きち女と啄木の距離

女啄木といわれた川場(群馬)の歌人江口きちと御本家石川啄木を、あれこれ気ままにリンクさせてみたいと思います。

きち女と啄木がひとつ書籍に…!

2012-04-17 03:21:09 | Weblog

   ひそかなるうれひをもちて啄木のうたなど書きし妹もわれも

    一握の砂知りたまはずやかく問ひてそのまゝやみし日もありしかな  

  二首とも江口きちの歌。啄木の歌が好きだったことがよくわかる。

 ここに古ぼけた一冊の書籍がある。ページを繰ればいとも簡単に綴じ糸が切れそうな代物。いや、すでに表紙と扉が本体から離れてしまっている。繕いたいが素人ではもはや手遅れ状態、慎重に扱うしかない。本文のほうも酸性紙なので、いかにも脆そう。付箋も、貼るのをためらってしまう。剥がすときがおそろしいのだ。
 しかし、本文の活字は褪せてはいない。しかも一ページも欠けていない。実はこの本、 昭和十八年、すなわち戦時下に発行された河井酔茗著『酔茗随筆』(起山房刊)で、きち女の師が書いたものだからとただそれだけの理由でネットショップで入手したものだ。本が届くとまず八ページに及ぶ細かい目次に目を通してみた。昔いささか興味をもったことのある夢二、鏡花、荷風、白秋などの名があって、いよいよ読むのが楽しみになっていく。そうして目次七ページ目で息を呑んだ。なんと<きちと兵隊>という題が…!河井酔茗が「きち」と書けば、それは江口きちのはず、とピーンときたのだ。というより浅識すぎる頭にはそれきり浮かばなかった。

 すぐに本文を開いて見ると、書き出しはのっけから『武尊の麓』である。『武尊の麓』というのは、きち女の死後、河井酔茗と妻で作家の島本久恵が編んだ、短歌と日記を中心としたきち女の遺稿集のタイトルである。ドキドキしながら読みだせば、はたして「きち」は「江口きち」のことなのだった。

 さらに、私を驚喜させたのは、この本に石川啄木のことも書かれていたこと。無論きち女と関連付けて書かれているわけではない。目次の<明治大正百詩人>という題に引かれて本文を開いたら、啄木がその一人としてとりあげられていたのである。
 生前は啄木の歌を愛誦し死後には女啄木といわれた我らがきち女が、いまや世界的な詩人ともいわれる啄木とひとつ本のなかに…。これは凄い。
 世界的数学者・岡潔の随想集『月影』に”ある無名女流歌人”としてきち女のことが聖徳太子と並べて書かれていたのをみたときもまさかと感激したものだが、こんどもまた、まさかの驚きであった。
 ついこの間まで、江口きちのことは隣村・川場村のマイナーな歌人という認識しかなくて、どちらかといえば無関心だったはずの人間が、いつの間にかきち女の”出世”を喜ぶファンになっている。きち女自身、名誉欲や出世欲のない(これがあれば、もっと生に貪欲になり自殺などしなかったかもしれない)人だったから、自分の死後、聖徳太子や啄木とひとつ書籍のなかに自分のことが取り上げられるなどということは夢想だにしなかっただろう。

<きちと兵隊>は約一千字ほどの短文である。著作権の問題はもう考えなくてもよさそうなので、まだお読みになってない方のために全文を紹介したい。<明治大正百詩人>の石川啄木のほうは、わずか三行なので、合わせてご覧いただくことに。

 <きちと兵隊>

 『武尊の麓』と現下の時局とは何等の関係も交渉もなからうとは誰しも思ふ処であらう。もし時局の上から批判すれば此国家の大事に当り仮令(たとえ)一女性の身でも銃後の奉仕に任すべきであるのに、生命を軽んじたのはよろしくないといふ寧ろきち女の死を非難する側に一応の理由が付き易いのである。併しよく考へてみるにそれも亦短見たるを免れない。
  きち女はあらん限りの力を以て人生と取り組み合つたのだが、生命がけで当るより他にきち女自身の生涯を完ふする術はなかつたのだ。覚悟に覚悟を重ねて自己の生涯に殉じたのであつて、その気魄は何うしても武士の魂を連想せしめる。歌よみであり、若い女性であり、ちよつとその冷徹さが緩和されてゐるけれど、根本的に観察すると彼女も亦日本魂の国に生まれた一女性という気がする。
  戦地に居る勇士達がもし『武尊の麓』を読んだら何ういふ気がするだらうと思つてゐたが、中支に在る或る婦人の便りに徐州の本屋で『武尊の麓』を見てなつかしく感じたと云つてきたので、きつと戦地に於ても多少は読まれてゐるだらうと想像していた折柄、果然未知の一兵隊さんから手紙が来た。左にその一節を抄出する。

  私達の駐留してゐるところは申されませんが、暑熱つよく黄塵萬丈匪襲のさかんなる地区であることだけお知らせ致します。この地区に在つて軍属部隊として×××の任に当つてゐる私が、故郷からの慰問用品として『武尊の麓』一巻を贈られ、細いランプの下でこの書を読み、真実なる人間とはかういふ人かと、よく解りました。きち女の日記を通読し何処までも真実の生活に生きようとしてゐるのをうれしく思ひました。死ぬまで自分の気持、生活を乱さなかつたことは丁度吾々戦線にあるものと同じです。また墓を掃除したり草花を愛したり之は簡単な事ですけれど、吾々も異国の土となつた戦友の墓標に草花を捧げたり除草したりする同じ気持だらうと思ひます。私たちの場合は友人であり隣人でありますが、きちの場合は母であり祖先でした。銃後にこんな人が幾人でも多くゐてほしい時、私はその死を恨みます。
死ぬまで真の生活を探求してゐた江口きち女に対して、遙に此の××戦区からその冥福を祈ると共に、河井先生の御尽力に感謝いたします。七月十六日  

 きち女は勿論戦死したのでも何でもない。それにも拘はらずきち女の死が戦線に立つてゐる人にまで感激を与へるのは不思議である。惟(おも)ふに人間は生死の界を超越する時にも尚ほ正しく純情に生きたいものである。(昭和十四年、八)


 <明治大正百詩人>より

 石川啄木(故) 或人は啄木の歌を小説の変形だといひ、或人は詩に近いとさまざまに批判するが、歌は歌でも新しい歌に相違ない。詩にもなつたらう、小説にもなつたらうが、彼は短歌の形にして世に遺した。そしてまた詩人の仲間入もしてゐるのである。

 ○付記

<明治大正百詩人>に登場するのは、石川啄木のほかに生田春月、三木露風、野口雨情、与謝野寛、上田敏、山村暮鳥、北原白秋、島崎藤村、森鴎外、土井晩翠、国木田独歩、高村光太郎、萩原朔太郎、室生犀星、佐藤春夫、西条八十…、まだまだ挙げればきりがありません。

河井酔茗と石川啄木がはじめて顔をあわせたのは、東京は千駄ヶ谷。明治四十二年一月十五日の啄木の日記に記録されています。


この記事をはてなブックマークに追加

啄木の嘘 きち女の嘘

2011-12-12 09:20:50 | Weblog

  あの頃はよく嘘を言ひき。 
  平気にて嘘を言ひき。
  汗が出づるかな。

                  啄木   

 たどり来ていま悔ゆるなしかにかくも正しと思ふ道は踏み得ぬ

                            きち女

どちらも終焉の年に近づいた頃、来し方を顧みて作られた歌である。啄木が平気でよく嘘をついたものだと
自己嫌悪に陥っているのに対し、きち女のほうは正しいと信じる道を歩いてきたから後悔はない、と言い切
っている。こんなところも二人は対照的である。

それでは、啄木はどんな嘘をついてきたというのだろうか。

石川啄木の歌集を愛読した人が私の周りにもけっこういる。しかし啄木の裏面史をよく知る人はいなくて、
啄木の不徳な側面をはじめて知ると、私がそうであったように誰もが吃驚仰天してしまう。歌集だけで想像
していた啄木像とのギャップがあまりに大きすぎるからだ。

冒頭に取り上げた歌の「あの頃」がいつをさすのか判らないが、ここでは啄木の人生が大きな転機を迎えた
明治三十八(1905)年、満で十九数えで二十のころに焦点を当ててみよう。「石をもて追はるるごとく」
故郷を喪失する二年前。国が日露戦争に勝利した年である。まずは年譜風に。

一月 所属する新詩社(与謝野鉄幹・晶子主宰、機関紙「明星」)の新年会に出席。

三月 父一禎が曹洞宗本山への宗費を滞納したという理由で宝徳寺住職を罷免させられ、一家で寺を退去、
という郷里からの思いがけない知らせを受け驚愕、懊悩。どうやら宗費滞納は啄木のために金を使っ
てしまったのが原因らしい。

五月 同郷の友人の援助で初めての詩集『あこがれ』刊行。文学博士上田敏の序詩、師与謝野鉄幹の跋文、
東京市長尾崎行雄への献辞。しかし、啄木の思惑ははずれ、詩集は売れなかった。盛岡で友人らが計
画しお膳立てまでしてくれた結婚式の花婿となるべく、十日前に東京を発つ。その旅費さえも友人た
   ちが用立ててくれたものだったが…。
   啄木は仙台で途中下車。結局、仙台で十日間を過ごして盛岡の結婚式をすっぽかしてしまう。式は新
   郎欠席のまま行われ、これによって啄木は多くの大切な友人を失うことになる。

六月 盛岡の借家で、父母、妻、妹との五人の生活が始まる。幼い時から三人の姉妹とは別格で両親に大切
   にされ、村の貴族とまでいわれて我が儘に生きてきた寺の一人息子の人生は一転、生活の基盤を失っ
   たまま長男として夫として家族を扶養する立場となる。詩集『あこがれ』を出して詩人として有名に
   はなっても、如何せん詩では食えない。一家の生活は借金でかろうじて成り立っていく。

さて、このあたりで五月の仙台滞在の十日間にもどって、そのときの啄木の行動をもう少し具体的にみてみ
よう。そこに啄木がついた嘘のとんでもない一例がある。
その頃、詩人でもあり英文学者でもある土井晩翠(「荒城の月」の作詞者)が仙台に居を構えていた。啄木
は自分の詩集『あこがれ』を携えて、馴染みでもないのに一回り以上も年上のこの著名人のもとを訪問。歓
待を受ける。一説には啄木の目的は借金で、二度訪問したが二度とも切り出せなかったとか。そのあと啄木
が晩翠についた嘘がひどい。病気の母が重態だと妹が知らせてきたので取り急ぎ十五円を貸してほしい旨を
書いた偽手紙を書き、ごていねいに筆跡を変えて書いた偽の「妹からの手紙」も添えて、それを旅館の番頭
に頼んで土井宅に届けたのである。たまたま晩翠が留守で、手紙を真に受けた八枝夫人が十五円をもって大
急ぎで啄木が宿泊している旅館に駆けつける。ところが夫人が目の当たりにしたのは、啄木が機嫌よく他の
二人の青年に大盤振る舞いをしている光景だった。夫人はあきれ果てたものの、とにかく十五円を差し出し
て帰宅したという。土井家の被害はそれだけでは終わらなかった。旅館から啄木の宿泊費の請求が来てそれ
も支払う羽目になったという。

これに限らず、とにかく啄木の金銭感覚はひどかったらしい。天才歌人となるまえに借金の天才、嘘の天才
だったといわれてもむべなるかな、である。

啄木に比べ江口きちのほうは、貧しくとも金銭面では潔癖で、あまり人を頼ろうとしなかった。こんな歌さ
え詠んでいる。

  人の情にすがりがたき性もちてわがたくはへにたよりゆくは悲しき

  家財競売の後いかにして生計せむ人のなさけにすがりがたき吾は

 きち女、はやくから妹のたきとともに啄木の歌のファンだったようだ。昭和七年、たきを七年の年季で東
京に奉公に出したあと作った次の追憶歌をみてもわかる。

  ひそかなるうれひをもちて啄木のうたなど書きし妹もわれも

 きち女は、啄木の負の側面を知っていたのだろうか。調べると、啄木の伝記はきち女の没年まえから世に
出ていて、私がネットショップで入手できた三冊のうち二冊は、仙台での常軌を逸した行為に触れている。
しかし母亡き後きち女が生きた八年は、家は非常に貧しく、国情が満州事変から武漢攻略へといよいよ不穏
になっていく日中十五年戦争の前半期にあたり、果たして彼女がそういった伝記を簡単に手にすることがで
きたかどうか。もっともきち女は親しい友人たちと文芸雑誌や文学書などをよく回覧したというから、ある
いは人間啄木に関する知識も多少は得ていたかもしれない。きち女がどこまで啄木の行状を知っていたかは
聞くすべはないが、ともかく彼女が死ぬまで啄木のファンであったことは確かである。
恋慕していた男性あての遺書めいた手帖のなかに、その証拠が見てとれる。次はその部分の抜粋である。
「君よ」から始まる詩のほうはきち女の作。

  頬につたふ
  なみだのごはず 
  一握の砂を示しし人を忘れず
             啄木        

  君よ 
  一握の白砂を掌にあげしことありや
  かの薄命なりし
  詩人のかなしみにふれしことありや
  砂は地にこぼれ 
  掌中の息吹を忘れず 
  永劫の祷りさゝげむ

さて今度は、きち女の嘘について触れてみたい。どちらかといえば清廉潔白、まじめ一方に見えるきち女だ
が、彼女もとんでもない嘘をついたことがあった。もちろん啄木の仙台における嘘とは質が違うけれども―。
きち女の幼いときからの親友、矢島けいが『江口きち書簡集』のなかで書いているので、そのあたりをそっ
くり引用してみよう。

  これはこの手紙の中にあることではありませんが、丁度この葉書と同じように細い字で書かれたもので
  十一年の四月頃でした。
  「今年のエイプリルフールは面白かったよ。今日私が死ぬから出て来いと云って葉書を出したら、みん
  な本気にして大さわぎよ。」
  こんな言葉がしまいの処に書かれてありました。私はきち女らしいとも思いましたが、でもあんまりひ
  どすぎる。そんなことを考えた故かそれだけ覚えてました。後にその葉書を受けたおもさんに話しまし
  たら、云ってました。「おどろいたのなんのもう夢中でとびさがって行ったのよ。そしたら家に居ない
  じゃない、さあ、もう探して、探して……ばかねエイプリルフールも全々知らなかったわけぢゃないの
  に」やっと河原の方から帰って来たように記憶してるとか云うことです。

