かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

それを「デザイン」とは言わない

2014年02月13日 | 自然・生命の再生産

 

本にかかわる仕事をしていながら、わたしには「本のソムリエ」などと名乗れるような自信はまったくありません。

本の世界は、あまりにも広すぎると感じるからです。

分野を限定すれば、可能であるだろうと思うこともあるのですが、分野を限定したとしても、それぞれ相手によって読む人それぞれの色が見えないままでは、なかなかマッチした情報にまでは、とてもアレンジしきれない。

これは逃げ口上にしかすぎない。

いかなる場合でも、自分以外の他者がどう感じるかを知ることにしか、コミュニケーションやビジネスの核心はないからです。

 

ただ、そのターゲットを経営のために量販市場に絞り込むのか、自分の店のコアの客層に絞り込むのか、自分の決断と選択の問題があるだけなのだけれども、どちらを選ぶにしても得意領域をビジネスに結びつけ結果を出すことは容易ではない。

 でも、「ソムリエ」とまではいかなくても、「情報のデザイン」といったようなコンセプトでは、本に限定することなく私としては、ずっと関わっている世界になります。

 

「かみつけの国 本のテーマ館」http://kamituke.web.fc2.com/のなかでも「コミュニティ・デザイン」は大事なキーワード。

「Hoshino Parsons Project」http://hosinou9.wix.com/hproでは「ライフ・デザイン」が核心テーマ。

 

ところが、最近、「デザイン」という言葉を使うとき、妙に引っかかるものをいつも感じてしまうのです。

 

このことを感じたのは、自分の目指す仕事のレベルが、妻の作る料理の完成度にはとても及ばないと気づいたときです。

 

別居の妻が毎週末に家に来て料理をつくってくれるのですが、毎度、季節の素材を探し、私の体調を配慮して、調理、盛りつけ、器の選択など、その都度その日ごとに与えられた条件のなかで知恵をはたらかせて絶妙の料理をつくってくれます。

味といい、盛りつけといい、毎回すばらしい料理を提供してくれています。

このことを思うと、自分の仕事のレベルは、その日その日であたえられた条件(素材)で最良の調理や盛りつけが出来ているかといえば、とてもそんな水準の仕事は出来ていない。

仕事の創造性を発揮する世界が違う面もあるかもしれないが、「創造力」そのものの果実で比較すると完全に負けている。

本の情報の表現で、どうして妻の料理のようなことが、日々の仕事のなかで出来ないのか。

妻の料理に限らず、料理、「食」の世界というのは、多かれ少なかれこのような世界なのだけれども、なぜかこうした料理の世界では、高度な創造性を発揮していながらテーブルにならんだ「食」の世界を「デザイン」という表現ではあまり語られません。

もちろん、フード・デザイン、テーブル・デザインなどの言葉もありますが、日常のなかで繰り広げられるこの高度な「食」のデザインの領域を語るとき、そこに「デザイン」という言葉はあまり使われないし、なぜかふさわしくもない。

 この漠然とした感覚のなかに、なにかとても大事なことが隠れひそんでいるのではないかと思いました。

 

今もこれからも「情報」の「デザイン」という作業の重要性に変わりはないのだけれども、自分の仕事の組み立て方、生活の組み立て方を考えたとき、これまでの「デザイン」重視を強調し、訴える方向は、どこか修正を求められているのを感じるのです。

なぜ、料理を語るときは、どんなにそれが高い創造性を発揮された美しいものであったとしても「デザイン」という表現がふさわしくないと思われるのか。

 

 

 

 おそらく、「食」や「料理」の世界は、あまりにも生命の営みの本源的領域であるから、それがいかに創造的ですぐれたものであったとしても、なにか「デザイン以前のもの」として感じられるのではないでしょうか。

とすれば、

デザインという言葉が飛び交うほどに、生命の本源的な営みからは遠ざかる「商業的匂い」のようなものを感じることになる。

決して「商業」が悪いわけではない。

「商業」と「生命の本源的営み」との距離感の問題だ。

つまり、「仕事」を、「商業」を、どれだけ「生命の本源的営み」として捉えなおせるかということです。

 

なにかにつけて「賃労働」の枠でしかとらえられない現代の「労働」を敵視する私です。

それに対する答えを、妻のつくる創造的な料理の世界にみつけたような気がします。

 

「生命の本源的営み」を軸として考えれば、それは何か「デザイン」されるような方向にあるのではなく、

「輝きを増す」方向にこそ突き進むべきなのではないでしょうか。

 

大自然の営みに近づくほど、

日々の生活に深く根付くほど、

どれがどんなにクリエイティブな創作であったとしても

それは「デザイン」とは言えない活動になっていく。

 

そもそも、大自然がもたらす生産性や美しさに、人間の生産、経済活動など遠く及ぶものではない。

経済的な発展や文化的な美しさの問題を、現代社会のなかで大自然の生命の営みの枠のなかにどう引きずり降ろすか。

日々の人の営みを「労働」と「生活」を分断することなく、ひとつの「暮らし」「営み」としてとらえ直す作業を、もっともっと語っていかなければならないと思ってます。

 

あとで気づきましたが、パブリック・コードが「デザイン」

パーソナル・コードは、いかにクリエイティブであっても「デザイン」にはならない、ということ。

ひとりひとりがパーソナル・コードを日常で生産できる社会こそが、より「豊か」な社会なのではと思います。

 

まだうまく表現することが出来ませんが、とても大事なポイントを気づかせてもらえた気がしています。

 

 

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