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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

働く者の権利?

2008年08月13日 | 無償の労働、贈与とお金
前回、明治維新後の没落武士の姿に、現代の社会構造の変化についていけない階層の問題をダブらせて書きましたが、安定期が続くほど「働く権利」というものがゆがめられていく傾向にあることも感じます。

今の労働組合の姿を見ていると、働く者の権利を擁護する立場でありながら、その実態がなぜかそれとはかけ離れたものになってしまい、『蟹工船』がベストセラーになるような今こそ本来は組織拡大されるべきなのに、まったくそのような流れにはなりそうにはありません。

社保庁の労組の姿に限らず、いつのまにか労働者の権利が、「働かない権利」であるかのようになってしまったのはなぜでしょうか。

もちろん、賃労働の社会が広がってからの長い歴史の多くは、不当な労働から働くものを守る闘いでした。
非人間的な扱いから開放されて、人間的な労働を求めること、人間らしい暮らしを求めることが、闘いの中心課題でした。そうした努力で戦後の労働運動が果たしてきた役割は確かに大きかった。

低賃金、長時間労働からの解放。たしかにそれらは大事なことに間違いない。
しかし、働く者の権利の第一は、
「働けること」
であるはずではないのか。


前に紹介した『日本でいちばん大切にしたい会社』のなかの話で、あるお坊さんが幸福とは、
①人に愛されること、
②人にほめられること、
③人の役にたつこと、
④人に必要とされることです。
このうちの①以外の三つの幸福は、働くことによってこそ得られるのです、と言ってました。

この前提にたつならば、私は不当で過酷な労働から解放されるために「8時間労働」という枠組みは意味があるかもしれないが、本来の人間の自己実現の労働に近づくためには、8時間以上働く権利というのも当然あってしかるべきだと思っています。
(まずは、法定8時間の内容が、働きがいのあるものにするのが先ですが)

つね日ごろ、好き勝手なことばかりやっていながら、その上にお金まで貰ってしまって申しわけないと思っている私には、お金(経費を負担すること)を払ってでも働くことにそれほど矛盾は感じないのですが、責任ある立場でありあがら8時間労働に固執することなどは、責任を取りたがらない口実にしか過ぎないのではないかとも思ってしまう。

70代くらいに見えるお客さんが、レジでポツリと「疲れるような働きか方をしているうちはまだダメなんだ」と言っていたのを思い出します。

時間にとらわれずに、好きなだけ働けること、
これこそ、理想の労働者像だ。
労働者の最大の権利であるはずだ。

やれ8時間労働だ、やれ有給休暇だ、やれ定年退職だなどという前に、
死ぬまで好きなだけ働かせてくれる社会を目指す労働組合なんて出来ないかしらん。


毎度ながら、勝手なことばかり言ってごめんなさいね。
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