矢島けいが、「きち女らしい」と思ったのは、きち女がよく死を口にしていたからだろうか。きち女がエイ
プリルフールをいいことにこんな嘘をついたのは、自分が本当に死んだら周りがどんな反応をするのか確か
めたかったのかもしれない。実際にこのあと三年もたたずにきち女は自殺してしまうのだから、同じ嘘でも、
哀切をきわめたなんとも寂しい嘘である。

おもさんというのは、村の温泉宿の娘のことで、きち女の同級生。境遇の違いからかきち女には遠い存在に
見えたが、いつしか互いに悩みをうちあけあう間柄に。この人もきち女からもらった手紙をよく残している。
その中に、こんな言葉を見つけることができた。

  もとちゃん、強く正しく生きてゆくことにつとめようね。正しい人は寂くとも静かにゐられるのよ。こ
  んな寂しがりやの私が、若し、毎日堪え難い良心の呵責に逢ふようになったら、考へるだけでおそろし
  い。私はどうなってしまふでせう。

きち女十八歳の時の言葉である。なにやらきち女は、あとで自己嫌悪に陥るような啄木の行状を早くから知
っていて、そこのところは反面教師、他山の石にしていたのではないだろうかとさえ思えてくる。

  何となく、 
  自分を嘘のかたまりの如く思ひて、
  目をばつぶれる            啄木  

  ははそはよなげかすなかれその子らの血は絶ゆるとも清く生き来し                                                                                            
                                きち女
                   

この記事をはてなブックマークに追加

歌碑  江口きちの歌碑第一号

2011-08-14 03:33:08 | Weblog

 瀬の色の目立たぬほどの青濁り雪しろのはや交じりくるらし
                           
きち女

名山・武尊山(ほたかやま、2158m)の南麓に広がる川場は、その名の通り村内を清流が幾筋も流れている。街道筋のきち女の住居兼店舗も薄根川という一級河川のすぐ近くにあった。彼女はよくこの薄根川の河原田におりて散策したという。
雪国の人間は春の兆しに敏感なものだが、それにしてもきち女は目ざとい。川面の「目立たぬほど」の異変に気づいてしまうのだから…。
この歌はきち女二十三歳のときの作品だが、こういった自然の中で人が見落としがちなものに目がいき心を動かす傾向は、子どもの頃からのものらしい。
きち女の幼いときからの親友・矢島けいがこんな追懐をしている。

 私たちが七才の秋…。ある日栗の林へ栗拾いに行きました。
よくその場所も記憶していますが、枝と枝の間から空が少し見えていました。母が「きち、お前上ばっかり見てたって栗は拾えやしないよ」こういったのです。私は思うに、きち女は生まれながらの詩人ではなかったかと思われてきます。木の間の空を見てたか、栗がどこから落ちてくるのか、どんな風になっているのか、きっと色々思ったのでしょう。          
矢島けい編著『江口きち書簡集』より       

この「生まれながらの詩人」は、十七歳になって、東京の河井酔茗・島本久恵夫妻が主宰する「女性時代」の誌友となり、ようやく本格的な表現の場を得ることになる。以来自殺する年までのおよそ七年間、短歌を主に投稿していくのだが、それは本人がふりかえっているように、「遊戯的でも野心的でもなく」、「芸術的良心に愧じない」「嘘でない生活記録」であった。

働いて働いて一家を支えてきた母ユワが急逝したのは、きち女が十六のとき。少女は勤めて間もない町の郵便局をやめ、すぐに母が経営していた大衆食堂「栃木屋」をつぐことになる。同居の父や兄はあいかわらず頼りにならず、小学校に通う妹もいて、こんどは彼女が一家の支柱として働かねばならなくなったのだ。生涯、ふくらみこそすれけして消えることのなかった厭世のそもそもの核は、この母の死後あたりからきち女の胸底に生じたようだ。

文芸雑誌「女性時代」を知るのはそれと相前後した時期で、多感な娘の一つ胸底に厭世観と詩魂が同居しはじめる。二つは、いつしか不即不離になって、きち女の日々の感情を大きく支配。作品のひとつひとつはその結晶だったのだ。
それを踏まえてきち女の歌に親しめば、どの歌からもおのずから哀切さがにじんでくる。この早春の歌も例外ではない。

きち女が作った一千首を超える歌の中から歌碑第一号の歌としてこの歌を選んだのは、川場土着の農民歌人だった。秀歌には違いなくもこの作品と決定するまでに、彼は大いに迷ったことだろう。なぜなら、きち女の代表歌の第一は辞世の歌というのが当時すでに定着していたからである。

きち女は、昭和十三年十二月二日払暁、知的障害のある兄の死を見とどけてから自分も青酸カリをあおる。発見されたとき、傍らの炬燵の上に、便箋に書かれた次の二首が遺されていた。

睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初む

大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり

特に「大いなる―」の歌は、きち女の師で作家の島本久恵をして
「江口きち二十六年の生涯は実に実にこの一首への道であった」
と言わしめた。島本が著した『江口きちの生涯』(図書新聞社刊 昭和四十二年)のなかでだが、その言葉は
「私はそれを主人の声からも聴く心地がいたします」
とつづいている。

このとき島本の夫・河井酔茗は故人になっていたが、口語自由詩の開拓と後進の育成に尽力しみづからも平明温雅な作品を発表しつづけたことなどで、その名を日本文学史にとどめている。広辞苑に載るほどの人物
もっとずっと親近感のもてるところをいえば、小学唱歌「鯉のぼり」の作詞者である。そう、あの、

  甍の波と雲の波
  重なる波の中空を
  橘かをる朝風に
  高く泳ぐや鯉のぼり

この唱歌が発表されたのは大正二年(1913)。きち女が生まれた年である。
現在、川場村民俗資料館として活用されている建物は、かつてきち女たちが学んだ校舎を移築したもので、その庭に立つと、窓のどこからかオルガンに合わせて唱歌を歌う当時の子供たちの元気な声が聞こえてきそうだ。もちろん「鯉のぼり」も。その中の一人の女の子が、将来、この歌の作詞者の門に入り、そして死後までも引き立ててもらうことになろうとは、いったい誰が想像できただろう。

し、河井酔茗・島本久恵夫妻がきち女の才能に気づかなかったとしたら、そして二人がその死を惜しんで遺稿集や伝記を世に問わなかったとしたら、彼女の真価を理解する人の層はかなり限られたものになっていたのではないだろうか。

きち女の遺稿集『武尊の麓』(婦女界社 昭和十四年)の広告は、刊行の年に東京と大阪両方の朝日新聞に載り、そのどちらにも「大いなるこの寂けさや―」の寸評が添えられていたという。書いたのは、徳富蘇峰。私などは、群馬は伊香保を主要舞台にした明治時代のベストセラー小説『不如帰』の作者・蘆花の兄として覚えた名前だが、実は、蘇峰は、明治・大正・昭和の三代にわたって活躍したジャーナリストであり歴史家。この巨人の名は、それだけでぞんぶんにキャッチフレーズの役目も果たしたことだろう。

そこでもう一人、異色のきち女理解者の名をあげてみよう。世界的な数学者で文化勲章受章者の岡潔。彼は昭和十四年、大阪朝日新聞に載った広告をみて「十里の道を遠しとせず」奈良から大阪に出てゆき、名もない歌人の遺稿集『武尊の麓』を自ら購入している。そうしてこの人も彼女の辞世の歌「大いなるこの寂けさや―」の絶賛者のひとりとなったのだった。

岡はエッセイ集『月影』のなかの日本民族列伝の章でこの歌を引き合いに出し、驚いたことに、「ある無名女流歌人」としながらも彼女を日本民族の典型の一人とし、聖徳太子らと同じ範疇に並べている。
岡はさらに、この範疇の人たちをみていると松尾芭蕉の句

  白菊の目に立てて見る塵もなし

を連想すると結ぶ。

わがきち女が、いくら目を凝らしてみても塵ひとつない清らかな白菊!
喜ぶのは、ファンばかりではあるまい。当人
が生前にこの章を読んだら、まずは面食らうだろう。
なになに、この私が日本民族の典型のひとり!
そして自分をこのように評価してくれる人もいたのかと感涙し、生涯「流れ者の子、博徒の子」だからと卑屈なほどに苦しんで生きたことをばかばかしく思うのではないだろうか。

川場村文化協会がきち女の歌碑第一号を建てたのは昭和三十七年だから、これら著名文化人の辞世の歌絶賛のほうが だいぶ前のことになる。

では選者はなぜ最終的に、評価の高い辞世の歌でなく「瀬の色の目立たぬほどの―」のほうを選んだのだろうか。

最初私は、辞世の歌のほうはすでにきち女の墓石に刻まれているからそれでよしとしたのだろうかと思ったが、よく調べたら建墓は歌碑が建られてから三ヵ月後だった。
それで推理するのだが、選者が選ぶ基準にしたのは、作者の背景をまったく知らない人にも親しまれる、愛誦性の高い歌だったのではないだろうか。

瀬の色の目立たぬほどの青濁り雪しろのはや交じりくるらし

これなら春の兆しを発見したときの歌だから希望につながって、これから死にゆくときに作られた歌よりも気持ちよく愛誦されていくのでは、と見込んだのではないだろうか。

この私の推理がすこしでもあたっているとすれば、選者がこの歌に託した思いは、果たして思いどおりになってきたかどうか―。

私は、きち女に興味を持つようになってから、よくこの第一号の碑の前に立つようになった。
場所はきち女が愛した薄根川にかかった吊橋・ふれあい橋のたもと。村の吊り橋といっても、ぐらぐら揺らぐ素朴な木の吊り橋ではない。全長226メートル、幅2メートルの堂々とした金属製の吊橋である。
農業が主だった人口約3、4千のこの村は、ただ単に山紫水明の地というだけでなく単純泉の温泉地であり名峰武尊山の登山口であり、おまけに都会からの交通の便(関越自動車道沼田インターからすぐ)もよくて、平成になってから村おこしのためのスマートな半観光地化がすすめらる。この吊り橋もその一環として一年半の歳月を掛けて建設されたもの。
 きち女の歌碑は、最初彼女の家の近くの小さな神社の境内の一隅にあったが、村おこしの「担い手のひとり」として現在の場所に移されたのである。
歌が刻まれた部分は自然石を板状にしたもので、大きさは―たまたま持っていた新聞紙を物差しにしたのでおおよそだが―高さ111センチ、幅55センチ、厚さ10センチ。それが高さ120センチのごつごつした自然石の台座の上にたっている。
橋を渡っていく観光客を見送り渡ってきた観光客を出迎え、そして観光客もこの立っ端二メートル数十の碑におのずと気づかされるようになっている。

ある日、この歌碑を見ているときだった。私の背後ににぎやかな一団が近づいてきた。どうやら観光の熟年男女たち。彼らはたちまち立ち去ったが、残していった言葉が衝撃的だった。

「でっかい位牌だなァ」
「なにが書いてあるの?」
「ぜんぜん読めないよ」
「どうやら俳句みたいだね」

このころはもう私は歌碑の前に立っても、刻まれた文字をいちいちなぞるようなことはなかった
そこに江口きちの歌碑があるからやってきて、しばし彼女に会っているような気分にひたっているだけだった。
しかし、一団の残していった言葉に驚き落胆したものだから、あらためて歌碑の文字をなぞってみる。

短歌の上の句(瀬の色の目立たぬほどの青濁り)が左上、下の句(雪しろのはや交じりくるらし)が右下という散らし書き
しかもひらがなは元のと違う変体がな混じりの連綿

最初、私も難儀して読んだのを思い出す。もし、きち女に関心がなかったら、自分もおそらくさっきの観光客と似たような印象と感想で終わっていたかもしれない。
つまり、この碑は、江口きちとか短歌とか書とか、そういうことに関心のある人はひきつけるだろうが、それ以外の人にとっては、そばの説明書きを読まない限り、なんだかよくわからない立派な碑ということになるのではないだろうか。

 瀬の色の目立たぬほどの青濁り雪しろのはや交じりくるらし

この歌が、この碑を通して多くの人に愛誦されてきたとはとても考えられなくなってしまった。これからだって…、いやよそう、私はこの碑にケチを付けようとしているのではないのだから。
それはともかく、うらやましく思い出されるのが石川啄木の歌碑第一号。刻まれている文字は新聞の活字体である。(啄木は朝日新聞社で校正の仕事にたずさわっている)

  やはらかに柳あをめる
  北上の岸邊目に見ゆ
  泣けとごとくに  啄木

まだ盛岡の啄木公園を訪れてはいないが、写真で見ても清々しい美しさでかつとても読みやすい。さすが歌碑のお手本といわれるだけのことはある。この歌碑の前に立った人のおおかたの胸に、流離の人啄木の思郷の念がストレートに沁みこんでいくのが容易に想像できる。

いつしか私は江口きちの活字体の歌碑を夢見るようになっていた。
こだわるのは活字体ということだけではない。ほかに二つある。それは碑に書かれる歌と碑がおかれる場所。


歌は辞世の二首。

睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初む

大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり

多くの人が言うようにきち女の究極の作品は「大いなるこの寂けさや―」のほうかもしれないが、私は「睡たらひて夜は明けにけり―」のほうと一対にして初めて江口きちの全き辞世の歌といえるのではないだろうかと思っている。
二つの歌の優劣は私にはわからない。しかし身近な雀の鳴き声も漠たる宇宙の静けさも、これからいよいよ自殺を決行しようとしている人間の生身の感覚がとらえた最後のものとして等価である。どちらの歌にも自然への感慨をこめているところが、いかにも自然を愛した歌人らしい。

