方の江口熊吉は、失踪によって娘のきち女にどのような影響を与えたのだろうか。


たましいの底の底なるうめきかも父につながる血のいきどほろし                                           
                               きち女

 上州の侠客といえば国定忠次がまずあげられるが、同じ江戸後期に活動し、関東一の大親分といわれた侠客・大前田英五郎も上州の出である。この英五郎の流れをくむ一派で、利根沼田の縄張りを分与されたのが川場の与五郎という親分。そして与五郎の跡目を継いだのが、やはり川場の金五郎。江口きちの父熊吉は、この金五郎親分の配下として末尾のほうに名を連ねている。

 熊吉が妻ユワを連れ金五郎親分をたよって川場に流れ着いたのは明治三十九年(啄木が故郷を喪失する前年)だという。二、三年間は親分(といっても、金五郎は堅気の仕事についていた)の家に身を寄せていたが、四十二年にきち女の兄・広寿がうまれて、その年のうちに同じ村の禅寺の一隅にあった元隠居屋へ引っ越している。きち女が生まれたのは、杉林を背にしたその小さな家だった。大正二年のことである。

 ちなみにその禅寺は臨済宗桂昌寺で、当時は、きち女終生の親友・であり、きち女の死後、貴重な資料『江口きち書簡集』を刊行した矢島けいの父親が住職をしていた。『江口きち書簡集』のなかにみつけたのだが、きち女がけい宛にこんなことを書いているくだりがある。

「お墓は静かだね。この間日が暮れてからしばらくお墓にしゃがんでいてしみじみと静かさを感じた。お墓は人間の最後の安住の地だね。お寺はいゝよ。まったく。あのお寺を離れる時はあなたはきっと泣くに違いない。お寺は私の幼い頃を育ててくれたんだもの。そして、私は終ひにはあのお寺へ帰ってゆくんだもの―。」

 昭和五年八月十九日に投函しているので、母のユワが急死してからまだ二ヵ月半しかたっていない。きち女の死の願望が、母の死を契機にしていることが、ここにもみてとれる。背後に父との確執、あるいはきち女の一方的な父への憎悪がてつだっていることもいなめない。

 江口熊吉が家出をしたのは、きち女がまだ赤ん坊のときだった。理由が理由だから、家出というよりは逃亡といったほうがふさわしいのかもしれない。なんでも金五郎一家の内部で暴力沙汰があり、沼田署が踏み込んだところ、一網打尽のはずが熊吉だけがすばしこく遁ズラして、そのまま川場から姿を消してしまったのだという。

  人目を避けてひょっこり家に戻ることもあったが、出て行くときはたいてい妻のユワに金を無心したという。またいっぽうで家に金をおきにきたという話もある。熊吉がすっかり足を洗って家に戻ったときには、十年の歳月が流れていた。
いずれにしてもこの間のユワの苦労は一通りではなかったはず。きち女の下にもう一人の娘たきが生まれ、女手ひとつで三人の子を養ってきたのである。長男の広寿が脳膜炎の後遺症で知恵遅れとなってしまったことも、苦労に追い討ちをかけた。さらに博打うちの妻、自分だけ逃げた卑怯者の妻、酒を飲ませるために男に媚を売る女などなど、好ましくないレッテルを貼りたがる人もいて、その蔑視にも耐えなければならなかったのだ。

  ただ一人の夫失へる女さへ容れざりし世にいきどほりわく

 これは回想歌のようだ。母を思って慟哭した日々が忘れられないのであろう。                               物心ついたときからそうした母の苦労を自分も傷つきながら傍らでじっと見守ってきたきち女である、元はといえばこれもそれもみんな父が悪い、と心底熊吉を憎みつづけるのも無理のないことだった。

  火の如くわが眼に燃ゆる憎しびはけはしかるらし父を刺しつつ   

  魂揺らぐ憤りはこれの骨肉の父に因るものぞあはれ骨肉の

 冒頭の歌もそうだが、この二首の歌だけでも、きち女を厭世家にしてしまった大きな原因がほかならぬ熊吉の生き方にあったということが感じ取れる。熊吉がつらい子供時代を過ごし国禁の博徒になってしまったのも運命なら、きち女が、その博徒、罪を犯し妻子をかえりみなかった男を父に持たなければならなかったのも運命である。その苦しみは、きち女の日々のいろんな感情にからんで生涯離れることはなかった。

 ここで、江口家に初めて女の子が誕生したときにもどってみよう。誰がどういう思いをこめて、<きち>という名前をつけたかをちょっと考えてみたくなった。母親のユワが、自分のような不幸な女になってもらいたくないので、縁起のよい<吉>をひらがなにして名づけた、という説がある。なるほどと思うと同時に、その吉の字は父親の名の一字であるということも意識しないではいられない。泉下のきち女に聞かれたら墓石がゆれるほど怒られそうだが――。 いまのところ熊吉が娘の誕生を喜ばなかったという記述には出合ってないので、なんでも自由に想像できるというものだ。目じりをさげた父親のイナイイナイバアやタカイタカイに、みどり児が無邪気に笑いはしゃぐ光景さえ浮かんでくる。

