きち女と啄木の距離

女啄木といわれた川場(群馬)の歌人江口きちと御本家石川啄木を、あれこれ気ままにリンクさせてみたいと思います。

母の肖像  ①きち女の母ユワ

2011-01-01 19:49:18 | Weblog

  いとまなき身をもかこたずわがためにひな飾りする母なりしかな    きち女                               

 江口きち女の母ユワの写真は、知るかぎりでは二点が公開されている。 
 
 どちらも娘二人といっしょだが、初めてこのユワと対面したとき、わが目を疑った。
彼女の両脇にいるきち女とたき子が今の小学生の幼さなのに比して、その親というに
はあまりにも老け過ぎて見えたからだ。撮影時は「大正十二年?」と「大正十四年頃」
とあるので、明治十三(1879)年生れのユワは、実際にはまだ四十代の半ばだっ
た。昔の人は今の同い年よりずっと老けて見えたとはよく聞くところだが、それにし
てもである。

 もし、何の知識も持たずにいきなり見せられたら、正直、二点とも「祖母と孫娘」
の記念写真と勘違いしてもおかしくはない。

 そのころのきち女の家は、博徒間の事件にかかわって長いこと逃亡状態だった父熊
吉がもう戻っていて、家族全員がそろった五人暮らしだった。しかし、熊吉は定職を
持たず、また、きち女より5歳近く年上の廣寿は知的障害があって、男二人は二人な
がらあまりたよりにはならない存在。一家を養う中心は、あいかわらずユワの
細腕だったのである。それにしてもである、写真のユワの顔はその苦労を物語って余
りある―。

 ユワの顔を見るたびに、「それにしても」は、つきまとう。

 だが、あるとき写真が専門の学芸員Mさんの話をきいて得心がいった。Mさんによ
ると、当時の写真の感光材料には不完全なものが多く、肉眼の印象を今ほどうまく再
現できなかった。また古い写真は変退色していることが多く、ハーフトーンで表現さ
れていた部分が間引かれてコントラストの強い画像に変化していがちだ。さらにオリジナルであるか複写であるかによっても、感じが違ってくる。このユワの場合も、これらのマイナス要素が生活のやつれをてつだって、過度に老けて見えるのではないだろうか、という。

 いわれて引き算をしながらユワの顔をあらためて見ると、たしかに若返る。かなり若がえる。

 そうか、きち女の母について触れている資料からその時々の彼女の顔をイメージしたかったら、この2点の写真の顔を足し算引き算してみればいいのだ。  

 ユワは人生の後半分、約四半世紀を川場で過ごしている。明治三十九(一九〇五)年に熊吉と一緒に金五郎親分を頼って川場に流れ着いた頃のユワは、まだ二十五、六。
この頃の顔は、もちろんグンと引き算をする。そして、朝食の支度中に脳卒中で倒れて不帰の人となったのは、五十一というから、その顔は、最初老け過ぎて見えた写真そのままにちかいのかもしれない。こうしてどうイメージしようとも、本人の顔からひどくかけ離れて別人のようになるということはまずないだろう。
 
 きち女は次のようなことを日記に書いている。

「母もかなしく、子もかなしく、私は早くから母の嘆きを知り、母もまた我が子の心 に哀傷のひそむことを見逃さなかった」

 Mさんの話を聞くまでは、私はこれを2点の写真のキャプションにしてもいいような文章だと思っていた。なぜなら、ユワが老け過ぎているのと同時に、きち女の表情がやけに暗いからだ。

 この表情の暗さは、感光材料や変退色とは無関係だ。しかし考えてみれば、どうみても母の嘆きを知って哀傷をひそませるには、少女はまだ幼すぎる。慣れないカメラの前で緊張していた、そんな見方が妥当かもしれない。

「おユワ さんは、私に身近なおばさんのようでなつかしい人でした」
「いいおかあさんだとおもいます」

 これは、きち女への厚い友情から『江口きち書簡集』というたいへん貴重な編著を遺した矢島けいのことばだが、彼女はこんなこともいっている。

「おユワさん、この人の、一番印象に残ってます姿は、炉端で独りあぐらをかいて、お 酒を飲みながら私達を優しくほゝ笑みながらみてたことです。花を作ることが大好きで朝顔は毎年でした」

  不幸一色に思われがちなユワの一生にも、ささやかながら幸せな時間があったことがうかがえる。そうして写真にもどれば、彼女はたしかに微笑んでいるのだ。 愛娘二人を両脇に、当時の山村ではまだ特別なことだった写真撮影をしてもらうのだ、ユワにとって、これもまた幸せなひと時であったにちがいない。

付記
この二枚の写真が撮られたころ、正確に言えば大正十三年夏、若山牧水が『みなかみ紀行』の初版を刊行。そのなかに、大正十一年の秋、上州・沼田に一泊したあと、次の宿・老神温泉をめざして片品川(利根川水系)沿いを歩いて遡っていったことが書かれている。
若山牧水といえば、啄木の最期をみとった唯ひとりの友人であり、また後世の研究家に天才として啄木とならび称されることもある歌人。その牧水が、後に女啄木といわれる少女が住む村・川場のすぐ隣の村をてくてく歩いて通過していったのだ。
(もっと時間をずらせば、きち女は沼田とかかわりが深いので、牧水の通った同じ道の上を何度となく行き来したに違いない)
ちなみに、牧水は自分が選んで歩いた旧道の眺めに酔い、片品渓谷のあたりでも、いくつかの歌を残している。
  
 路かよふ崖のさなかをわが行きてはろけき空を見ればかなしも

 岩陰の青渦がうへにうかびゐて色あざやけき落葉もみぢ葉


※次回は、啄木の母の写真についてです。

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