さて場所だが、それは第一号の歌碑がもとあった小さな神社・古峰神社の境内の一隅。
そこにこだわるわけは―。

きち女の親友のひとりに
、酒井静江という二つ年上の女性がいた。お互いに敬愛する仲で、前述の『江口きち書簡集』のなかでも、その様子をありありとうかがうことができる。
川場を出てから東京市や鎌倉町などに住む(ある時期まで「派出看護婦」として働いていたという)静江
の元に、きち女は何通もの手紙を送っていて、それが大切に保管されていた。

その文面は、病気がちな静江の体調を心配したり、書物等モノを送ってもらったときの感謝を述べたり、恋愛論を展開したり、川場の様子を知らせたり、とさまざま。そんな散文的な文面の中に、自然を愛した詩人らしい言葉がさりげなく埋め込まれていてはっとなる。たとえば、

「自然には飽くない詠嘆とあこがれをもってゐる私は、海の話をきくととても羨ましくなっちゃうの」
「鎌倉のお土産と言っても、海をそのまま背負って来て、と言っても無理だし、海の匂ひと光りとからだに沁ませてもって来て下さい」

啄木の歌や万葉集の歌が添えられていたりもする。

静江のほうはきち女にどんな文面の手紙を送っていたのだろう。
きち女の死の半月前の日記に、「静江さんと○○から来信」と記されているが、内容については触れていない。その五日後の日記に「静江さん、投函」とあり、きち女が返事を書いているようだが、そのあと九日間で途切れてしまう日記には、もう静江の名は登場しない。

しかし驚くなかれ、静江はきち女の死後も、きち女に宛てた手紙を書いていたのである。もちろん投函はしていないが。今私たちは、『江口きち書簡集』の中にその文面の一部を読むことができる。編著者矢島けいが解説の中で紹介してくれたおかげである。

そのあたりのことを、編著者の文章(アンダーライン)ごと引用してみよう。

静江さんが死期の近付いた頃、看てた姪ごさんに、これは私の一番大切なものだからと云われ、武尊の麓、歌集、きち女の手紙を預けられたと云うのを聞きました。
拝見して見たく、早速お借りして、歌集を開いて見ますと、一枚便箋がはさまれています。便箋は6と番号がついていまして、次のことが書かれていました。

それからもう一つ、うれしいお知らせよ。あなたの碑が岩田橋のたもとにある、古峰神社の境内に、川場文化協会で建てゝ下さる由、貴女の愛した武尊山を背景にして、薄根川の流れの音をきゝ乍ら、また川場の村を訪ふ人行く人、良く見えて、うれしいと思います。

このきち女に宛てられた手紙の一片に、私は深く感動させられました。なんと尊い、深い
友愛であろうと。これは歌碑のできた年あたりにかかれたものらしい。その翌年の三月に他界なさいました(三十三年)
 

私が江口きちの辞世の歌の碑を古峰神社の境内の一隅にとこだわる理由は、まさにここのところにあるのだ。
江口きちについて調べていると、彼女が村人に対してすこし捻くれていたとか、疎外感をもっていたとか、いやでもそういう側面を感じることがある。そしてそういう側面があっても無理からぬことだとも思う。ごく一部の村人が父や母に向ける白眼を感受性の強い娘が見逃すわけはなく、それが村人一丸の仕打ちのように勘違いして、小さな胸は屈辱や怨みではちきれそうになったことも少なくなかっただろうから。
だからこそ、きち女が矢島けいや酒井静江(ほかにも何人かいる)のような良き友達に恵まれていたことはいっそう意義深い。きち女の短い生涯のここかしこに明るい光を放つのは、ほかでもないその温かな友情なのだ。

いま引用した部分から、きち女の死後二十年経ったころの静江の変わらぬ友情、まるできち女そのものが歌碑となって最適な場所に佇むような喜びようを知るわけだが、現在、古峰神社の境内にはその肝心な歌碑が存在しない。ふれあい橋のたもとに移されるまで確かに建っていたであろう小さな空間を見るたび、物足りなさを覚えるのは私だけだろうか。

ともかくきち女にとってかけがえのない友のひとり、酒井静江の手紙の言葉をぜひもう一度生きたものにしてもらいたいと願うあまり、辞世の歌二首の活字体の碑の夢が叶うなら、場所は古峰神社の境内の一隅以外には考えられないのである。

さて、最後にもう一度、ふれあい橋のたもとにもどってみよう。


ごく最近、この歌碑の文字を書いた関桜涯という人物について
少し知ることができた。生まれも育ちも川場の人だが、書家として一番活躍したのは、関西だったという。ショッキングだったのは、この書家の得意とするところが、楷書だったということ。なんでも、同じ漢字を書いた半紙を何枚も重ねて針を突き刺すと、上から下まで漢字のまったく同じ位置に針穴ができたという。それほどの楷書の達人なのに、「瀬の色の目立たぬほどの青濁り―」は…。

しかし、私はこの歌碑に刻まれた文字の美しさにも素人ながら魅せられていて、許されるものならいつか拓本にして自分の部屋に飾っておきたいと思っているほどだ。そこにきち女の歌が書かれているからではあるが―。

それから、関桜涯の書を石に刻んだ人の技も凄いと思う。碑陰を見ればなおさらだ。きち女の略歴が書かれているのだが、それはそれは細かい行草の文字が見事に刻まれていて、見るたび感動するのは何よりそこのところだ。

この彫り師について私はまだ何にも調べられずにいるが、もし川場出身のひとであったら、私はこう思う。
この碑は、江口きちの第一号の歌碑にはちがいないが、それと同時にいずれも川場が誇れる歌人、書家、彫り師、三位一体の総合芸術といえるのではないだろうか、と。碑の脇に添えてある説明書きも、江口きちだけでなくほかの二人についても紹介したらどうだろう。そうすれば、碑の前に立った観光客が何が書いてあるかわからないというだけで立ち去ってしまうようなことはもうなくなるだろう。碑は多様な存在価値でふれあい橋のたもとに輝きを放つようになると思う。

○付記

大阪大仙公園内の図書館前庭にある河井酔茗の詩碑には、小学校の教科書にも載った詩の一節が刻まれている。活字体で非常に読みやすい。

 年ごとに
 ゆづりゆづりて
 譲り葉の
 ゆづりしあとに
 また新しく


この記事をはてなブックマークに追加

江口きちと武尊山

2011-02-11 05:56:09 | Weblog

 武尊根は吾が生れどころ小さきいのちいのち終らば眠らむところ                                                                                                  きち女

昭和三十九(1964)年、山岳随筆『日本百名山』を著した深田久弥は、百座を選ぶ基準を品格・歴史・個性の三つにおいていたという。
武尊山(ほたかやま・2158m)も、「すばらしい立派な自然」「日本武尊の伝説を持ち、昔から信仰の山」「長大な障壁のような山」等々で、登山のエキスパートのお眼鏡に適い名誉の座を獲得している。

この『日本百名山』が出版される三十年ほど前に、きち女が「女性時代」誌に<武尊山>と題した随筆を発表しているが、彼女もそこに山の品格・歴史・個性を書いているところが面白い。地元の人間ならではの或いはきち女ならではの観方で親愛と畏敬の念をもって語り、狭い範囲の中ながら武尊山が名山であることをすでに認識していたことがわかる。
少し引用してみよう。

赤城の優雅な山容、裾野に抱いている村落だけでもかなり多く、その寛大さに比して、武尊はまたあくまで険阻、峻厳、みだりに人間の冒すことをゆるさぬ霊峰である。晴れた日、碧空の彼方にそゝり立つ紫褐色の山の線は荒削りな男性的なものである。私たちの村を少し奥地に入るともう既に山岳地帯で、名のある山名のない山、渓谷、また渓谷と幾重ともなく深く重畳してゆく中に、抽ん出て名山の名をなしているのが武尊である。

きち女はこの随筆の最後の方で、こういっている。  

私が若し他日望郷の日があれば、一番深く想はれる山はおそらく武尊であらう。

きち女は生地である武尊の麓の村、川場で全生涯(二十五年と九日)のほとんどを過ごし、自殺して果てると川場に葬られている。
母ユワが亡くなる前の一時期、隣接した町、沼田に出て下宿したこともあったが、それはその気になれば徒歩でも帰れる距離で、武尊山の威容の前ではひとつ庭を移動したようなものだった。

  武尊根のふところ高み町の鐘聴こえくるかも夕の静寂に
                    
きち女

石川啄木が「石を持て追はるる」心境で岩手の渋民村を出てから北海道、東京と流離し、ついにふるさと渋民に帰ることなく異郷の土となってしまったのと対照的である。
そして、歌にみる二人の願望もまた対照的である。
  
  
今日もまた胸に痛みあり。
    死ぬならば、   
    ふるさとに行きて死なむと思ふ。
  啄木   

    
人ひとり生くるも死ぬもかかはらぬ帝都の隅にかくれ住まばや
                            
 きち女

啄木は渋民村に帰りたかったが帰れずじまい、きち女は川場村を出て行きたかったが出て行けずじまい、どちらも皮肉な運命だった。
                 
きち女は、貧乏、家庭不和、道ならぬ恋などなど、若い女性が独りで煩悶するには重すぎるほどの悩みを抱えていた。狭い村落の中では、人の視線も気になりとかく生き辛い。何度となく出奔願望にこころが揺らぐのである。が、結局は、そのたびに目下の現実を宿命とおもい、諦めている。

   (さか)り来て思へばあはれ武尊なる山辺にいのち小さかりけり  

   
帰りゆく武尊は荒れてその下に住ひうごかぬわが定めあり
      
人の子が生まれ育った土地を離れて初めていえる故郷というものをついに持たなかったきち女の一生は、当然のことながら望郷とは無縁だった。

   
ふるさとの山に向ひて
   言ふことなし
    ふるさとの山はありがたきかな
  啄木                

啄木の歌のようにはきち女は、「ふるさとの山」という言葉を使うことができない。彼女がその言葉を使えるのは、川場を出て都会で暮らす妹や友を思うときにかぎられた。

  
ふるさとを遠住む人よふるさとの山の明け暮れにおもひ走せずや

あとは、妹や友の望郷の景色にも見え隠れするであろう、きち女自身の山の明け暮れをひたすら歌い続ける。
  
  武尊嶺の雪を人づてにきくがほどふところ深く住ふわれかも

  人送り人迎へつつ幾夏を侘び生くらむか武尊裾辺に
                              
きち女の自殺は昭和十三年十二月二日だが、そのわずか二十日前の日記のなかにこんな記述がみえる。

十一月十三日 曇
たきから手紙が来る、榛名からの展望の中に武尊が見えたという。麓に住んでいてさえ武尊を見る時は感動をともなうのだから、ましてふるさとを離れて七年、たまたま旅行中の視野に武尊が現れたらなつかしさもひとしおであったろう。

たきはきち女の最愛の妹。奉公先の旅行で東京から伊香保に来たのである。妹は姉がすでに永訣を覚悟しているとも知らず、

姉さんといっぺんここに来たいと思いました、

とも言ってきたという。
伊香保は川場からわずか数十キロの距離。ファンとしては、苦労を分かち合ってきた姉妹が、いつの日かふたたび肩寄せ合ってしみじみと武尊山を遠望する日が来てほしかった。


日記は、死の四日前の十一月二十八日で終わっている。その江口きち最後の日記にも武尊山は登場する。
短いので、その全文を紹介しよう。

十一月二十八日 晴 
 お湯へ小母さんとゆく。頬を刺すごとき風の中に 川原は蕭條と荒れてゐた。まともに仰がれる武尊に向ひ感慨無量の時しばし。ぬるいお湯に永いこと入つたら すつかり体が疲れてしまつた

  まさに江口きちの一生は最後の最後まで武尊の懐に抱かれ、武尊を仰げる範囲にあったのだった。そして今も、武尊の麓で、村に、人に、大切にされながら眠っている。

 武尊根は吾が生れどころ小さきいのちいのち終らば眠らむところ

一生を純化した調べのよい歌だけれど、彼女を知れば知るほどあだおろそかに口ずさめなくなっていく。

○付記
私の知る利根沼田をふるさとに持つ人はだれしもいう。帰郷の車中から武尊山が見えてくると、その見慣れたはずの折々の美しさに思わず息をのむ、と。
「武尊の残雪」は特に美しく、沼田では沼田八景のひとつになっている。

深田久弥が『日本百名山』のなかで、
私は上州の山へ登るときはいつも、この大きく立ちはだかっている障壁を眺めるのが楽しみであった。
と言っているのも、素直にうなずける。

※次回は、きち女と啄木の演じたそれぞれの「嘘」を予定しています。


この記事をはてなブックマークに追加

江口きちと相寄る魂

2011-01-19 04:13:19 | Weblog

  生き死にはさもあらばあれひとすじと相寄る魂の揺らぐはなくに
  
                                 きち女

  きち女は「相寄る魂」という言葉が好きだった、と親友矢島けいが書いている。すぐさま晩年の道ならぬ恋と関連付けたくなるが、実はきち女はその恋の始まる前からこの言葉を登場させていた。けいに宛てた手紙に「相寄る魂っていゝ言葉だね」と書いたのは昭和十年、恋が始まる前年である。この相寄る魂の出所は、つぎやんという友人がもっていた生田春月の小説の題名だという。

 その小説『相寄る魂』だが、三年の歳月をかけてようやく完成した(大正十二年、きち女が十歳の頃)三巻からなる長編と知って、私ははなから読むのをあきらめてしまった。どうやら、ついには心中に至る純愛物語のようだ。それに主要人物の厭世ぶりは生半(なまなか)ではなさそう。きち女は恋愛ものが好きで、厭世家、そして読書好きだったから、身近な友達がこの一昔前の人気小説を持っていたとすれば、それを借用して長さなどものともせずに読了していたかもしれない。

 ちょっと調べただけでも、春月の小説以外に、書籍、日本映画、洋画、芝居等々、タイトルに「相寄る魂」のついたものがけっこうある。見た限りいずれも春月の小説の初版より後のものだ。

 評論家亀井勝一郎の『人生論集』(大和書房 昭和四十二年)のなかに<相寄る魂について>という一文がある。私は読んでみて、次のくだりで思わず知らず肯いてしまった。

夫婦として長い生活を続け、それぞれに仕事で苦労したり、或る場合は浮気を起したり、貧乏したり、様々の曲折を経た後、やがてごく素直にそれを回顧し、「お互いに苦労かけたなあ」などと言いあうその状態を、私は「相寄る魂」と言いたいのです。言わば病める魂の抱擁を意味しているわけで…。

