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牟田悌三さんが亡くなった……震えた聞き取れない声で、世田谷区で教育市民運動を共にしてきた星野弥生さんから電話があった。何を言っているのかよく聞き取れず、「牟田さんが……」というのは判った。小さくなる声に耳をすませると「亡くなった……」と聞こえた。エッと驚き、言葉を失った。牟田さんとは、この15年もの間、「教育」「こども」をめぐって語りあい、ともに何をしたらいいのかを考えた「仲間」だった。

昨年の11月に世田谷区のキャロットタワーで、牟田さんの傘寿(80歳)を祝うためのパーティーがあり、牟田さんに「ますますお元気で、あと10年間は日本の教育、学校を建て直すために活躍して下さい」と挨拶している。長年、世田谷区でボランティア活動の先頭に立ってきた牟田さんは、親子ほどに年の違う私たちの思いつきやアイデアも尊重してくれて、ていねいに話し合いの場に加わってくれた。牟田さんの顔、信頼があって、世田谷区と市民団体が共催で「いじめよ止まれ」と名付けた地域イベントも開催した。また、政治家となった私をつねに温かい目で見守りながら、原点に引き戻してくれる存在だった。

長い間、映画や芸能の世界で仕事をしてきた牟田さんだったが、少しも鼻にかけたり威張るようなことはなく、孫のような中学生の意見にもきちんと耳を傾けてくれた。また、顔や名前だけ連ねて責任は負わないという人たちとは対極にあって、
市民団体やNPOの長時間の会議にもつきあい、責任ある役職にも就いてその任を忠実になし遂げてくれた。

困った時や、壁に当たっている時に笑顔で励ましてくれる存在だった。今日は、突然の訃報に戸惑っているが、牟田さんの存在に替わる人はいない。私が半ば強引に、イギリスに連れて行き、チャイルドラインを見に行った時のことを、05年9月14日のブログに書いている。牟田さんが日本版チャイルドラインの創設に熱心にやってくれるきっかけとなった時のことだ。

[牟田悌三さんと過ごしたロンドンの安宿](保坂展人のどこどこ日記)

 テレビのインタビュー取材が相次いで、私の応援団長として牟田悌三さんが笑顔で当選を喜んでくれている。牟田さんこそ、テレビ草創期の俳優で私たちの世代では「チャコちゃんのパパ」として印象に残っている。

 牟田さんとのつきあいは、10年前にさかのぼる。当時、社会問題化していた「いじめ問題」を討議するために、中央教育審議会の専門委員に決まったころだ。世田谷の子ども・学校・教育を考えてきた仲間たちと、牟田さんを囲んで懇談会をやった。

 こうして、牟田さんを中心にして「世田谷こどもいのちのネットワーク」という市民団体が生まれた。世田谷区教育委員会と話し合って、公立中学校を会場にして「いじめよ、とまれ」というシンポジウムを行ったのが96年6月。たんなる議論に終わらせないで、子どもたちのために具体的な何かをつくり出していこうと500人の参加者と語り合った。

 3ヶ月後、突然に総選挙に出ることになり、10月に衆議院に初当選。私の演説やビラは「こども問題」一色だった。やがて、世田谷の仲間たちとイギリスのチャイルドラインを一緒に見に行こうという話になり、牟田さんを団長に5人の仲間と97年の5月にロンドンに勉強に行った。

 大英博物館近くの建ってから100年以上のホテルに、牟田さんと同室して泊まることになった。床が傾いていて、ベットも傾斜しているような部屋だったが、夜中に牟田さんは何回も目覚めたそうだ。

「ウァーッと保坂は夜中に突然に凄い声で叫ぶんですね。ああ、慣れない国会議員というのは、すごいストレスなんだな」と牟田さんは言っていた。それ以来、東京5区では、チャイルドラインに理解を示した小杉隆元文部大臣、6区では私を応援してくれていた。

 そして、チャイルドラインは今、全国に広がっている。牟田さんの活躍の場は、ボランティア活動から子どもたちをサポートするチャイルドラインへと広がっている。牟田さん、温かい目でいつも、ありがとうございます。

[引用終わり]

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