「おい、見ろよ、あーなっちゃお終いだな」と、墓石屋の村中さん。
「誰だっけ、見たような気がするが?」。
「この通りのさ、4軒目の大将のAさんだよ。
最近、離婚したそうだがさ、そのためか一気に老けちゃったよ。
かかぁのいねぇのは、刑務所暮らしよりも辛いと言うからな。
あんた、大丈夫? 大事にしろよ」と、村中大将。
「てやんでぇ、お前さんこそ気をつけろ。
あ、そうか、おめぇさんは独りもんだもな、小便するだけの持ち物だもんな」。
「よく言うぜ、もっともあーならずに済むがさ。
それにしてもよ、まだ50そこそこだぜ、いやんなっちゃうな」。
「子供達は?」。
「一人息子らしいが、元女房と一緒に出て行ったと言うぜ」。
「そうか、じゃー、もしもの時はあんたの世話になるんだ。
一軒、お得意様が出来るな」。
「バカ言えよ、神様が違うよ。
○〇学会だよ、あそこはその学会でやるんだよ」と、この村中氏は横に手を振って、「○〇墓石センター」と書いてある臨時事務所に入った。
そう言えば、いつだったか厚生労働省から報告されたことがあった。
確か、「配偶関係別にみた心疾患=脳血管死亡」とか言う調査結果報告書だったはずである。
この報告書によると離婚男性は、妻のいる男性に比べて心筋梗塞の死亡率が 約3倍にのぼるなそうである。
持病とか病気での死亡なら納得できるが、どうやらこの手の離婚と言う歯車の狂いででの死亡率も高いなそうである。
と言うことは、この離婚による「心筋梗塞」もこの高度なストレス現象が引き起こしているということなのであろう。
離婚の理由には、様々な原因があろうけれども主に夫婦間のコミニュケーションの欠落や、相手方への理解不足などが上げられると言う。
主なる兆候は、相手方の挙動不審、会話不足や、視線を合わせないあるいはセックスが途切れている、一緒にいる時間が少ないか一緒に居てもお互いの存在感の希薄などが上げられるなそうだ。
遠くにあってのことではない、近くの他人になっている場合があるのであろう。
要は、「相手を思いやる」ことに「愛している」ことと、「愛されている」ことの実感が伴わなければこうした破局もあり得るわけだ。
愛の確認は、何も若い人たちだけの特許ではない。
年を重ねても、日常の会話の理解度や仕種や心遣いでもって、その自分の置かれている存在感を確かめることが出来るものだ。
また、自分をも認めることが出来るはずである。
一度狂った歯車は、そう簡単には修復できないものでもある。
時間が掛かっての原因だけに、その修復にも時間が掛かるものであるようだ。
さて、この墓石センター近くのこのAさんだが、間もなく見えなくなったなそうである。
地獄耳の村中さんが曰くには、どうやら入院したらしいとのことだった。
まだ定年には早いサラリーマンな筈であるが、奥様殿に捨てられた後に体調を崩したなそうであるが、妻の存在がいかに大きかったかを物語るという見本でもあろう。
「餌付けしちゃーさ、ならねぇ日本カモシカによ、毎日餌をやっていたんだぜ。
畜生によ、餌をやる暇があったならよ、かかぁにサービスしろってんだよな?」。
「随分と詳しいじゃねぇかよ、その鹿、メスかぁ?」。
「かもな、でもよ、ありがた迷惑だぜ」と、村中大将。
「なんでや、天然記念物を大事に扱っていたんだろがさ?」。
「それがよ、あのカモシカめ、ここの展示してある墓石をよ、親子で来てよ、角で引っかいてさ、みんな傷だらけにしやがったんだぜ。
トンでもネねぇ損害だぜ。
あのバカオヤジめに賠償してもらおうかと思っている矢先に入院じゃーよ、カモシカから取るシカないぜ、シカたねぇな」。
「ハハハハ、シカから取るシカねぇかぁーか、こりゃ上手いな。
まさかよ、またいつかの雉のようにさ、捕まえてさ、食おうとしてお巡りさんに見つかって動物保護課に止む無く届けるようなことはないだろうな、え?」。
「そんなこたぁーしねぇさ。
あの鹿、メスだからな。あのオヤジ見てぇによ、寡男(やもめ)にしたかぁーねぇさ。
でもよ、あんなに人に慣れるとは思わなかったぜ。
あれじゃ、もう野生じゃねぇな」。
「なんで、墓石に傷なんだい?」。
「小鹿がさ、角が伸び始めて痒くなったんだろうさ。
食うなら、オスだな」と、本音を吐いた。
「なんだ、それ、埋め合わせか?」。
「じゃねぇが、あのオヤジがいなくなってもよ、辺りをウロウロしやがるんだよな、ゆっくり朝に寝てもいられぇんだよ。
殺したくなるぜ、まったくよ」と、村中大将が吠えていた。
鹿に惚れられて、女房に逃げられ最後には病院行きとは、まさに離婚者は早死にをするか病人になるかと言う証拠なのかも知れない。
みなさん、一度チックして見てはどうですか?
「君が居り われを支える ありがたさ」と言う、感謝の念を持って共に仲良く生きることが、やはり肝要かと思う次第である。










突然、お邪魔してすみません。
大方の人間は、ご自分の死と死後の世界のことをあまり深く考えていません。
私は、21歳の時に聖書に出会い、生きる意味を初めて知りました。
また、死後の世界のことも知りました。
死の備えもできていますので、いつ死んでも怖いことはありません。
今、70歳の老クリスチャンです。
一度、ご訪問下さい。