  きち女と密かに恋愛関係にあった男性の、きち女亡きあとの歳月を私はふと想像していることがある。そのたびに漠然と旧家の広い屋敷が浮かびあがり、家の中にはきち女のことで傷つけ傷つけられた夫婦の影がこれまた漠然とあって、冷たくて暗い空気が流れているばかりなのだった。それが、そうとばかりは限らないのだということに、いま気づかされたのである。
 夫婦は時間とともに縒りを戻していき、いつしか亀井のいうように相寄る魂状態となり、知らぬ間に偕老同穴となっていたということだってありうるのだ。きち女ファンの私は、それを想像するだけでなぜかホッとする。

  ここで、きち女の<男性に宛てた遺書>の一部分をあらためて見てみよう。

  生きるならきっぱりと 生きなければいけないものを、所詮、生まれついた厭離の念から抜けがたい命は、何の創造もありえないでせう、あなたのためにこれまで生きたいのちでこそあれ、あなたのために死ぬのではないことは幾度もくりかえした通りです、単純な定見から決してご自分をお責めにならぬやう お悔ひになることのあらぬやう祈つてやみません。 
     
島本融編著 『塔影詩社蔵 江口きち資料集成』(不二出版)

  きち女の自殺には、道ならぬ恋の前途を悲観してとか、男性を愛するがゆえに自分を犠牲にしたのだとか、まるまる男性がらみの推測がいくつかある。一方、恋愛云々は自殺決行の時期には作用しただろうが直接の原因ではない、きち女の自殺は遺書にある通りもともとの厭世からだと言い切る人もいる。
 真相は本人のみぞ知るで、永遠の謎である。そうではあるけれども、私の気持はいまようやく遺書を額面通りに受け取るほうに傾きはじめている。きち女はもともとの厭世から自殺したのだと考えると、想像するその後の男性とその妻の”相寄る魂”状態がより現実味を帯びてくる。

 生田春月が、<孤独の結末>と題して、こんな言葉をのこしている。

どんな孤独者でも、その孤独の重みに堪へられなくなる時が来る。そのときは、彼は恋愛するかも知れぬ。自殺するかも知れぬ。ことによると、卑しいゴシップメーカーの中に入つて、ゴシップを楽しむかも知れぬ。恐らく、孤独の対症療法としては、この最後の方法が、最も賢明なものであらう。   
                    阿呆理詰(Aphorismen)より 

 春月もやはり恋愛と自殺を直接連関させてはいない。追い詰められた孤独者の選択肢として並列させている。
  実は春月自身が孤独な厭世家だった。不倫を重ね、しかしそれに心から癒されるということはなく、三十八歳のときに播磨灘で投身自殺をしてしまう。つまり彼は、三つの選択肢のうち”最も賢明なもの”を選ばず、あとの二つを選んだのだった。
   きち女もまた春月同様、”最も賢明なもの”を外したことになる。それは、当然かもしれない。厭世家は、だいたいが自身のゴシップにも傷つきやすいゴシップ恐怖症なのだから。

 ともかくこうしてみると、貧乏、家庭不和、疎外感などでこの上なく孤独だったきち女が、自分の店の客で、村の紳士で、インテリで、おまけに十八も年上の頼もしい男性に恋心を抱いてしまったのも、自然のなりゆきだったと思えてくる。

  青春のよはひはすぎて秋ふかくこの恋ごころかりそめならず 
                                             
  
 しかもその男性は心を動かし向き合ってくれたのである。きち女は青春の齢を過ぎてようやく男女の相寄る魂を実感することができた。最初のうちはそのおおっぴらにできない、けれどけして仮初なんかではない本気の恋を逃したくないという思いで必死だったにちがいない。

  しかし孤独は癒されるかに見えて、所詮、道ならぬ恋、相寄る魂は実はしだいに孤独を深化させるばかりになっていったのである。それが厭世家きち女のかねてからの自殺願望の実現に多かれ少なかれ作用したことは、否めない。
 いまから七十年もそれ以上も前のできごとである、すべては淡々しい光景の中に佇んでいる。

            ※

  きち女の好きだった言葉「相寄る魂」から生田春月にもふれましたが、そこに、きち女の師・河井酔茗が登場することによって、だんだんにさかのぼって石川啄木のところまでたどり着くことができます。次回は、そこを書く予定です。                                                                 


この記事をはてなブックマークに追加

啄木の死顔 きち女の死顔

2011-01-19 04:06:07 | Weblog

  呼吸すれば、
  胸の中にて鳴る音あり
   凩よりもさびしきその音!

  眼閉づれど、
  心にうかぶ何もなし。
  さびしくも、また、眼をあけるかな。 
 啄木

  睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初む   

 大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり 
                             きち女

 啄木ときち女の最後の作品を並べてみた。二人の死の覚悟の違いを見比べることができないだろうか。

  啄木の二首は、いわゆる辞世の歌ではない。「さびしき」「さびしくも」という語が使われていて、どちらからも満たされない気持ちや心細さがつたわってくる。病が重くなってきてもう死を覚悟はしているものの、なおあきらめきれない生への執着がひっそり潜んでいるような、そんな気がしてならない。

 一方、 きち女の二首は、自死した部屋の炬燵のうえに遺されていた紛れもない辞世の歌。「聴きをさめなる」「時刻あやまたず」という語句からも、ゆるぎない覚悟がみてとれる。

 啄木はもっと生きたかったけれども、病気に負けて死に、きち女はもっと生きられたのに、自ら命を絶ってしまった。そこのところを、少し詳しくみてみよう。

 啄木は結局は病死だったが、自殺を考えたことが何度もあった。

   いくたびか死なむとしては
   死なざりし
   わが來しかたのをかしく悲し
    啄木

 たとえば、ある朝、なんとか明るい気分になりたいと思っていた啄木のもとに、友人から葉書が来る。質に入れてある貸した時計を返してほしいという催促。いわれた日限まであと数日しかない。よけい暗い気持ちになってしまって、次のように落ち込んでしまう。

 ああ! けさほど予の心に 死という問題が 直接に迫ったことがなかった。きょう社に行こうか行くまいか……いや いや それよりもまず 死のうか死ぬまいか?……そうだこの部屋ではいけない。行こう どこかへ行こう……  
                          ローマ字日記より

  それで啄木はいったいどこへ行ったかというと、先日行っていい気持ちになった湯屋。やがて、湯から出ようか出まいか考えているうちに、そのことのほうが主になっていつのまにか死のうか死ぬまいかという心理状態ではなくなっている。そして日記はこうつづく。

水をかぶって あがったとき 予の心は よほど軽かった

 なんだ、啄木の死の逡巡とはこの程度のものだったのか、と思ったら間違いだ。きち女の自殺願望が、拭っても拭いきれない”血の呪詛”に裏打ちされていたので揺れることはあっても消えることがなかったのに対し、啄木のそれは、ある意味一過性である。しかし、その都度、深刻ではあったのだ。

 啄木は、明治四十年五月(二十二歳)、「石をもて追はるるごとく」故郷渋民を出てから北海道に渡る。仕事を得て離散した家族を呼び寄せたかとおもうと、事情ができて一人他所へ移住、一年弱の間に、函館、札幌、小樽、釧路と漂泊している。その間、収入があっても、半独身者のような放恣なところがあったので、家族を常に困窮させていた。

 しかし、啄木の心にあるのはつねに文学であり、家族に対する責任だった。

 明治四十一年春、母と妻子を北海道の親友・宮崎郁雨に託し(父は青森)、小説に賭けようと一人上京する。が、書くものはことごとく失敗、金がないので家族を呼ぼうにも呼べない。自分は同郷の親友・金田一京助に助けられながら、文学を捨てるか、家族を養う責任から解放されるか、いやそのどちらもできない、と日々懊悩する。自殺を考えるのは、それが行き詰ったときだ。実際に電車に飛び込もうとしたこともある。
 単身上京してから一年後の明治四十二年三月、ようやく、東京朝日新聞の校正係として定職に就く啄木だが、六月に宮崎郁雨に付き添われて家族が上京してくるまでの間にも、

ああ!みんなが死んでくれるか 予が死ぬか。ふたつにひとつだ! どこからも金の入りようがない。そして来月は家族が来る……予はいま底にいる――底!ここで死ぬか ここからあがって行くか。ふたつにひとつだ。

  こんな風に死にたいという感情に幾たびも襲われている。
  そんなときの啄木にしてみれば、質草にした時計を返してほしいと日限までいわれて催促されることは、追い討ち以外のなにものでもなかったのだろう。

  立ち直り、夢をもち、生きようとする啄木が、本当に深刻に考えなければならなかったのは、自身の体のことだった。

  そんならば生命が欲しくないのかと、
  医者に言はれて、
  だまりし心!  
      

  啄木の母カツは、渋民を出てから死ぬまで、夫一禎のあとではなく、溺愛した一人息子・一(啄木)のあとを追い続ける。 啄木はカツが娘時代に肺結核を患っていたことを聞いていながら、また彼女が喀血するのを見ていながら、同居の危険に気づかなかった。自身の体調が悪くなってもまだ軽く考えているくらいだから、妻の節子がすでに感染していることにも、なかなか気づいてやれない。ついには、病人だらけの家になって家主に立ち退きを迫られ引っ越すのだが、それでも家族は、一緒だった。啄木一家に限らず、肺結核にたいする当時の認識は、民間ではその程度だったのだろうか。死の病と薬代さえままならない貧困、かててくわえて母と妻の不和、啄木の晩節は悲惨としか言いようのない状態におかれていたのだった。
 明治四十五年に先ずカツが没し、その一ヶ月後にあとを追うように啄木が没し、そしてその翌年の大正二年(この年、きち女生まれる)に妻の節子が没している。

 金田一京助が、

あの啄木を生んだのももちろんおかあさんですが、また、その啄木を生涯浮かび上がることのできない貧困に踏み落としたのも、やはりそのおかあさんだったのです。中略。ああいう苦労をしたからこそ、あれだけの、今日日本の隅々に至るまで多くの人々が多大の感銘を持って読む、あの体験、あの傑作を残せたので、したがって、それらをつくったのもそのおかあさんなのです。

とかなり圧縮していっているが、その意味はわかる。

 きち女は自殺だった。啄木とは反対に生きようとさえすればもっと長く生きられた身体だった。死の二十日前の日記を開いてみよう。

昭和十三年十一月十二日 曇
営業者の健康診断で白沢小学校へ行く、中略、診査は簡単、異常なし。

 胃痛とか歯痛とか、そんなのはよくあったようだが、彼女は元来健康体だったのだ。それから、その健康体を見込まれてかどうか、もうすこしのところで自殺をやめて生の方向へ向きそうになった出来事も見落とせない。なんとそれは死の一週間前であった。日記はまだ書かれていたから、その記録がある。

十一月二十五日 薄曇り 午後は雪ちらつく
生方たつゑさんから、東京の恩師のお宅へ女中にとの手紙を受ける。折も折、思ひがけないことゝて天意か、とも思はれ、夕方なお子さんに相談にゆくやら、近所の人たちにはかるやら、大へん心がうごいた。結局とりやめる、食欲なし。たきから手紙がくる。

 生方たつゑは三重から沼田に嫁いで来た、きち女より十ほど年上の人で、文芸的な関係でわずかながら面識があったようだ。生方が日本の代表的歌人のひとりと目されるようになる前のことである。生方の恩師というのは、著名な歌人今井邦子のこと。今井は、きち女の師・河井酔茗の早くからの門下生で、その半生は波風の多い人だったから、きち女など案外気に入られ、あるいはお手伝いさんというより短歌の世界を広げてもらえる書生のような処遇が受けられたかもしれない。

  きち女がこの話を、心が揺れながら結局は断ってしまった理由のひとつは、プライドだったのではないだろうか。彼女を精神的貴族という人がいるが、そうかもしれない。他人の下で気をつかいながら働くことへの厭い…、彼女なら考えられなくもない。
  ”流れ者で博打うち”だった父・熊吉を異常なまでに憎んだのも、煎じ詰めれば、繊細な若い娘にありがちな精神的貴族のプライドがそうさせたのかもしれない。

  逐はれては死なじと思ふ女子の驕りをもちて死に臨み来し                                                          

 そうだ、忘れてはいけない。きち女には、面倒を見てやらなければならない知的障害をもつ兄がいたのだ。たとえ今井邦子のところの条件がよかったとしても、当てにはできない老父にこの兄を任せて自分ひとり出て行くわけにはいかない。

  いひさとす言葉に涙ぐむわれをおそるるらしもかなしき兄は

  これの生にいのちを受けしかなしさよ兄の若さのやゝすぎむとす

  啄木同様、きち女もまた家族というしがらみから逃れられない宿命を負っていたのである。自分が死んだあとのことまで心配して、生命保険にはいっているほどだった。

  うかららに先立ち死なむ日もあらめ生きのいのちに保険つけてし

 
彼女は兄を道連れしてに逝ったので、この保険は、あんなにも憎んだ父のために役立ったということになる。

 啄木ときち女の死に方の違い、冒頭に掲げた二人の最後の歌にみた覚悟の違いは、そのまま二人の死顔にも違いとなってあらわれた。                

 
若山牧水は、啄木の最期に居合わせたただ一人の友人だが、「石川啄木の臨終」の中で、こう書いている。

 私は永く彼の顔を見てゐられなかった。 よく安らかに眠れるといふ風なことをいふが、彼の死顔はそんなでなかった。

  きち女の親友のひとり・小林なを子は、「江口さんの死の前後」という手記に、きち女の死顔をこんな風に書いている。

  生けるが如きその顔は白い枕の上にきちんと眠ってゐた。おちついた心で対することができた。取り乱したあとは何処にも見られなかった。閉じた眼もすぐ開きさうに、唇もちやんと結んで、どうしても息が通つてゐさうであつた。

 

○付記

啄木の歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』はともに三行書きですが、表記の仕方に少し違いがあります。『悲しき玩具』は三行の頭がそろっていていますが、『悲しき玩具』のほうは、そろっていたりいなかったりいろいろです。それに、『悲しき玩具』では、句読点、感嘆符、ダッシュなどの記号が、散文のように使われています。『一握の砂』ではまったく使われていません。

