新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

いつまで続くのか

2007年05月06日 20時22分21秒 | 国際・政治

 文藝春秋五月号に、作家五木寛之氏と数学者藤原正彦氏の対談「わが引き揚げ体験と昭和の歌」が載っていた。太平洋戦争の末期から敗戦後の引き揚げ体験とお二人が好きだった歌謡曲についての話だった。
 哀しい時や落ち込んでいる時は、明るい歌よりも静かな哀しい歌が好まれ、その歌から力を貰い、元気になったものだという話をしていた。
 五木氏は昭和7年生まれ、藤原氏は昭和18年生まれで、敗戦の年昭和20年の頃は、それぞれ12歳と2歳だったとのこと。私は昭和9年生まれの10歳だったから、ほぼ同年代ということになる。
 歌謡曲の話題は興味ある内容だったが、私には、敗戦時に、大陸から脱出して来た人々の悲惨な苦労を、改めて再認識した。私自身としては、初めて知った話ではなかったが、歌謡曲の話の場で、何気なく淡々と語られた事実だったので、ショックは大きかった。
 お二人の話によると、敗色濃厚になった頃、いち早く逃げ出したのは、関東軍将校の家族だったそうだ。次ぎに逃げたのは、満州国軍の日本人将校の家族。家財道具まで沢山運んだそうだ。三番目に逃げたのが官吏とその家族。最後は一般の人だったとのことであった。
 軍に見放され、交通機関も乏しい中、幼い子供の手を引いて逃げた人たちの苦労は、想像を絶するものがある。
 私の家族は幸い国内にいた。空襲や艦砲射撃の恐怖に晒されはしたが、お二人の経験は、まさに凄まじいものがあったようだ。
「母親というのは、子供のためには何でもやるものですから、たとえ人を殺してでも子供を守ろうとする。その姿には感動するところがあります」と、五木氏は淡々と言っていた。きっと脳裏には、具体的な実像があるに違いない。
「脱出する過程で、女を差し出せと要求され、夫や子供を失った未亡人に、リーダー格の人が土下座して、頼んだようなこともあった」とも五木氏は言っていた。「それでいて、次の朝その女性がボロ雑巾のようになって帰ってくると、みんなは、戻ってきた女性を蔑むような眼で見て、誰も近寄らないのです。私は自分も日本人でありながら、日本人に対する幻滅が強く湧いて、いまも後遺症が消えません」とも言っていた。
 日本へ戻ってからは、上陸地において、15,6歳から50歳すぎの女性まで、妊娠と性病の検査を受けさせられたということも話していた。
「女性を要求するのは、ソ連兵ですか。それとも中国や朝鮮の人々も同じことをしたのでしょうか」との藤原氏の問いに、「ソ連兵だけではありませんでした」と五木氏は答えていた。
 歌謡曲のことが話題だったはずなのに、我々が決して忘れてはならない大変だった時代を、再確認させられる対談であった。
 今でも韓国や中国から、従軍慰安婦の問題を突きつけられたりしている。中には信じられないような偽りもあったりするが、詫びただけでは済まないような事実もあるのだろう。
 アメリカの議会でも
、日本二世の議員の提出によって、「従軍慰安婦」に関して、日本首相の謝罪を要求する決議案を上程する動きもあるようだ。当該議員は、毎年のように同じ主旨の法案を提出しており、選挙区事情もあるようだとの報道もなされている。
 敗戦から60年余も過ぎている今、反省のために自ら思い起こしているのではなく、他国から咎め立てを受けているのは、なぜなのだろうか。
 もういい加減にしろよ!とは言えぬものなのだろうか。
 
  

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 至福の困憊 | トップ | 強い意思は保てるか »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国際・政治」カテゴリの最新記事