きち女と啄木の距離

女啄木といわれた川場(群馬)の歌人江口きちと御本家石川啄木を、あれこれ気ままにリンクさせてみたいと思います。

江口きちと沼田

2009-04-16 07:28:29 | Weblog

   この道や少女のころを町に出づとあくがれひそめ通り慣れにし
                              
  きち女       

 きち女は、川場と隣接している町、沼田にはやくから憧れを抱いていた。いま歩いている道が沼田に通じている、ただそれだけで胸がときめくほどに…。

 きち女の一生はわずか二十五年と九日、そのほとんどを川場村で暮らしているが、十代に二度ほど親元を離れたことがある。二度とも沼田の町で、一度目は和裁技術習得のために川場小学校尋常高等科卒業年の秋から七、八ヶ月間、二度目は沼田郵便局勤務で昭和五年六月に母ユワが急逝するまでの三、四ヶ月間、あわせて一年そこそこの期間だった。

 母の死によって沼田で暮らしつづける夢は切断されてしまったが、その後も、バスに乗ったり、歩いたりして、よく沼田の町へ出かけている。次は、<沼田往来>と題されたきち女の歌。

   つばらかに雪かゝりゐる落葉松の林を透きて空の真青さ

   朝陽光照りつゝいまだ雪かゝる雑木のなかをゆくがすがしき

 親友、矢島けいも『江口きち書簡集』の解説の中で、こんな風に思い出を語る。

 町へも幾度、きち女と出かけましたことか楽しかった思いだけが残ってます。乗り物ぎらいな私に片道の歩きをつき合ってくれて、この日も行きを生品通りの静かなほうを選びました。三四十分もする頃生品の部落に出ますが、ある家の樫ぐねの葉を一枚とって、ピーと吹いて、「○○さんとても葉笛がうまいのよ。」と云ってしばらく局員たちの話をしていました。局をやめて三ヶ月だったので、楽しく希望のあったことなぞ昨日の日のように、思いおこされていたのでしょう。

  生品はまだ川場の村うちだが、ここまで来ればもうすぐ沼田。十六、七の娘が二人、おしゃべりや道草をしながらだけれども、自宅のある谷地から歩きでおよそどれほどの時間をかけて町に出てきたかがわかる。

 とにかく、きち女は最後まで沼田が好きだった。昭和十三年、自殺の一ヶ月半前の日記に、こんなことを書き残している。

  十月十九日
 一番のバスでつーやん発つ、沼田まで送り、十二時の汽車までの時間、しばらくぶり沼田公園へ行って見る。丘の上の町、山の町、城址の町、沼田はロマンチックな町だ。
後略  

 沼田は赤城山、谷川岳、武尊山などの名だたる山を遠景に高低・形状さまざまな山に囲まれた盆地で、町の中心部は河岸段丘上の台地にある。きち女が久しぶりにいったという沼田公園は、城址公園。五層の天守閣が増築され関東の八名城のひとつとまでいわれた沼田城だが、五代将軍綱吉の時代に改易で破却されてしまい(その後も城らしきものは建てられたが、市民が復元を夢見る沼田城はこの城)遺構は少ない。が、歩けば戦国の世からの沼田城をめぐる幾多の物語が想像をかきたて、きち女ならずともロマンチックな気分にひたれる。
  約七十メートルの断崖絶壁の端までいくと、絶景が広がる。きち女もここに佇んで、右手に浮かぶ秀峰わが武尊山や、眼下を利根川へと流れるわが薄根川をしみじみ眺めたにちがいない。
 その薄根川をさかのぼった先の川場にも狭小だが城址があって、その昔、天神城という小城があった。沼田城を築いた沼田氏(万鬼斎)が、正室の子朝憲に沼田城を譲り、側室とその間にできた息子平八郎をともなって隠居した城である。やがて側室とその兄が、平八郎を沼田城主にと万鬼斎をそそのかし、そこからお家騒動が勃発、朝憲も万鬼斎もそしてついには平八郎も命を落とすところとなり、沼田家そのものが滅びてしまう。
 要衝要害の地にあった沼田城は武将たちのあいだで争奪が繰り返えされ、幾たびも主を替えている。悪政で改易になるまで百年つづいた眞田氏が一番長い。

 その点、沼田城とは対照的なのが、 やはり戦国時代に東北の南部氏が築いた盛岡(不来方)城。南部氏に世襲され続け、取り壊されたのも明治になってからで、沼田城より約二百年もあとである。啄木が盛岡中学時代にひとり教室を飛び出して寝転んだのは、この盛岡城の址だった。

  不来方のお城の草に寝ころびて
  空に吸はれし
  十五の心 
            啄木

 さて、今度はきち女がよく人を見送った沼田駅について。沼田は河岸段丘なので、坂が多い。駅舎は坂を下りきったところにある。再びきち女の日記を開いてみよう。日付が少し前になるが、同じ十三年、帰郷していた妹のたきが東京へ戻っていく日のことである。

  八月三十一日 曇 午後雨
 十日間の休暇瞬く間に過ぎて今日たき帰京す。雨が降り出したので予定はずれ、着のみ着のまゝ一緒にバスに乗り送ってやる。局前で駅行きのバスにまごつき、人のハイヤーに乗せて貰って駆けつけると、切符を買う間ももどかしく汽車がすべりこみ、からうじて三時二十三分に間に合ふ。荷物を入れてやって降りる時にはすでに徐行をはじめてゐた。
後略

 読み落としていなければ、これ以後、きち女の日記には、たきについては受信・来信記録があるだけで、二人が直接会ったという記述はない。苦労をわかちあった仲のよい姉妹の、これが生きて最後の別れの場だったのかもしれない。

 この別れから三ヶ月後に、きち女は知的障害のある兄の広寿を道連れに服毒自殺を決行する。

  沼田城の形見のひとつに城鐘がある。県の文化財となったために現在はレプリカが使われているが、きち女のころは鋳造三百数十年前の本物の城鐘が時を告げていた。彼女は川場で毎日その鐘の音を親しくきいていて、いくつか歌に詠んでいる。

  城下町の鐘撞堂の時刻の鐘冬空を三里流れ来にけり

  谷づたひ空は直路か空渡り遥かに町の鐘聴え来る

    武尊根のふところ高み町の鐘きこえ来るかも夕の静寂に
                              
その鐘の音は、きち女の死後も朝な夕な武尊の麓の黄泉にまで余韻嫋嫋と染み透っていったことだろう。

[付記]

※沼田城址公園の入り口に立派な胸像がある。大正五年、荒れて切り売りされはじめていた城地を私財で購入、公園に整備してから沼田に寄付した旧沼田藩士の子・久米民之助の功績を顕彰している。
この久米民之助、工学博士で皇居の二重橋を設計した人でもある。

◎次回は啄木ときち女の自殺願望を予定しています。

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