※次は啄木の妹ときち女の妹を予定しています。


この記事をはてなブックマークに追加

きち女と雀 啄木と雀

2011-01-11 02:59:08 | Weblog

  睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聽きをさめなる雀鳴き初む
                              
きち女


  ふと思ふ
  ふるさとにゐて日毎聽きし雀の鳴くを
  三年聽かざり               
 啄木

 昭和十三年(きち女の死の年)、「女性時代」誌がアンケートをとったなかに「好きな鳥」は何かという質問があった。これに対してきち女はつぎのように回答している。

 雀、他の鳥を知らないためでせう。

 他の鳥は知らないというが、彼女は、カッコウやキツツキの歌もいくつか詠んでいる。
  
    かなしみを人には告げずわびしらに夕はきけるかくこうの声    

  前山は降りけぶらひてかくこうの声のありどのさだかに知られず 

  春雪のしき降る中に一羽ゐて日もすがらなる啄木鳥の音

  雪に埋む墓場つゞきの竹藪にきつつきのゐて竹つゝく音


 自然の豊かな川場村に住んでいれば、ほかにカラスやヒヨドリなども身近にいただろうし、季節になれば、ウグイスの囀りを聴きツバメの飛翔も見たことだろう。きち女のように自然をこよなく愛した繊細な女性が、村にいる鳥や飛来してくる鳥に無頓着でいるわけがない。そのなかでもっとも親しみ愛した鳥がスズメだったのだ。「他の鳥を知らない」といったのは、それを強調したいがために誇張したのだと思う。
 スズメが一番好きだというだけあって、きち女はスズメの歌をけっこう詠んでいる。

  只一人群れに離れし雀見て一茶の俳句口ずさみけり

  庭先に忍び寄るごとゑを拾ふ雀よ友はいづくに居るの


  夕立の前ぶれなるか雀らの声かしましく鳴いている今


  無邪気なる少女にも似し小雀の家の中まで入りてゐるなり                  
             (昭和四年頃  矢島けい宛手紙で披露)

  寝ねてあれば思ひはかなし屋根の上に遊ぶ雀をいとほしみゐる

  屋根裏の屋根のトタンに一二羽の雀ひそかにあそべるらしも

          
   (昭和八年 歌帖 風邪と雀と)
  
  うち仰ぐ桐のこぬれに愛しもよ雀の群の雪ちらしあそぶ

  觀てあればわれにもの云ひかくるごと雀の所作のひた愛しかも
                          (昭和十年 歌帖)
  
  とび交ひて雪ちらしつゝ桐の枝に雀の所作のひた愛しかも
              
  觀てあればわれにもの言ひかくるごと桐のこぬれに愛しかり雀 
                
                         (昭和十年 女性時代)

  うつつなに晝を臥やれば障子一重隔てて愛し雀來遊ぶ

  羽ばたきの音は障子の外に近し身じろがずゐて姿態(すがた)                      
  想ふも  
                 (昭和十一年 歌帖)

  桑畑の中は小暗く降りもやふ夕をひそかに遊ぶ雀子

  地に低く桑の下葉に遊ぶらし夕かたまけて雨に濡れつゝ

  飛び入りて桐の下葉にひそみしが雨に耐えずや間なく去りけり
                 
(昭和十二年? 歌帖 夕雨と雀 )
  
  軒近く雀來啼くも齒いたみて眠られぬ夜の明けそめにけり

  家ぬちは灯のいろふかきあかつきを雀の群のすでに集へる               

                            (昭和十三年 歌帖)                       
 
 これらを読むと、微笑ましくなったり、頷いてみたり、あげくにスズメに慰められている悩み多き娘の孤独感が伝わってくるような気さえしてくる。辞世の歌にまでスズメを詠み込んでいるが、こうしてみるとそれはいかにもきち女らしい。
 彼女の辞世の歌二首のうち、どうももう一方の「大いなるこの寂けさや」と歌いだす方が重んじられる傾向にあるのが、私には少し不満である。歌の文学的なよしあしは判らないが、故人の思い入れを重視してみれば、二首は同等の価値があるように思えてならないのだ。

  睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聽きをさめなる雀鳴き初む

  大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり

 雀と天地、つまり掌上にも乗るほどの小さな生き物と広漠とした宇宙空間、二首はたくまずして絶妙な対比となっていて、支えあってバランスをとっている一対のもの、そんな風なみかたもできなくはない。

  さて、啄木のほうだが、スズメの歌は冒頭の一首だけなのだろうか。それにしても日本ではもっともポピュラーな鳥であるスズメの鳴くのを、三年も聴かないなんてことはありえないような気がする。啄木は、ふるさとを喪失してから終焉の地東京に出てくるまでの間に北海道を約一年間漂泊しているが、その北海道にだって、明治には稲作が本格的になりスズメがいたという。この詩人は、三歩、三度、三月、三尺四方などなど、三という数字をよくつかっていて、それらはときに歌のイメージや調子づくりを優先させた数字なのかもしれない。それはともかく啄木にとっても渋民村にいるときは、やはりスズメがもっとも身近な鳥だったということがわかる。 
 
最後に啄木が函館で書いた日記を引用してみよう。

 今日は京子の誕生日なり。新鮭を焼きまた煮て一家四人晩餐を共にす。 人の子にして、人の夫にして、また人の親たる予は、噫、未だ有せざるなり、天が下にこの五尺の身を容るべき家を、劫遠を安んずべき心の巣を。寒さに凍ゆる雀だに温かき巣をば持ちたるに。               (明治四十年十二月二十九日)

渋民村の広い禅房に育ちながら、ここには、いまやスズメをも羨む家なき子啄木が…。

○付記
※「女性時代」誌の同じアンケートで他に八つの質問があり、きち女はすべて回答を寄せているが、そのうちの二つ。

問 生まれた土地(府縣市町村名)
回答 群馬縣利根郡川場村谷地

問 現在住んでいる家の近所
回答 二十年位前までは通るのも淋しい原だつたのが、今ではやゝ村の中心となつてゐます。從つて父祖傳來の舊家もなく、床しい傳統も持合せない植民地?です。公けの建物が近年續設され、その昔荒涼たる原つぱに新開の闘士だつた我家も、だんだん肩身せまく「故郷の廃家」になりつゝあります。隣村白澤と境をなす雨乞山を毎日毎日見てゐます。

※あとから歌帖にウグイスの歌発見

  清流のたぎち流るゝかたへには夏深くして鶯啼くも
                         きち女

※次回は、「一つ書物にきち女と啄木が…」を予定しています。


この記事をはてなブックマークに追加

啄木の父 きち女の父

2011-01-02 04:18:54 | Weblog
    かなしきは我が父!
   今日も新聞を読みあきて、
   庭に小蟻とあそべり           啄木

   老父がすべなき業に昼はやく風呂焚くらしも音の静けさ                          きち女

 啄木ときち女の境涯に関心をもつ前の私だったら、二首とも、所在無げな老父の孤影を子としてどこか哀れみ寂しんでいる歌、それぐらいのところで鑑賞は終わっていたと思う。しかし、今はついつい深読みをしてしまう。すでに死病を得ていた啄木と自死を引き寄せていたきち女の歌である、もっと複雑な心情がこめられているのではないだろうか、などと。ちなみに、ここに詠われた頃の二人の父はどちらもまだ六十代のはじめ。「老父」といっても、またいまどきの六十代とは年のとりかたが違うといっても、まだ老いさらばえるような年ではない。にもかかわらず、いやそれ以前から、一家が極がつくほどの貧に迫る状態にあっても、経済的にほとんど頼りにならない父たちだった。

 ある時期まで、石川啄木の父・一禎(嘉永三年生まれ~昭和二年没・享年七十七)は寺の住職、江口きちの父・熊吉(明治六年生まれ~昭和17年没・享年六十九)は博徒だった。特権階級として仏道を歩いてきた者と国禁を犯して見え隠れに極道を歩いてきた者、社会人としては両極に生きた二人ではある。 が、それぞれの子供時代までさかのぼれば、なにやら共通点がなくもない。

 どちらも生い立ちに関する資料は乏しいとはいうものの、熱心で優れた研究家たちのおかげで、今、私たちにはある程度の輪郭をつかむことができる。 一禎も熊吉も再婚した母の連れ子だったという。ふたりともそれに伴う家庭的な悲哀をあじわい、やがては否応無しの出家と止むにやまれぬ家出というかたちで僧になり博徒になっていく。元々は一禎は寺の子ではなかったし、熊吉は渡世人とは無縁だったのだ。

 一禎が僧にならなければ、師僧・対月の妹カツと相思相愛の仲になって結婚し啄木をもうけることはなかったし、熊吉が渡世人にならなければ、流れていった先で似たような境遇のユワと意気投合して結婚しきち女をもうけることもなかった。

啄木ときち女はこの世に生をうけたことだけでなく、薄幸のまま夭死しなければならなかったこともまた、煎じ詰めればその父たちの運命と大きくかかわっているのだった。一禎も熊吉も家族をおいて失踪事件を起こしているが、そのあたりを軸に因果を探ってみたい。

   ○

   ふるさとの寺の畔の
   ひばの木の
   いただきに来て啼きし閑古鳥!      啄木

 石川一禎は啄木が一歳のとき、小さな寺から渋民にある格上の寺、宝徳寺の住職におさまった。しかし、極端な言い方だが急逝した前住職の遺族を放逐させ窮地に追い込んだ上での赴任だったから、裏で反対派檀徒の恨みをかったのはいうまでもない。そのくすぶりが、のちのち石川一家を離散へと追い込む火の手のひとつになろうとは、このとき一禎は知るよしもない。

  啄木の幼年期・少年期は、この渋民村宝徳寺を中心にして育まれる。父母にはこの上なく大事にされ、寺を一歩出れば、岩手山が目に飛び込み、北上川も指呼の間、ゆたかな自然があった。啄木の短い人生でいちばん恵まれていた時代は、まさしくここにあったのだ。懐かしいはずである。晩年、

   今日もまた胸に痛みあり。
   死ぬならば、
   ふるさとに行きて死なむと思ふ。

と詠うほどに恋しがる。
しかしそのふるさとは、もう五年も前に喪失していたのだった。

 故郷喪失までの過程を少しさぐってみよう。
一禎が宝徳寺に赴任して十八年後、宗費の滞納が理由で一禎が曹洞宗宗務院から住職を罷免されてしまう。なんでも、中学を中退し文学での成功を夢をみて上京したり帰郷したりの息子(啄木)のために、宗費を流用してしまったらしい。
 寺を出た一家は、渋民、盛岡(途中から一禎は野辺地)と困窮した生活を送った後、再び渋民村に戻って、住み慣れた宝徳寺を目と鼻の先に借間暮らしを始める。

※一家が宗費滞納で宝徳寺を放逐されてからというもの啄木の懊悩ぶりはすざまじく、常軌を逸した行動が目立つ。友人たちがお膳立てしてくれた自分の結婚式をすっぽかしたり、著名な詩人に偽手紙を書いて金銭的な迷惑をかけたり、こんな行動もこの父の住職罷免のショックに関連付けられそうだ。

 やがて一禎が懲戒赦免となり、一家は宝徳寺再住にのぞみをかけるようになる。だが…、反対派の遺恨晴らさんばかりの迫害などもあり、村の空気に耐えられなくなった一禎は、師僧・対月(妻の兄、啄木の伯父)をたよってひとり家出をしてしまうのだ。このことによって啄木たちの宝徳寺再住運動は頓挫し、ややあって一家は離散、ついに故郷を永久に喪失することになる。啄木が数え二十二歳のときだった。

   石をもて追はるるごとく
   ふるさとを出でしかなしみ
   消ゆる時なし           啄木

 作家・水上勉は、「禅寺の子、啄木」というエッセイのなかで、こう書いている。

「渋民村宝徳寺は、啄木の短い生涯をつらぬく、精神の根となって鮮明だ。一所不住、随所作主の禅境は、むしろ啄木によって実現された。寺にしがみつこうとした父によって、啄木は漂白を与えられた。」                        (国文学増刊号 石川啄木の手帖 学灯社)

  父から漂白を与えられたといっても、啄木には禅僧のような覚悟はできていなかった。一禎は、息子だけは自分と同じ苦労はさせたくない、仏道ではなく好きな道を歩ませてやりたい、と啄木にはあえて後継の教育をしてこなかったのだ。つまり文学への野心だけを芯に北海道、東京を漂白した啄木には、最後まで禅境といえるような達成感や充足感などはなかったはずだ。 

 宝徳寺を放逐されて以来、一家を養う気力さえも失ってしまった父・一禎。かわって啄木が頼られる身となるが、漂白は彼を生活破綻者にし、いよいよ家族に多大な犠牲を強いるようになる。

 やがて啄木は当たり前の生活者になるべく東京朝日新聞社の校正係の仕事を得て、ようやく家族を一つ屋根の下に寄せる。だが、それも幸せとはいえなかった。貧困、嫁姑の確執に悩みそしてついには当時の死病・結核に侵されてしまうのだ。
では、一禎はといえば、ここでも耐えられず、こんどは北海道の娘夫婦をたよって、再び家出をしてしまう。

  病床の枕辺に来た幼い娘をみながら、啄木はこう詠う。

  その親にも、
    親の親にも似るなかれ――
  かく汝が父は思へるぞ、子よ。

しかし、啄木は父を恨んではいない。むしろ逆である。

  ただ一人の
  をとこの子なる我はかく育てり。
   父母も悲しかるらむ

     ○

それでは、一方の江口熊吉は、失踪によって娘のきち女にどのような影響を与えたのだろうか。


たましいの底の底なるうめきかも父につながる血のいきどほろし                                           
                               きち女

 上州の侠客といえば国定忠次がまずあげられるが、同じ江戸後期に活動し、関東一の大親分といわれた侠客・大前田英五郎も上州の出である。この英五郎の流れをくむ一派で、利根沼田の縄張りを分与されたのが川場の与五郎という親分。そして与五郎の跡目を継いだのが、やはり川場の金五郎。江口きちの父熊吉は、この金五郎親分の配下として末尾のほうに名を連ねている。

