今は亡き友人の細君から電話があった。
元気な声であった。
材木商を他人に譲り、家屋建築のみに事業を縮小したという話だった。
「そりゃあよかったねえ」
私は真底そう言った。涙が出そうなほど嬉しかった。
友人の亡きあと、彼女が材木商と家屋建築の仕事を続けていた。
3人の娘は、いずれも外国生活に入っており、細君が一人で事業を切り盛りしていたのである。
実のところ、「疲れた、止めたい……」と言い続けていたのだが、社員たちの今後もあり、あっさりとは止められなかったようだ。
生前友人から、「後々、相談に乗ってやってくれよなあ」と言われていたのだが、遠く離れていたし、材木関係の事業では見当もつかず、あまり力にはなれなかった。
「申し訳ないなあ」と、力不足の自分を、責めるだけであった。
友人は数年前、肝臓癌で亡くなった。
はじめはC型肝炎だったが、最後は肝臓癌に進行していった。その後も、考えられる種々の手だてを施したが、病気には勝てなかった。
友人は生きようと努力し続けた。良いと言われた療法に飛びついて、医師に相談していた。週刊誌のコラムにも眼を光らせていた。
友人は実業家だった。家業が材木商だったことから、彼も材木の小売商からスタートした。はじめの頃は苦労していたが、昭和50年台からは拡大基調に転じ、事業は大きくなっていった。向かうところ敵なしの感じだった。
その頃、突然、友人の細君から、魚の干物が送られてきた。その中に、そっと手紙が入っていた。友人による家庭内暴力が書かれてあった。3人の娘さんたちも被害者だった。
休日の来るのを待って、私はすっ飛んでいった。
私の急な出現に、友人は怪訝そうだったが、すぐさま久闊のイッパイとなった。彼は大酒飲みだったのだ。
私は何も言い出せなかった。このような役回りは、大変難しい。「細君からの手紙」は表に出せる話ではない。
事業の発展と家庭の大切さなど、知ったかぶりの一説をぶつのがせいぜいだった。
その後も、彼の仕打ちに変化はなかったようだ。彼女にとって、私は、頼り甲斐のない友人だったのだ。
事業縮小の件も、何の手助けも出来なかった。電話で励ますことぐらいだった。
だから今日の電話は、本当に嬉しかった。
同時に、頼り甲斐のない自分を再び実感させられた。