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なぜマドラ島で「愛国行進曲」が歌い継がれていたのか。

2017年06月15日 | 日記
https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34769704.html



350年間もオランダに支配されていたインドネシアは、何度も抵抗してきたが叩き潰されてきた。

しかし、大東亜戦争で「日の丸」や「旭日旗」を掲げる日本軍がやって来るとオランダ軍を1週間で追い出した。インドネシアでは大喝采と感動の渦となった。



この時、インドネシアのマドラ島のラデン・アブドル・カムリは、日本軍のあまりの強さに感激して、自ら志願して「憲兵補」に採用してもらった。

カムリと同じく志願して兵補として採用されたマドラ人は6人いたが、日本兵にかわいがられ、日本語も上手になり、兄弟のようになり、「死なばもろとも」と言い、「戦って死ぬ時は一緒だ」と思っていた。

島民達も日本人に親しみを感じ、彼らも日本語を覚え、日本の歌「愛国行進曲」は3番まで歌っていた。

しかし戦況が悪化して、日本が敗戦すると、その衝撃は日本兵のみならず、インドネシア人にも広がった。

カムリは「どうしても日本に行きたい。日本に連れて帰ってくれ」と、兄のように慕っていた上遠野勇吉(かどの ゆうきち)憲兵曹長に懇願した。

上遠野曹長もカムリの願いを叶えてやりたかったが、復員は他国民を日本に連れて帰ることは許されなかった。

上遠野曹長はようやくなだめて、父のいないカムリに、母と暮らせるだけの一軒の家を買い与え、トラックと乗用車まで用意してやった。

昭和20年8月24日、カムリは憲兵補除隊式に出て、夕食に別れの宴を催した。

しかし翌25日の早朝、カムリは拳銃でこめかみを撃ち自決した。20歳だった。

この時、カムリは「日の丸」を身にまとい、隊から支給されていた新しい軍服に白いワイシャツと赤靴という憲兵補の軍装で、そのワイシャツには「大日本帝国万歳 インドネシア独立万歳」と日本語で書かれていた。

そして、カムリの遺書にはこう書いてあった。

私はインドネシア独立と日本勝利のため、またマドラ防衛のため、決死の覚悟で日本軍とともに戦ってきました。
日本軍のお陰でインドネシアは自らの力を知ることが出来ました。
インドネシアは必ず独立します。私は日本軍の指導に対し、全インドネシア青年を代表し、血を捧げて御礼申し上げます。  
大日本帝国万歳、インドネシア独立万歳



日本軍はカムリの葬儀を執り行い、墓前には毎日のように花を供えていた。

8月28日、朝早く、橋本豊平軍曹が花を持ってカムリの墓前に行くと、上遠野曹長が拳銃をこめかみに撃ち込んで倒れているのを見つけたが、その日の午前11時に息を引き取った。28歳であった。

遺書には鉛筆の走り書きで「皆様、大変お世話になりました。カムリが可哀想なので一緒に逝きます。死体はカムリのそばに埋めて下さい」と書かれていた。

島民は遺書の通りに上遠野曹長の遺体をカムリの側に並べて埋葬した。

日本軍が引揚げる時、上遠野曹長の遺体を焼骨して、一部を日本に持ち帰り、福島県いわき市の遺族に「遺書」と身に着けていた「時計」を引き渡した。

その後、マドラの戦友会の方々がマドラ島を訪ねると、マドラ島の住民が心から歓迎してくれ、日本軍の強さと規律の正しさを言い、嬉しそうな顔をして「愛国行進曲」を3番まで歌ってくれた。
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