 熊吉が妻ユワを連れ金五郎親分をたよって川場に流れ着いたのは明治三十九年(啄木が故郷を喪失する前年)だという。二、三年間は親分(といっても、金五郎は堅気の仕事についていた)の家に身を寄せていたが、四十二年にきち女の兄・広寿がうまれて、その年のうちに同じ村の禅寺の一隅にあった元隠居屋へ引っ越している。きち女が生まれたのは、杉林を背にしたその小さな家だった。大正二年のことである。

 ちなみにその禅寺は臨済宗桂昌寺で、当時は、きち女終生の親友・であり、きち女の死後、貴重な資料『江口きち書簡集』を刊行した矢島けいの父親が住職をしていた。『江口きち書簡集』のなかにみつけたのだが、きち女がけい宛にこんなことを書いているくだりがある。

「お墓は静かだね。この間日が暮れてからしばらくお墓にしゃがんでいてしみじみと静かさを感じた。お墓は人間の最後の安住の地だね。お寺はいゝよ。まったく。あのお寺を離れる時はあなたはきっと泣くに違いない。お寺は私の幼い頃を育ててくれたんだもの。そして、私は終ひにはあのお寺へ帰ってゆくんだもの―。」

 昭和五年八月十九日に投函しているので、母のユワが急死してからまだ二ヵ月半しかたっていない。きち女の死の願望が、母の死を契機にしていることが、ここにもみてとれる。背後に父との確執、あるいはきち女の一方的な父への憎悪がてつだっていることもいなめない。

 江口熊吉が家出をしたのは、きち女がまだ赤ん坊のときだった。理由が理由だから、家出というよりは逃亡といったほうがふさわしいのかもしれない。なんでも金五郎一家の内部で暴力沙汰があり、沼田署が踏み込んだところ、一網打尽のはずが熊吉だけがすばしこく遁ズラして、そのまま川場から姿を消してしまったのだという。

  人目を避けてひょっこり家に戻ることもあったが、出て行くときはたいてい妻のユワに金を無心したという。またいっぽうで家に金をおきにきたという話もある。熊吉がすっかり足を洗って家に戻ったときには、十年の歳月が流れていた。
いずれにしてもこの間のユワの苦労は一通りではなかったはず。きち女の下にもう一人の娘たきが生まれ、女手ひとつで三人の子を養ってきたのである。長男の広寿が脳膜炎の後遺症で知恵遅れとなってしまったことも、苦労に追い討ちをかけた。さらに博打うちの妻、自分だけ逃げた卑怯者の妻、酒を飲ませるために男に媚を売る女などなど、好ましくないレッテルを貼りたがる人もいて、その蔑視にも耐えなければならなかったのだ。

  ただ一人の夫失へる女さへ容れざりし世にいきどほりわく

 これは回想歌のようだ。母を思って慟哭した日々が忘れられないのであろう。                               物心ついたときからそうした母の苦労を自分も傷つきながら傍らでじっと見守ってきたきち女である、元はといえばこれもそれもみんな父が悪い、と心底熊吉を憎みつづけるのも無理のないことだった。

  火の如くわが眼に燃ゆる憎しびはけはしかるらし父を刺しつつ   

  魂揺らぐ憤りはこれの骨肉の父に因るものぞあはれ骨肉の

 冒頭の歌もそうだが、この二首の歌だけでも、きち女を厭世家にしてしまった大きな原因がほかならぬ熊吉の生き方にあったということが感じ取れる。熊吉がつらい子供時代を過ごし国禁の博徒になってしまったのも運命なら、きち女が、その博徒、罪を犯し妻子をかえりみなかった男を父に持たなければならなかったのも運命である。その苦しみは、きち女の日々のいろんな感情にからんで生涯離れることはなかった。

 ここで、江口家に初めて女の子が誕生したときにもどってみよう。誰がどういう思いをこめて、<きち>という名前をつけたかをちょっと考えてみたくなった。母親のユワが、自分のような不幸な女になってもらいたくないので、縁起のよい<吉>をひらがなにして名づけた、という説がある。なるほどと思うと同時に、その吉の字は父親の名の一字であるということも意識しないではいられない。泉下のきち女に聞かれたら墓石がゆれるほど怒られそうだが――。 いまのところ熊吉が娘の誕生を喜ばなかったという記述には出合ってないので、なんでも自由に想像できるというものだ。目じりをさげた父親のイナイイナイバアやタカイタカイに、みどり児が無邪気に笑いはしゃぐ光景さえ浮かんでくる。

 しかし、たとえそんな風に父に可愛がられた赤ん坊だったとしても、哀しいかなきち女のほうに当時の記憶が残っているはずがない。

 その点、啄木は幼いときに父に存分に可愛がられた記憶があるので、何があっても父に心底の恨みを抱くことなどはなかったのではないだろうか。

  われ父の怒りをうけて聲たかく父を罵り泣ける日おもふ
                              啄木                         

 こういう歌からさえ、啄木の懐旧の思いが切なくもやわらかく伝わってくる。

それでは、きち女には、最後まで父を思う気持ちはまったくなかったのだろうか。『江口きち書簡集』のなかから、編著者・矢島けいの解説文を抜粋してみたい。答えが見つかるはずである。

「それはもう二十才ころにも成りました頃かしら、あるとき、うちで三人のおしゃべりが、親達のことになってきち女が、父親を憎む話をしますと、さくのさんがさからうように、『なぜそんなに肉身(ママ)の親を憎まなきゃなんないの?私の父親だって一向いいと云えるわけじゃないけど、親だもの、憎むなんて』こんなことを色々云いましたら、きち女は、怒ったようにまた辛そうに『肉身(ママ)が肉身を憎む気持ちなんて、さくのさんになんか解んないさ』、と云ってました。それから何年かを過ぎた十三年、母の碑に刻む字を私の父に頼みに来ましたとか、父はきち女を知ってますから何も云わなかったそうでした。私の母はそれではすまされない性質できち女に頼むように云って父親を一緒に刻んで置くことをすゝめたそうでしたが、つい聞き入れませんで出ていきましたとか、すると戻ってきまして、『ぢゃあ小母さん矢張り頼むよ』、そういったそうです。これは母が私に話した事です。この頃は大分父を思う心が見えてましたが、それを自分でみとめたくはなかったのでしょう。」

 矢島けいは「この頃は大分父を思う心が見えてましたが」といっている。文中の十三年は、きち女が兄広寿を道連れに自殺した年で、昭和十三年。 同じ年でも、死の二週間ほど前に東京で働く妹のたきに宛てたきち女の手紙の文面になると、それはいっそうあきらかである。

「間に合はないと思ふが、神田かに、古着屋がたいへんあるさうだねえ、そこでもどこでも父の外たうを一枚買って送つてくれないか、むろん安いのでいゝのだから、なるべく丈夫さうなのを探して、新しいのはとても今年は高いし、買えないから。こんな買い物はいやだらうけれど、お願ひする。袖が筒袖になってゐるのをね、オーバーでは着物の上だから、窮屈で駄目なのだ。」
          『塔影詩社蔵 江口きち資料集成』島本融編より




[付記]
※矢島けいの文中のさくのさんというのは、きち女の同級生・林さくののことで、彼女もきち女からもらった手紙をいくつか残している。二人の間に生じた齟齬を、きち女が一方的に躍起となっている様子が肉声のように伝わってきて、きち女の性格の一端を知るよすがになる。

※群馬出身の著名な歌人・土屋文明もきち女と似たような苦しみを味
わった一人だ。文明の場合は父ではなく祖父が博徒だった。それも最後には群盗の一味となって捕まり、牢死しているという。文明が生まれるまえのことではあったが、少年時代に事実を知って衝撃をうけ、「村人に逢うのも恐ろしく」「土にももぐりたい心持」が数年も続いたという。また、文明は父の事業の失敗で、啄木と同じように故郷の家を失っている。その悲しみは、後年の歌にもみえる。

 ひたすらに父はかなしき売りし家に携へかへる夢しばしばにして      

 父の代よりいりくめる金のいきさつに帰る日なけむあはれ故さと  

だが、彼は啄木やきち女とちがって、薄命ではなかった。啄木が生まれた四年後に生まれ、きち女の生きた時代を通り越し、平成になってなんと百歳で没している。晩年、世に貢献した文学者として文化勲章も受賞した。自己実現の夢をかなえ、天寿を全うすることができた土屋文明、彼はどのようにして運命を切り開いていったのだろうか?

※矢島けいの解説文のなかに、肉身という語がでてくる。はじめ、肉親の書き間違いではないかと思って、『江口きち書簡集』の正誤表をみてみたが、触れてはいなかった。ところが驚いたことにたまたま手にとって何気なく読み始めた啄木の小説『刑余の叔父』にこの字が出てきたのである。

  母の肉身の弟ではあったが、

 と。そしてそれには「しんみ」とルビがふってあった。
 ついでながら、この小説の主人公・母の肉身の弟は、

  酒の次には博奕が所好で、血腥い噂に其名の出ぬ事はない。

 という人物。


◎次は、きち女の愛した沼田を、啄木の盛岡時代にも少しふれながら書きたいと思っています。

この記事をはてなブックマークに追加

母の肖像  ②啄木の母カツ

2011-01-01 20:12:05 | Weblog



  あたたかき飯を子に盛り古飯に湯をかけたまふ母の白髪       啄木


  啄木の母カツの写真は一点も公開されていない。

 カツは啄木二十七年の生涯に多大な影響与えた女性で、啄木の二大親友の一人、金田一京助などは、煎じ詰めたところをこういいきっている。

「あの啄木を生んだのももちろんおかあさんですが、また、その啄木を生涯浮かび上がることのできない貧困に踏み落としたのも、やはりそのおかあさんだったのです。中略。ああいう苦労をしたからこそ、あれだけの、今日日本の隅々に至るまで多くの人々が多大の感銘を持って読む、あの体験、あの傑作を残せたので、したがって、それらをつくったのもそのおかあさんなのです」

 啄木はもちろんのこと父や姉・妹の写真が公開されているだけに、肝心な母の写真が1点も無いというのは、さびしくものたりないことだ。それゆえ、妹光子が『悲しき兄 啄木』のなかで書いている次のくだりは、見過ごせない。

「自分で写真機を工夫して、一生懸命に造りあげ、それで母と私を写してくれたことがあります。私が多分十二歳ぐらゐの時ではなかつたかと思ひます。あの写真こそどうなりましたでせう。勿論完全な写真ではなく、ぼんやりしたものでしたが、母の面影を偲ぶにはこよないものでしたし、兄の手で工夫された機械でとつたものですのに」

 啄木は光子より二つ年上だから、彼が十四、五のころの話だ。岩手の盛岡中学在学中で、休暇で渋民村に帰省していたときらしい。その写真が存在すれば、私たちは五十代半ばの啄木の母の顔を知ることになる。

 しかし、カメラがまだまだ一般の人には珍しかった明治三十年代に、しかもそんな年端の少年に、いったいどれほどの光学器械が手造りできたのだろうか。盛岡の石川啄木記念館の方にたずねてみると、形も仕組みもどんなものであったか、まったくが見当かつないという。

 ちなみに、その明治三十年代に、群馬の前橋にもカメラに興味を持った、啄木と同い年の少年がいた。その名は、後に啄木の影響も受けたといわれる、大詩人、萩原朔太郎。彼の持っていたカメラは市販のもので、「軽便写真器」といわれたものらしい。アマチュア向けとはいえ、ガラス乾板を使用する本格的なものだった。最初の作品といわれる「萩原病院病室新築工事」など、画面の六分の一ほどに小さくおさまった複数の人物の表情までがかなり判別できる。

 啄木が手造りのカメラで撮ったという写真は、もとよりそれと比較にはならないが、 もしいま発見されたとして、果たしてそこにカツと判別できる影が残っているかどうか。江口きちの母娘の写真よりさらに20年以上も遡るのだ。もともと不完全でぼんやりしていた写真だというから、いよいよあやしくなってくる。

 それでも啄木の研究家やファンの多くが、いつかどこからかその現物が発見されないだろうか、と垂涎しつづけている。それは、どこか幻のツチノコ探しに似ているような気がしないでもない。見たという人が一人でもいるかぎり、人々の夢はついえないのだ。啄木の妹光子が書き残した一言が、はからずも啄木を愛する人々にひとつのロマンを与えつづけている。

 では、カツの顔をイメージしようとするとき、基準になる写真がないかといえば、否である。
カツと啄木の親子は、顔がよく似ていたと証言する啄木の友人がいるのだ。また写真を並べて見ればわかるが、啄木の長女京子はどこか父親似である。つまり、カツの孫娘も彼女に似ているということになる。
啄木と京子をたして二で割ったような顔を、カツの時々の年齢相応にイメージすれば、当らずと雖も遠からず、というところではないだろうか。

岩城之徳の『石川啄木伝』のなかに、

「啄木の母は若いときは温和な性質で綺麗な女性であった」

という伝聞が記述されている。啄木の妻との確執などから、どちらかといえば気が強くて意地悪な老女とイメージされがちなカツをおもうと、この一行は爽快だ。生前の啄木が読んだら、どんなにか喜んだことだろう。彼はカツ四十歳のときの子で母の若いときの顔を知らない。東京で電車に乗り合わせた見知らぬ若い母親の顔を見てさえ、こんな夢想をするほどだ。

「その顔の形が、予の老いたる母の若かった頃は多分こんなだったろうと思われるほど鼻、頬、眼………顔一体が似ていた」
                             『ローマ字日記』より


付記
カツの生まれたのは弘化四年(1847)。その翌年に御用商人が銀板写真機を輸入している。日本人が写した初めての日本人とされる島津斉彬の写真が登場するのは、それからだいぶ経ってからのことである。ちなみに、カツの生まれた前年には皇女和宮が生まれている。カツは、ついには最後の賊軍とまでいわれた南部藩の下級武士の娘として、人生の最初の三分の一を幕末に生きた人だった。



