かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

夜は生命(いのち)のゆりかご。

2017年04月20日 | 自然・生命の再生産

地球にとって夜は、長い歴史の間、暗いことがあたりまえの世界でした。

よく「光」あってこその「影」とも言われますが、宇宙の実態をみれば、太陽のような恒星の光は数多ある星の中のほんの一点の小さな星の輝きにすぎず、むしろ宇宙では漆黒の闇こそが基本の世界です。

青い空のもと適温で過ごせる昼の環境などというのは、大宇宙のなかでは極めて特異な姿なのです。 

 

 

 

現代の子供たちに、果たして想像ができるでしょうか。

 

私たちが小さかったころ、ひとりでトイレに行くこと、

それはとても怖いことでした。

トイレが屋外にあったり、またそこに行くまでは暗い廊下を通らなければならなかったり、

そしてようやくトイレに着いても、スイッチを入れるのは10ワットくらいの裸電球で、その明かりはとても暗いものです。

さらに、かがんだ足元を覗きこむと、またさらに底の見えない暗い闇が深く広がっているのです。

 

いつでも、どこでもスイッチを入れれば、真昼の明るさが保証されている現代の子どもたちが、この世界を想像することができるでしょうか。

 

もちろん、こうした闇から解放され、いつでもどこでも不安なく、

ひとりでトイレに行くことの怖さから、不要なオネショをすることもなく、

誰もが暮れせるようになったのは、決して悪いことではありません。

 

思い起こせば、

まだ蛍光灯の明かりが普及する前、囲炉裏を囲んで家族が語らう時代、

おばあちゃんが、悲しい、怖い、言葉を発すれば、

それを聞いている子供達は、まったく同じ悲しく怖い気持ちにおそわれました。

ほのかな明かりを語れば、そのままそれを聞く子供の胸には、ほのかな明かりが灯りました。

 

 

 

   他人はおそろし、闇夜はこわい

     親と月夜はいつも好い

 

 

 


ところが、人類が火を獲得し、文明が進歩し始めてから次第に、昼と夜の対等性は忘れ去られ、昼の太陽こそが社会を支配するかの世界観が普及してきました。

この日本でもかつては、太陽も月も分け隔てることなくあまねく照らす(聖徳太子)八百万の神と陰陽一体の世界観が基調にありましたが、強力な国家の統一がおしはかられるようになると、太陽(アマテラス)が中心になり出し、神や人に序列をつける世界観の国のごとく日本は変貌しはじめました。

そしてそこに科学技術の進歩も加わり、囲炉裏や行灯の明かりから裸電球を経てやがて蛍光灯の照明の時代に至ると、光と影がおりなす日常の夜は忘れ去られ、ただひたすら昼間と同じ明るさを夜にも求める社会になってしまいました。

現代では、昼の労働時間を限りなく夜まで延長できることが、自由の拡大につながるものとばかり考えられています。

このことは、昼と同じ明るさがいつでも自由に得られる蛍光灯の普及とともに劇的に加速したとも言えます。

また本来、夜は決して、昼間の労働の疲れを癒すための時間ではありません。

夜は、昼とは異なる暗さがあってこそ、ただ休息のためだけではない大切な「生命をはぐくむ」時間となるものです。

さらに昼があっての夜ではなく、昼と夜はそれぞれが不可欠で一対の大事な役割をもつものなのです。

あらゆる生命誕生の神秘を見れば、このことは歴然とした事実なのですが、文明に溺れた人間はついこのことを忘れてしまいます。

 

1日の半分を占める夜の時間帯の中から

テレビやネットを見ている時間から、ほんの1時間だけでも、

昼の「消費型」時間を延長する使い方をやめることができたなら、

夜は必ずその本来の姿を私たちに見せてくれます。


そしてそこには、決して「消費型」の暮らしではない

人間本来の「創造型」の時間があらわれることに気づきます。


つまり、月をみたり、

ふとつの明かりを囲んで語りあったり、

ゆっくりと語らいながら食事をしたり、

お酒を飲んだり、

歌ったり、

愛しあったり、

読書をしたり、

ものを作ったり、

書いたり。

 

乾正雄『夜は暗くてはいけないか』朝日選書


また、ひたすら「消費」する時間ではなく「創造」を意識した時間を取り戻しはじめると、不思議とあらゆる空間を真昼のように明るくする必用はないのだということに気づきはじめます。


 

多くの闇を照らすのは、仄かな明かりで十分なのです。

それは必ずしも長時間労働削減のためでなく、省エネのためでもありません。


たしかに街の明かりや道路の照明は、暗闇の危険を想起する空間から恒常的な安心の空間へかえてくれます。

しかし、ひたすら明るく輝かせる商業看板ほど、多くの照明は、ただ目立たせること以上にその明るさは必要とされません。

多くのまちの明かりは、実用上の光度よりもより「華やか」であることでその存在意義を持っているにすぎません。

確かに、文明の生まれた時や戦争の焼け野原から復興するときに、まちに煌々と明かりが灯されることは、なによりの幸せや繁栄・安心の支えになりました。

明るいことこそが、豊かさの証明であったことは否めません。

しかし、あまりにもその方向にばかり一直線に進み過ぎたのです。



太陽のような強い光は、強い影を生み

そこには、箇条書きのような明解な定型文が生まれます。

 

他方、月明かりのような仄かな明かりは、

言葉では語り尽くせないものを前提とした

詩的な表現を不可欠なものとします。

 

どちらが大事ということではなく、

あまりにも太陽型の光に現代社会が偏りすぎているのです。

 

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』角川ソフィア文庫


まるで文明の証のような煌煌と照らす光が、生命の輝きと創造の文化を滅ぼしているのです。

「ともしび」という言葉は、もう死語になってしまったのかもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/d7a30080dcd5af295dc4e5b3c41e49ee 

「ほのかな明かり」は、長い文明の歴史の中でも

「蛍光灯」の出現とともにほとんど無くなってしまいました。

 


 「生産」と「消費」を中心とした活動ではなく、

「生命(いのち)の再生産」を前提とした自然と人間社会の営みを考えれば、

しっかりとした夜の暗さのある1日の半分の時間帯が、

私たちにとってかけがえのない時間であることには誰もが気づけることと思います。

 

 

ただちにこうした文明観を普及させることは難しいかもしれませんが、

先の東京オリンピックの頃からこの半世紀ほどの間に急速に失われたものを、

これからの半世紀ほどの時間をかけてでも取り戻していくことは、

決して難しいことではありません。

技術的にもそれが困難でないことは、別の機会に詳述させていただきますが、

わたしたちは、この月夜野の地からそのようなことを時間をかけて、

ひとつひとつ積み重ねていきたいと考えています。

 

 

 

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