 しかし、たとえそんな風に父に可愛がられた赤ん坊だったとしても、哀しいかなきち女のほうに当時の記憶が残っているはずがない。

 その点、啄木は幼いときに父に存分に可愛がられた記憶があるので、何があっても父に心底の恨みを抱くことなどはなかったのではないだろうか。

  われ父の怒りをうけて聲たかく父を罵り泣ける日おもふ
                              啄木                         

 こういう歌からさえ、啄木の懐旧の思いが切なくもやわらかく伝わってくる。

それでは、きち女には、最後まで父を思う気持ちはまったくなかったのだろうか。『江口きち書簡集』のなかから、編著者・矢島けいの解説文を抜粋してみたい。答えが見つかるはずである。

「それはもう二十才ころにも成りました頃かしら、あるとき、うちで三人のおしゃべりが、親達のことになってきち女が、父親を憎む話をしますと、さくのさんがさからうように、『なぜそんなに肉身(ママ)の親を憎まなきゃなんないの?私の父親だって一向いいと云えるわけじゃないけど、親だもの、憎むなんて』こんなことを色々云いましたら、きち女は、怒ったようにまた辛そうに『肉身(ママ)が肉身を憎む気持ちなんて、さくのさんになんか解んないさ』、と云ってました。それから何年かを過ぎた十三年、母の碑に刻む字を私の父に頼みに来ましたとか、父はきち女を知ってますから何も云わなかったそうでした。私の母はそれではすまされない性質できち女に頼むように云って父親を一緒に刻んで置くことをすゝめたそうでしたが、つい聞き入れませんで出ていきましたとか、すると戻ってきまして、『ぢゃあ小母さん矢張り頼むよ』、そういったそうです。これは母が私に話した事です。この頃は大分父を思う心が見えてましたが、それを自分でみとめたくはなかったのでしょう。」

 矢島けいは「この頃は大分父を思う心が見えてましたが」といっている。文中の十三年は、きち女が兄広寿を道連れに自殺した年で、昭和十三年。 同じ年でも、死の二週間ほど前に東京で働く妹のたきに宛てたきち女の手紙の文面になると、それはいっそうあきらかである。

「間に合はないと思ふが、神田かに、古着屋がたいへんあるさうだねえ、そこでもどこでも父の外たうを一枚買って送つてくれないか、むろん安いのでいゝのだから、なるべく丈夫さうなのを探して、新しいのはとても今年は高いし、買えないから。こんな買い物はいやだらうけれど、お願ひする。袖が筒袖になってゐるのをね、オーバーでは着物の上だから、窮屈で駄目なのだ。」
          『塔影詩社蔵 江口きち資料集成』島本融編より




[付記]
※矢島けいの文中のさくのさんというのは、きち女の同級生・林さくののことで、彼女もきち女からもらった手紙をいくつか残している。二人の間に生じた齟齬を、きち女が一方的に躍起となっている様子が肉声のように伝わってきて、きち女の性格の一端を知るよすがになる。

※群馬出身の著名な歌人・土屋文明もきち女と似たような苦しみを味
わった一人だ。文明の場合は父ではなく祖父が博徒だった。それも最後には群盗の一味となって捕まり、牢死しているという。文明が生まれるまえのことではあったが、少年時代に事実を知って衝撃をうけ、「村人に逢うのも恐ろしく」「土にももぐりたい心持」が数年も続いたという。また、文明は父の事業の失敗で、啄木と同じように故郷の家を失っている。その悲しみは、後年の歌にもみえる。

 ひたすらに父はかなしき売りし家に携へかへる夢しばしばにして      

 父の代よりいりくめる金のいきさつに帰る日なけむあはれ故さと  

だが、彼は啄木やきち女とちがって、薄命ではなかった。啄木が生まれた四年後に生まれ、きち女の生きた時代を通り越し、平成になってなんと百歳で没している。晩年、世に貢献した文学者として文化勲章も受賞した。自己実現の夢をかなえ、天寿を全うすることができた土屋文明、彼はどのようにして運命を切り開いていったのだろうか?

※矢島けいの解説文のなかに、肉身という語がでてくる。はじめ、肉親の書き間違いではないかと思って、『江口きち書簡集』の正誤表をみてみたが、触れてはいなかった。ところが驚いたことにたまたま手にとって何気なく読み始めた啄木の小説『刑余の叔父』にこの字が出てきたのである。

  母の肉身の弟ではあったが、

 と。そしてそれには「しんみ」とルビがふってあった。
 ついでながら、この小説の主人公・母の肉身の弟は、

  酒の次には博奕が所好で、血腥い噂に其名の出ぬ事はない。

 という人物。


◎次は、きち女の愛した沼田を、啄木の盛岡時代にも少しふれながら書きたいと思っています。
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