次回の予定は、啄木ときち女の歌碑についてです。


この記事をはてなブックマークに追加

母の肖像  ①きち女の母ユワ

2011-01-01 19:49:18 | Weblog

  いとまなき身をもかこたずわがためにひな飾りする母なりしかな    きち女                               

 江口きち女の母ユワの写真は、知るかぎりでは二点が公開されている。 
 
 どちらも娘二人といっしょだが、初めてこのユワと対面したとき、わが目を疑った。
彼女の両脇にいるきち女とたき子が今の小学生の幼さなのに比して、その親というに
はあまりにも老け過ぎて見えたからだ。撮影時は「大正十二年?」と「大正十四年頃」
とあるので、明治十三(1879)年生れのユワは、実際にはまだ四十代の半ばだっ
た。昔の人は今の同い年よりずっと老けて見えたとはよく聞くところだが、それにし
てもである。

 もし、何の知識も持たずにいきなり見せられたら、正直、二点とも「祖母と孫娘」
の記念写真と勘違いしてもおかしくはない。

 そのころのきち女の家は、博徒間の事件にかかわって長いこと逃亡状態だった父熊
吉がもう戻っていて、家族全員がそろった五人暮らしだった。しかし、熊吉は定職を
持たず、また、きち女より5歳近く年上の廣寿は知的障害があって、男二人は二人な
がらあまりたよりにはならない存在。一家を養う中心は、あいかわらずユワの
細腕だったのである。それにしてもである、写真のユワの顔はその苦労を物語って余
りある―。

 ユワの顔を見るたびに、「それにしても」は、つきまとう。

 だが、あるとき写真が専門の学芸員Mさんの話をきいて得心がいった。Mさんによ
ると、当時の写真の感光材料には不完全なものが多く、肉眼の印象を今ほどうまく再
現できなかった。また古い写真は変退色していることが多く、ハーフトーンで表現さ
れていた部分が間引かれてコントラストの強い画像に変化していがちだ。さらにオリジナルであるか複写であるかによっても、感じが違ってくる。このユワの場合も、これらのマイナス要素が生活のやつれをてつだって、過度に老けて見えるのではないだろうか、という。

 いわれて引き算をしながらユワの顔をあらためて見ると、たしかに若返る。かなり若がえる。

 そうか、きち女の母について触れている資料からその時々の彼女の顔をイメージしたかったら、この2点の写真の顔を足し算引き算してみればいいのだ。  

 ユワは人生の後半分、約四半世紀を川場で過ごしている。明治三十九(一九〇五)年に熊吉と一緒に金五郎親分を頼って川場に流れ着いた頃のユワは、まだ二十五、六。
この頃の顔は、もちろんグンと引き算をする。そして、朝食の支度中に脳卒中で倒れて不帰の人となったのは、五十一というから、その顔は、最初老け過ぎて見えた写真そのままにちかいのかもしれない。こうしてどうイメージしようとも、本人の顔からひどくかけ離れて別人のようになるということはまずないだろう。
 
 きち女は次のようなことを日記に書いている。

「母もかなしく、子もかなしく、私は早くから母の嘆きを知り、母もまた我が子の心 に哀傷のひそむことを見逃さなかった」

 Mさんの話を聞くまでは、私はこれを2点の写真のキャプションにしてもいいような文章だと思っていた。なぜなら、ユワが老け過ぎているのと同時に、きち女の表情がやけに暗いからだ。

 この表情の暗さは、感光材料や変退色とは無関係だ。しかし考えてみれば、どうみても母の嘆きを知って哀傷をひそませるには、少女はまだ幼すぎる。慣れないカメラの前で緊張していた、そんな見方が妥当かもしれない。

「おユワ さんは、私に身近なおばさんのようでなつかしい人でした」
「いいおかあさんだとおもいます」

 これは、きち女への厚い友情から『江口きち書簡集』というたいへん貴重な編著を遺した矢島けいのことばだが、彼女はこんなこともいっている。

「おユワさん、この人の、一番印象に残ってます姿は、炉端で独りあぐらをかいて、お 酒を飲みながら私達を優しくほゝ笑みながらみてたことです。花を作ることが大好きで朝顔は毎年でした」

  不幸一色に思われがちなユワの一生にも、ささやかながら幸せな時間があったことがうかがえる。そうして写真にもどれば、彼女はたしかに微笑んでいるのだ。 愛娘二人を両脇に、当時の山村ではまだ特別なことだった写真撮影をしてもらうのだ、ユワにとって、これもまた幸せなひと時であったにちがいない。

付記
この二枚の写真が撮られたころ、正確に言えば大正十三年夏、若山牧水が『みなかみ紀行』の初版を刊行。そのなかに、大正十一年の秋、上州・沼田に一泊したあと、次の宿・老神温泉をめざして片品川(利根川水系)沿いを歩いて遡っていったことが書かれている。
若山牧水といえば、啄木の最期をみとった唯ひとりの友人であり、また後世の研究家に天才として啄木とならび称されることもある歌人。その牧水が、後に女啄木といわれる少女が住む村・川場のすぐ隣の村をてくてく歩いて通過していったのだ。
(もっと時間をずらせば、きち女は沼田とかかわりが深いので、牧水の通った同じ道の上を何度となく行き来したに違いない)
ちなみに、牧水は自分が選んで歩いた旧道の眺めに酔い、片品渓谷のあたりでも、いくつかの歌を残している。
  
 路かよふ崖のさなかをわが行きてはろけき空を見ればかなしも

 岩陰の青渦がうへにうかびゐて色あざやけき落葉もみぢ葉


※次回は、啄木の母の写真についてです。


この記事をはてなブックマークに追加

啄木の妹 きち女の妹

2010-11-22 06:07:57 | Weblog

  船に酔ひてやさしくなれる
  いもうとの眼見ゆ
  津軽の海を思へば       
啄木

  白き花のきよらにもろく散りぬべきいのちをもちて妹や生れけむ                                                           
                            きち女

 啄木は姉・姉・妹のいる四人きょうだい、きち女は兄・妹のいる三人きょうだい。どちらにもいたのが、妹だった。

 その妹たちの娘時代の鮮明な写真が公開されているが、ふたりとも愛らしい感じのするなかなかの美形である。そしてその表情にそれぞれの性格がよく現れている。

  啄木と二つ違いの妹光子は、幼い頃からよく喧嘩をするきょうだいだったようだ。光子は後年、手記のなかでこんな風にいっている。

 兄も私も負けず嫌いです。だから私が負けてさえ居れば兄の御機嫌はいいのですが、少しでも勝たうものなら忽ちふくれ上がり、二人の間は母に止められるまで喧嘩になつていきました。
  そして私がいつも女で年下なのだからと母に叱られるのです。いかにも損な話でした。或時などは兄が例の大きなゐろりの火を火箸で飛ばし、私は焼どをして泣き出したのですが、母はそれさへも 「そんな小さな火が飛んだつてあつい筈がない」と私を叱りました。 ――此の時は父が見かねて 「どんな小さな火でも火はあついものだ。一が悪い」と兄のほうがかなりひどく叱られましたが、
後略。
       三浦光子著『悲しき兄啄木』

 悪戯が過ぎて兄が父に叱られるのを、光子は「いい気味」と思ったこともあるという。

 親身の妹がそんなに思ふくらゐですから日頃どのくらゐ私がいぢめられてゐたかわかるでせう。正直のところ私は偉張りちらす兄が嫌いでした。

 啄木は啄木で、『ローマ字日記』にこんなことを書いている。

 性格のあまり近いためでがなあろう。予と妹は小さい時から仲が悪かった。おそらくこの二人くらい仲の悪い兄弟はどこにもあるまい。                     

 しかし、啄木と光子の言葉をそのまま鵜呑みにはできない。両親に溺愛され気侭放題にふるまう兄とそれに負けん気で反発する妹。だからといって二人がいうほど仲の悪い兄妹だったとはとても思えないのだ。
 明治四十年五月、「石をもて追はるるごとく」渋民村を出た啄木は北海道へ渡るのだが、まず一緒に連れて行ったのは、妻子でもなく、母でもなく、小樽の姉夫婦を頼っていく妹の光子だった。冒頭の歌はそのときの回想である。

 流離の中で離散集合を繰り返す啄木一家だったが、光子はやがてキリスト教の伝道師を目指すようになり、独立していく。
 ここで、再び啄木の『ローマ字日記』をのぞいてみよう。北海道から東京に出てきて一年がたった頃で、明治四十二年四月。前の月から校正係として朝日新聞に勤めだしてはいたが、係累がなくて稼いだ金を自由に使える人たちをうらやんでいたりする。そんなところへ、旭川に行った光子から長い手紙が来る。啄木は、その文を日記に書き写し、それに応えるように自分の気持ちも綿々とつづっている。

 <光子の手紙から>
 ただ ふるさとなる渋民を思い出します。
 
 兄さまに言いつけられて あの山道の方など スミレをさがしに歩きました当時のことを追懐いたします。

 もう一度兄さまに しかられてみたくって!しかし もうおよびません!

 <啄木の日記から>
 現在の予に 心ゆくばかり味わって読む手紙は 妹のそればかりだ。母の手紙 節子の手紙 それらはあまりに悲しい あまりにつらい。

  津軽の海は荒れた。そのとき予は 船によって青くなっている妹に 精心丹などを飲まして 介抱してやった。――ああ! 予がたったひとりの妹に対して 兄らしいことをしたのは おそらく そのときだけなのだ!

  予とともに渋民を忘れえぬものは どこにあるか! 広い世界に 光子ひとりだ!

  離れてみて、自分たちがいかにかけがえのない兄妹であるかがわかった啄木と光子。たしかに二人は勝気という性格が似ていてよく喧嘩した、それでお互いに自分たちは仲が悪いと思い込んでいただけなのだ。

 啄木は 歌集『一握の砂』をだしたとき、本の扉に

  愛する妹へ、著者より

と書いておくっている。そのなかに、こんな歌も載っている。

  朝はやく
  婚期を過ぎし妹の
  恋文めける文を読めりけり
  

  わかれをれば妹いとしも
  赤き緒の
  下駄など欲しとわめく子なりし

 冒頭の「船に酔ひてやさしくなれる―」も同歌集所収。  
  

 それでは、きち女の妹たき子の性格は、どんなだったのだろうか。矢島けいの性格描写がわかりやすい。

  たきさん! 妹と云う名にもふさわしい容姿、人柄といえると思います。小さい頃からひっそりと姉に付き添っていた。そんな感じで平和な性質でした。世間のごみを拾うこともなく、何事の不平を云わずまた理屈も、すべて素直に受け止め、いやな事は黙って捨ててゆく。どんな場合にも苦労を、苦労とせず、静かに生きてゆくひとでした。
                
 矢島けい編著『江口きち書簡集』

 これだけでたき子が、どちらかといえば癇癪もちだった姉のきち女とは対照的な性格だということがわかる。
 きち女はこの妹が可愛くてたまらなかったようだ。 『江口きち書簡集』を開くと真っ先に<妹>と題した次の二首が出てくる。

  妹の綴方帖ぬすみ見て瞳の澄みしわけをさとりぬ

  妹にわが願ふのは只一つ無邪気であれとこそ思うのみ

  昭和四年頃、「私の拙い歌をお目にかけます」と、他の歌とともに矢島けいに手紙で披露したもの。まだ、河井酔茗・島本久恵夫妻が主宰する「女性時代」の誌友にはなっていない。母ユワはまだ健在だった。

  ユワが急逝したのは昭和五年六月で、きち女が満で十六、たき子は十三だった。父と兄がいたが、どちらも頼りにならない。きち女はこの年の二月から勤め始めたばかりの沼田郵便局を辞めて母がやっていた食堂・栃木屋を継ぎ、一家の生計を支えることになる。姉妹の本当の苦労の始まりである。

  あくる年、たき子は川場村尋常高等小学校高等科を卒業するが、秋にはもう七年の年季で東京の美容院で働くため川場を離れるのだった。まだどちらも十代半ばの仲良し姉妹、どんなにかつらい別れをしたことだろう。妹を送り出したあと、きち女はこう詠う。

  こまごまとこゝろつかひて出しやりし妹の行きて氣弱くなれる

  磁石でいえばこのきち女とたき子の姉妹は異極同士、喧嘩などあまりしなかったのではないだろうか。啄木と光子の兄妹が同極同士で喧嘩をよくしたのとは反対に。それほど姉に従順だったたき子が、反抗し絶対に譲らなかったことがある。これも『江口きち書簡集』の矢島けいの解説に詳しい。

  私に一番印象に残ったことでは、十三年の春、きち女が親達の墓碑を建て開眼供養とたきさんの年期明けの祝を行いました。その帰郷より東京にもどると、さっそく私を訪ねてきました。私の前に座るなり、「けいちゃん、姉さんは、死ぬって云うの、なぜ死ななきゃならないの?……どんなに苦労があったって、死ななくてもいゝじゃない……あたしにもね一緒にゆくんなら、ゆこうよ、と云ったけど、あたしいやだと、云ったの、だってあたしは死にたくないもの、どんなに苦労したって、石にかぢりついても、生きてたい」。こんなことを涙ながらに訴えていました。

  昭和十三年は、きち女が知的障害のある兄を道連れに自殺した年。その自殺のわずか七ヶ月ばかり前の話である。このころ矢島けいは東京で生活していて、ふだんからたき子がよく訪ねていたという。

  さて、啄木の死後そしてきち女の死後、妹たちはどのような人生を歩んだのだろうか。

  啄木の妹・光子は禅寺の子に生まれながらキリスト教徒となり、啄木に
  
    クリストを人なりといへば、
      妹の眼がかなしくも、
       われをあはれむ。

  などと詠われたが、昭和四十三年七十九歳でなくなるまで変節なく一筋の道を貫いている。しかし、その道はけして平坦ではなかった。それは家庭的にもいえて、たとえば、結婚をし男女二人の子供をさずかるも娘に死なれたり、反戦運動で夫が投獄されたり、と。昭和二十年以降は神戸で不良少女更生施設の指導員となり、やがて館長となって恵まれない少女たちの面倒を見ている。その功績が認められ、生前に厚生大臣賞を受賞、没後には勲六等瑞宝章を授与されている。
 光子は、啄木の三倍も生きた。そのためどんどん伝説化していく啄木像をいやでも知ることになる。実の妹としてこれを憂え、兄を実像に近づけるべくペンをとらずにはいられなかった光子。彼女の手記『悲しき兄啄木』『兄啄木の思い出』の二書は、一部の啄木関係者やファンたちに批判された個所もあるが、啄木と家族、特に光子との関係を知る上でこの上ない資料となっている。 

