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2013年に入ってから、朝日新聞デジタルのウェブマガジン「&w」で「太陽のまちから」という週1回の連載を始めている。毎週火曜日の掲載だが、このウェブマガジンは当初、同サイトのトップページにも端緒がなく、発見するのが大変に難しい状況だった。ツイッターで毎回お知らせしてはいるが、そのバックナンバーを紹介していくことにする。

「愛のムチ」という名の「暴力」(1月29日)

 大阪市立桜宮高校の生徒が自殺したことに関連して「体罰」がクローズアップされ、入試中止か否かの問題に発展しました。

 この事件については自分で関係者の声を聞いたわけではないので、直接の分析や批評は慎もうと思います。ただ、「『体罰』否定」の大合唱を聞いていて、何とも言えない違和感を覚えるのです。

 つい、この間まで「教師が生徒を指導する時に、殴って何が悪い」「心で泣きながら生徒を平手打ちすることまで否定されるべきではない」と語ってきた人たちはいなかったでしょうか。言葉にしなくても、そうした考えは学校関係者の間にも根強く残っているように思うのです。子どもたちや保護者の「誤った人権意識」を「戦後教育の病理」とする指摘もあちこちで耳にしました。厳しく指導する覚悟が教師にないと知れば、子どもたちは最初からなめてかかる、とも。

 1980年代から90年代前半にかけて、私は「いじめ」や「体罰」の問題が社会的に話題になるたびに、教育ジャーナリストとしてシンポジウムやテレビの討論番組に出席すると、このような主張をよく聞かされたものです。

 いまは一時的に声を潜めているかもしれませんが、体罰容認の風潮が社会に深く根を降ろしていることを見失ってはいけないと思います。もう少し時間がたてば、「体罰は愛の鞭(むち)」論者が堂々と登場しても不思議ではありません。

 多くの場合、教師による「体罰」に対して生徒は無抵抗です。残念ながら、日常的に「体罰」をふるうようになると、人間の感覚は麻痺します。平手打ちが拳骨になり、拳骨から蹴りへとエスカレートするでしょう。

 理由がある暴力は「体罰」、理由のない暴力は単なる「暴力」という考え方は間違いです。理由があれば、教師は指導の手段として暴力を行使していいということになりかねません。「熱心な愛情の表現」として美化されれば、教師にためらいがなくなり、暴力に歯止めがきかなくなります。

 30年ほど前、ツッパリたちが暴れて学校のガラスを破損したり、教師に暴力をふるったりする「校内暴力」が話題になりました。私は「荒れた学校」で「問題児」たちに話を聞きました。このとき、彼らが口々に言ったのは、部活動などで受けてきた「先生の暴力」についてでした。暴力は連鎖するのです。

 どんな理屈を並べたところで、生徒が大けがをしたり、死亡したり、あるいは精神的に追い詰められてみずから死を選んだりすることになれば、これを正当化する論理はありません。命は2度と戻ってきません。死は最大の犠牲だと私は思います。

 2000年に児童虐待防止法が成立しました。この法律は、私が国会議員だったころに超党派の議員立法として成立させました。当初、与党の大物議員の間からは、同意する条件として「親の正当な懲戒権を妨げてはならない」という文言を入れるように求められました。最終的には取り下げてもらいましたが、「しつけ」と「虐待」をめぐって「体罰」と「暴行」の構図に似た議論があったのです。法制定から12年が経過し、児童虐待防止は社会に定着し始めているように思います。

 この夏、世田谷区では「子どもの人権擁護のための第三者機関」をスタートさせます。子どもが「いじめ」や「体罰」、「犯罪」すれすれの事態など身体・生命の危機に直面した時、子どもの人権を最優先に行動する第三者機関が必要だと考えるためです。寄せられた情報をもとに必要だと判断した場合には、実情把握と調査のために動きます。さらに現場に是正のための意見を届けたり改善を求めたりすることもします。そのスタートのためのシンポジウムを2月7日に開きます。

 「体罰禁止」「いじめ撲滅」のスローガンでは子どもを守れない。そう感じて、動き始めています。

「愛のムチ」という名の「暴力」(「&w」「太陽のまちから」2013年1月29日)より

 

 



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