幻の詩集 『あまたのおろち』 by 紫源二

幻の現在詩人 紫源二 の リアルタイム・ネット・ポエトリー

クオリア つづき

2017-06-13 22:34:37 | Weblog


「コウモリであるとはどういうことか」って70年代80年代だけど、やっと“クオリア”が議論されるようになって、「あー、やっとか」と思う。僕は中学生のときから考えていたんだけどね。(微笑)

D.C.デネット、好きなんだけどね。彼はあえてとぼけて、知らないフリをしているね。

AIが議論になっているけど、要は、“クオリア”の問題なんだよね。

僕は“クオリア”には、“強度” があると思う。強烈に感じるか、曖昧に感じるか。
僕はもちろん強烈に感じるから、浮いてしまうんだよね。世間の一般常識から(笑)。

“共感覚”というのがある。
僕の場合、それはテレパシックであって、かなり“文学的” なんだよね。
又吉なんて、お笑いだよね。(笑)

西田幾多郎なんて、なんにもわかってなかったと思うね。“純粋感覚”について。

じぁあ、鈴木大拙かって言うかもしれないけど、僕はもちろんはまったけど、“思弁的”だと思うよ。面白いけど、“権威” 主義的だよね。“祖師”なんて(笑)。

吉田
クオリアって何?

wikiで調べろよ。

僕は小学生の頃、自主的に、近所の下級生の家に朝迎えに行って、下級生を引き連れて集団で登校していた。でも度々、僕は登校の途中で度々気持ち悪くなってうずくまり、道端で膝をついて下級生達に心配をかけた。その頃、サルトルの『嘔吐』が流行っていたので、僕もきっとそこに書かれていることは僕が体験している“嘔吐感”と同じだろうと思ったが、そうではなかった。後からわかったのだが、それはニーチェの“永劫回帰”と同じ感覚だということだ。小学生の僕は、度々、強度のデジャヴュ体験をした。「この場面はもう何万回も体験している」という感覚。その度に“実存的嘔吐”を感じて道端にうずくまった。それは僕にとっての“共感覚”だった。強度の共感覚。あるイメージが蘇ってくる。それは何万回も体験している“永劫回帰”の感覚だった(笑)

僕はU君に向けて書いている訳だけど、SONYから引き抜かれてロボット博士になったU君は100%読んでいないだろうな。ということは私の“徒労”だけど、
つまり、70年代後半から、ビルゲイツ、ジョブズのパーソナルコンピューターの時代になった。それからUNIXのtelnet のインターネットを経て、これからはAIの時代を迎えた。チューリングが真に問われる時代になったわけだ。僕は純粋に知的な思弁的なAI論議が好きだけど、個人的に得意なのはなマンマシンインターフェイスだ。つまりロボットの外観。“ラブドール”の分野なのです。だてに大学で“美術系”をとっているわけではなく、マンマシンの“外観”にこだわっているのです。これからのアートは、マンマシンのコンセプチュアルを抜きにしては野暮ってもんです。つまり、ティモシー・リアリーのソリッドステートとドーキンスの利己的な遺伝子との対話ですね。外観はポスト・クーンズ、ポスト・チョチョリーナってもんですかね。(笑)














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