 きち女の妹・たき子が、姉の死後この世にいた歳月は七年に満たない。
 昭和十七年に父・熊吉の最期を手厚く看取ったあと、かねてから婚約していた赤沢保平と結婚。翌年、開拓団員として満州に渡る。この年、長男満州男(河井酔茗が命名)が生まれ、戦時下ながら幸せな家庭がいとなまれていた。しかし、昭和二十年夫保平が召集され、なんとなんと終戦の前日、八月十四日に戦死してしまうのだ。悪夢はつづく。十月には、今度はかわいい盛りの息子・満州男がチフスで死んでしまう。十一月に、二男保夫が生まれるが、この子は生まれたその日に死亡。
 家族をみんな失ってひとりになってしまったたき子は、二十一年の三月、帰国希望者としてハルピンの収容所へ向かう。半月後なんとか目的地にたどりつき仕事もするが、衰弱が激しく病臥。八月二十七日、帰国の夢がかなわぬままついに収容所で息をひきとってしまうのである。享年二十九。 わずか一年の間に家族全員が死んでしまうとは…。

 きち女が昭和十三年(死の年)に、<妹に>という題で、いくつかの歌を詠んでいるが、その中に、こんな一首がある。  

 受けつぎし流離の血かもふるさとへかへるなかれと云ひし餞け

 いかに姉に従順な妹だったとはいえ、こんなかたちで異郷に果て、姉の悲しい餞けの言葉を現実のものにするとは、誰が想像できただろう。しかし、冒頭のきち女の歌をもう一度読んでみてほしい。きち女が、まるで妹の命のはかなさを知っている預言者のように思えてこないだろうか?
 預言といえば…。たき子の一家が全滅したということは、父母からはじまる江口家の血がこれで完全に絶えてしまったということだが、そのことも、きち女が死の年にたき子にいっている次のことと、どこか符合する。

 父祖の血を絶すといふことは、思い當たる、むかしから私は、何かにつけ、この暗示を知っていたと思ふ、生み次ぐべき者が、第一こんな姉と妹だけぢや、絶えるのがあたり前のことだもの、だが、そんな血へなぞの執着や責任感なぞは、私には一抹の水泡ほどもない、おのづからたゆるものは、絶えた方がいゝ、それに、自分の、尋常に生きられぬ生命が、又子等に受けつがれ、運命的な暗さがあたらしく、くりかへされるであろうことを思へば、空怖ろしい氣がする、何者へかの畏れを感ずる。
         
島本融編 『江口きち資料集成』 妹宛て書簡            

 たき子が光子のように長生きをしていたら、彼女もまた文才があったので実妹しか知らない江口きちの思い出をあれこれと書き残してくれたことだろう。

 最後に、きち女が夢でみた妹の死 の歌二首。いかに妹を愛していたかがわかる。

  夢にわが妹死にぬ妹こそ唯一なるわが珠なりしかな

  夢にかもわれをたよりて死にゆきし妹愛しその浄らかさ




次回は、「きち女と雀」を予定しております。


この記事をはてなブックマークに追加

江口きちと沼田

2009-04-16 07:28:29 | Weblog

   この道や少女のころを町に出づとあくがれひそめ通り慣れにし
                              
  きち女       

 きち女は、川場と隣接している町、沼田にはやくから憧れを抱いていた。いま歩いている道が沼田に通じている、ただそれだけで胸がときめくほどに…。

 きち女の一生はわずか二十五年と九日、そのほとんどを川場村で暮らしているが、十代に二度ほど親元を離れたことがある。二度とも沼田の町で、一度目は和裁技術習得のために川場小学校尋常高等科卒業年の秋から七、八ヶ月間、二度目は沼田郵便局勤務で昭和五年六月に母ユワが急逝するまでの三、四ヶ月間、あわせて一年そこそこの期間だった。

 母の死によって沼田で暮らしつづける夢は切断されてしまったが、その後も、バスに乗ったり、歩いたりして、よく沼田の町へ出かけている。次は、<沼田往来>と題されたきち女の歌。

   つばらかに雪かゝりゐる落葉松の林を透きて空の真青さ

   朝陽光照りつゝいまだ雪かゝる雑木のなかをゆくがすがしき

 親友、矢島けいも『江口きち書簡集』の解説の中で、こんな風に思い出を語る。

 町へも幾度、きち女と出かけましたことか楽しかった思いだけが残ってます。乗り物ぎらいな私に片道の歩きをつき合ってくれて、この日も行きを生品通りの静かなほうを選びました。三四十分もする頃生品の部落に出ますが、ある家の樫ぐねの葉を一枚とって、ピーと吹いて、「○○さんとても葉笛がうまいのよ。」と云ってしばらく局員たちの話をしていました。局をやめて三ヶ月だったので、楽しく希望のあったことなぞ昨日の日のように、思いおこされていたのでしょう。

  生品はまだ川場の村うちだが、ここまで来ればもうすぐ沼田。十六、七の娘が二人、おしゃべりや道草をしながらだけれども、自宅のある谷地から歩きでおよそどれほどの時間をかけて町に出てきたかがわかる。

 とにかく、きち女は最後まで沼田が好きだった。昭和十三年、自殺の一ヶ月半前の日記に、こんなことを書き残している。

  十月十九日
 一番のバスでつーやん発つ、沼田まで送り、十二時の汽車までの時間、しばらくぶり沼田公園へ行って見る。丘の上の町、山の町、城址の町、沼田はロマンチックな町だ。
後略  

 沼田は赤城山、谷川岳、武尊山などの名だたる山を遠景に高低・形状さまざまな山に囲まれた盆地で、町の中心部は河岸段丘上の台地にある。きち女が久しぶりにいったという沼田公園は、城址公園。五層の天守閣が増築され関東の八名城のひとつとまでいわれた沼田城だが、五代将軍綱吉の時代に改易で破却されてしまい(その後も城らしきものは建てられたが、市民が復元を夢見る沼田城はこの城)遺構は少ない。が、歩けば戦国の世からの沼田城をめぐる幾多の物語が想像をかきたて、きち女ならずともロマンチックな気分にひたれる。
  約七十メートルの断崖絶壁の端までいくと、絶景が広がる。きち女もここに佇んで、右手に浮かぶ秀峰わが武尊山や、眼下を利根川へと流れるわが薄根川をしみじみ眺めたにちがいない。
 その薄根川をさかのぼった先の川場にも狭小だが城址があって、その昔、天神城という小城があった。沼田城を築いた沼田氏(万鬼斎)が、正室の子朝憲に沼田城を譲り、側室とその間にできた息子平八郎をともなって隠居した城である。やがて側室とその兄が、平八郎を沼田城主にと万鬼斎をそそのかし、そこからお家騒動が勃発、朝憲も万鬼斎もそしてついには平八郎も命を落とすところとなり、沼田家そのものが滅びてしまう。
 要衝要害の地にあった沼田城は武将たちのあいだで争奪が繰り返えされ、幾たびも主を替えている。悪政で改易になるまで百年つづいた眞田氏が一番長い。

 その点、沼田城とは対照的なのが、 やはり戦国時代に東北の南部氏が築いた盛岡(不来方)城。南部氏に世襲され続け、取り壊されたのも明治になってからで、沼田城より約二百年もあとである。啄木が盛岡中学時代にひとり教室を飛び出して寝転んだのは、この盛岡城の址だった。

  不来方のお城の草に寝ころびて
  空に吸はれし
  十五の心 
            啄木

 さて、今度はきち女がよく人を見送った沼田駅について。沼田は河岸段丘なので、坂が多い。駅舎は坂を下りきったところにある。再びきち女の日記を開いてみよう。日付が少し前になるが、同じ十三年、帰郷していた妹のたきが東京へ戻っていく日のことである。

  八月三十一日 曇 午後雨
 十日間の休暇瞬く間に過ぎて今日たき帰京す。雨が降り出したので予定はずれ、着のみ着のまゝ一緒にバスに乗り送ってやる。局前で駅行きのバスにまごつき、人のハイヤーに乗せて貰って駆けつけると、切符を買う間ももどかしく汽車がすべりこみ、からうじて三時二十三分に間に合ふ。荷物を入れてやって降りる時にはすでに徐行をはじめてゐた。
後略

 読み落としていなければ、これ以後、きち女の日記には、たきについては受信・来信記録があるだけで、二人が直接会ったという記述はない。苦労をわかちあった仲のよい姉妹の、これが生きて最後の別れの場だったのかもしれない。

 この別れから三ヶ月後に、きち女は知的障害のある兄の広寿を道連れに服毒自殺を決行する。

  沼田城の形見のひとつに城鐘がある。県の文化財となったために現在はレプリカが使われているが、きち女のころは鋳造三百数十年前の本物の城鐘が時を告げていた。彼女は川場で毎日その鐘の音を親しくきいていて、いくつか歌に詠んでいる。

  城下町の鐘撞堂の時刻の鐘冬空を三里流れ来にけり

  谷づたひ空は直路か空渡り遥かに町の鐘聴え来る

    武尊根のふところ高み町の鐘きこえ来るかも夕の静寂に
                              
その鐘の音は、きち女の死後も朝な夕な武尊の麓の黄泉にまで余韻嫋嫋と染み透っていったことだろう。

[付記]

※沼田城址公園の入り口に立派な胸像がある。大正五年、荒れて切り売りされはじめていた城地を私財で購入、公園に整備してから沼田に寄付した旧沼田藩士の子・久米民之助の功績を顕彰している。
この久米民之助、工学博士で皇居の二重橋を設計した人でもある。

◎次回は啄木ときち女の自殺願望を予定しています。


この記事をはてなブックマークに追加

はじめに

2008-11-26 20:54:44 | Weblog
 このブログタイトルから、きち女とは、啄木をめぐる女性の一人なのだろうか、と思われた向きがあるかもしれません。それで、最初にお断りしておきますが、きち女は啄木とは直接には何の繋がりもない無関係の女性です。生きた時代からして、少しずれていました。きち女が生まれたのは大正二年(一九一三)十一月。啄木はその一年七ヶ月前、明治四十五年(一九一二)四月にすでにこの世を去っています。

 その無関係な二人を、私はこれから並べて書こうとしています。きっかけとなったのは、きち女はなぜ女啄木といわれたのだろうか、というちょっとした疑問でした。 私は、自分が住む町・沼田に隣接する村・川場に、かつて江口きちという歌人がいたくらいのことは知っていましたが、彼女が死後「女啄木」といわれたとは、最近まで知りませんでした。 最初はその疑問を解きたくて、軽い気持ちできち女および啄木の世界を覗いてみたのです。

  きち女の自死からおよそ五ヵ月後の昭和十四年四月、遺歌集『武尊の麓』(日記・随筆なども含む)が出版されましたが、彼女の師河井酔茗はその序でこう書いています。
 きち女は日々夜々の生活感情を悉く歌にしてしまってゐる。その点は啄木にも 似通ってゐる
 どうやら女啄木の由来の本源はこのあたりにありそうな気がします。
 きち女の『武尊の麓』が出たとき、啄木が世を去ってすでに二十数年も経っていましたが、彼の人気は衰えを知りませんでした。ある伝記作家は
 少なくとも、文芸または人生に関心を持つ人々にとつて、啄木の歌を愛誦しないものはないであろう
といっています。これだけでも、当時『武尊の麓』を手に取った大方のひとが、酔茗の「啄木にも似通っている」という言葉に敏感に反応しただろうということが容易に想像できるというものです。
 そうして、未知の歌人江口きちの作品や日記を読んでみれば、薄幸の生涯、夭折というところまで、啄木と似ているのです。きち女は、『武尊の麓』を愛読し彼女の死を哀惜してやまない読者によって、自然発生的に女啄木という愛称を冠せられたのではないだろうか…、というのが私の勝手な推測です。

  女啄木の由来については、自分ではこれ以上詮索するつもりはありません。 しかしほんの入り口をのぞいただけなのに、私はいつの間にか、きち女にも啄木にも引き返せないほどの興味を持つようになっていたのでした。きち女の世界も啄木の世界(啄木歌集は愛読しました)もあまりよく知らなかったことが、同時の好奇心へと繋がったのだと思います。

  さて、並行して二人に関連したものを読むのですが、江口きちに関するものは非常に少なく、石川啄木のほうのそれは逆に膨大です。前者に関するものは、入手できるものはなんでも、後者に関するものは特に興味のあるものだけを選択して、一時期は、暇さえあれば読みふけりました。 そうしているうちに面白いことに気がついたのです。 二人は直接には無関係だけれど、後にきち女の師となる河井酔茗と石川啄木が直接出会っていたり、強引に考えれば一縷のつながりはないこともない。それに、共通のテーマで語れるものがいくつもある。

  こんなことをいえば、さっそく同日の論ではないと一笑を買いそうです。啄木は日本短歌史に、いやもっと広く日本文学史に大きな足跡をのこした近代が生んだ天才。海外でも研究者やファンが多いといいます。江口きち女のほうは、群馬県外ではまだそれほど知られていない郷土の歌人。 二人の文学そのものを素養の乏しい私が比較しようとするのであれば、それはたしかに無謀な行為でありましょう。私が書こうとするのは、もっと気楽なものです。肉親、友人、山、川、寺、東京、そのほかなんでも、共通のテーマとなりうるものが見つかれば、そこで道草をするように気ままに書いていきたいと思っています。                                    

                         武尊山の見える窓辺にて 

 ○付記
〔河井酔茗〕詩人。大阪府出身。文庫派の代表詩人。作風は平明温雅。のち口語詩、自由詩に転じ、近代散文詩の先駆となる。詩集「無弦弓」「塔影」「霧」明治七年~昭和四〇年(一八七四~一九六五)                      『日本国語大辞典』(小学館)より1937年、芸術員会員。享年90。 ※酔茗だけでなく彼の妻で作家の島本久恵も、きち女の師。

この記事をはてなブックマークに追加