最近では、「尊厳死」と言うニュースが少なくなった。
日本人ならず、諸外国でもやはり80歳となると生命の終点を考えるようになるようである。
もっとも、早く死にたいなどと言うことではない。
死に際の、美醜についてのことである。
人間誰だって、必ず終焉はある。
問題は、その場合に静かに眠るように真っ当したいものである。
そこでそう思ってのこととは思うが、アメリカはアイオイ州の80歳になられるご婦人が、胸部にある言葉を入れ墨(タトゥー)したという。
それは、「延命措置は不要」と言う文字だったなそうである。
アメリカでは、尊厳死を希望する場合は予め文書で自分の意思を提示するのが一般的だと言う。
この意思表示は、一般の文言ではなく「タトゥー」であった。
このタトゥー式の文言は、果たして医療的や法律的に有効であるかどうかと話題になったと言う。
確かに、疑問の出(いず)る意思表示ではある。
本人は、いたって真面目であり「バカバカしいかも知れないが」と前置きをして、先進的なアイデァであると主張して止まないと言う。
まことに、ご準備の良い方である。
さてこの「尊厳死」であるが、日本の場合はどうなっているのであろうか?
やはり、本人または家族などからの意思表示があった場合にと、個々に対応するのだろうか?
もしなかった場合は、そのまま延命措置をせずに「ご愁傷様」となるのであろうか。
もっとも、自然な形でその時を待ちたいという人も多かろうと思われる。
仮に、自分の意思としては「尊厳死」を希望していなかったとしても、家族や周囲が延命措置を希望する場合もあると思う。
また医師として、出来るだけ長生きをさせたいとする気持ちも判らないでもない。
こうしたことから、場合には自分の意思に反した処置もあり得るかも知れないと思った。
「バネ仕掛け」のように、伸びたり縮んだりする「命」を見守られているような気がしないでもない。
それだけに、無理やりと鼻に管を入れられ目を瞑ったままでの状態を、他人に見られたくない場合が多いと思う。
何となく自分の意思に反し、第一自由な最後を奪われたような気もしないでもない。
自己意識を失い、延命されているこの状態を「止めさせてくれ」と、言えない立場での処置は何となく残酷なような気がする。
こうなると、「自然死などと言う権利」までもが、奪われたような気もしないでもない。
家族や周囲は、出来るだけギリギリの線まで生きて欲しいと希望するであろうが、恐らくは当の本人は奇麗にその自然の生命の終焉を望むことであろう。
自分の命が、何となく自分以外の人に左右されているようで、どうも死に切れないような気がしないでもない。
もっとも、「早く死んでくれ」と言われるよりはいいことではある。
が、何となく「ゴム紐」のように引き伸ばされているような気もする。
中には、手助けをしてあの世にわざわざ送って上げる人もいる。
家族としての繋がりを失うか、あるいは長い間の介護生活に疲れてお手伝いをして死なせる場合もある。
こうなると、介護を受ける方も支える人ももう地獄なのであろう。
昔は、年を取れば山に捨てられて口減らしをさせられた時代もあった。
有名な作品では、深沢七郎氏の「楢山節考」である。
その後では、恩地日出夫監督の「蕨野行」であろう。
現代は山ではないが、介護医療の名の下に「病室」と言うところに捨てられる。
ささやかな介護保険と、「仕方ない」と言う家族のお見舞いをいただき、意に反した治療のモルモットの生活である場合が多いと聞く。
やはり、健康が一番なのである。
仮に寿命による入院となったときは、私は延命処置は遠慮したい。
それだけに、私も負けないで「額(ひたい)」の辺りに彫っておこうかと思った。
「やるぜ、オヤジ!」と言う、倅どもの爆笑の声が聞こえるようである。
「死ぬるまで 主張を曲げぬ 頑固者」で、居たい。









