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 いよいよ金環日食を観測出来る5月21日の朝が迫っている。25年前、1987年9月23日に、沖縄県の万座毛付近を中心線にして観測した金環日食のその時、私はその場にいた。北海道から沖縄にやってきたアイヌの人たち50人の世話役として、また宮古島のカミンチュの人たちが輪を作りながら平和を祈る中、薄い影がいくつか出来て、大地は次第に薄暗くなっていった。私は約半年という時間をかけ、この瞬間に合わせて、万座毛でのイベントを制作していた。

 25年前、32歳だった私は学校や教育問題を中心にルポを発表するジャーナリストであり、東京代々木に若者たちに開かれたフリースペースを主宰していた。20代から30代にかけて、沖縄の生んだアーティスト喜納昌吉さんと親交を温め、全国でライブやコンサートを制作したり、原子力発電所誘致を先導した町長をリコールした高知県窪川町で、約3000人の人たちを集めてキャンプ・インを行うなど、1年のうちに半年をイベント制作に費やしていた。収益やビジネスにはならず、借金やリスクだけはあった。

 1987年の正月、私の家にひっこりと喜納昌吉さんがひとりで現れた。いろいろ考えるところがあったのだろう。何日か泊まっていた彼は、夜中に突然つぶやいた。「保坂、北海道が呼んでいるんだ…」 どうやら、北海道でアイヌの人たちと出会いながら大喧嘩になり、糸が切れるようにつながりも切れてしまった。どうも、そこから調子が悪いので、もう一度北海道に行って関係を修復したいとのことだった。

 まったくの偶然だが、私は1987年1月の新年早々に北海道の北見市で講演に呼ばれていた。「僕も呼ばれているから、手伝ってもいいよ」と闇の中で答えた。そして、札幌に行き数時間で喜納さんが大喧嘩をした相手を見つけ、順次アイヌの人たちと会っていく旅となった。石狩、旭川、阿寒、釧路と次々とアイヌのそれぞれの地の人たちを訪ねた。この旅の中で、喜納さんから「50人のアイヌの人たちを沖縄に招待したい。5人、10人じゃだめで50人でなければならない」と言われた。もちろん、「そんなことは無理」と断る自由もあったが、困難な課題を前にすると挑戦したくなる無謀さが私にもあった。「わかった。やってみよう」

 そして、私たちの周辺にいた天文マニアの若者が「今年は沖縄で金環日食があり、この機会を逃すと21世紀までありません」と話していたことを思い出した。そこで、沖縄の人たちとアイヌの人たちが出会うというイベントはどうだろうかと考え、イベントの企画が続いた。1987年の前半、私は北海道に数回、そして沖縄には毎月のように飛び回った。まず、大手旅行社の幹部に話をして協賛を取り付け、航空運賃を半額にしてもらった。これで、往復10万円が半額になった。また、沖縄のホテル業者の社長に頼んで、驚くほど安く部屋を提供してもらった。と言っても、北海道から沖縄へのご招待費用は500万円を超えた。

 もちろん、沖縄でも、東京でも、北海道でも、このイベントに協力する人が続々現れて、多くの人の協力を得て、この祭りを形成した。だが、沖縄現地でも相当の赤字が出てしまい後始末は、「沖縄は喜納さん、北海道のアイヌの人々の交流は私」が何とかするということで終わった。

 収益はほとんどゼロだから、銀行から借金をした記憶がある。それでも、大勢の人々が万座毛に集まり、平和への祈りが捧げられた瞬間、何ともいえない満足感があったので、特に気にすることもなかった。借金は別の企画で1年もしないで解消するぐらい、当時はバブル前夜で次々と仕事を重ねていた時期だった。私にとっての金環日食とは、そんな青春の一こまである。エネルギーも体力もフル回転で注ぎ、万が一のトラブルの責任は取らなければならない。そんなイベントを20代後半から毎年のように繰り返していたのが、当時の私だった。

 蕩尽。エネルギーを昇華させ、使い尽くす。そして、非日常を段取りし、日常との架け橋をつくる。それが、当時の私が自分に課した役割だった。こうして、沖縄を舞台に25年前に動いていた頃に、21世紀ははるか遠い彼方だった。21日に天候さえよければ、金環日食を専用眼鏡で見ながら、この四半世紀を反芻してみようと思う。

 

 



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