さて「最近の若者は」と言う、言葉の反対の言葉を問い掛けた人がいた。
その言葉は、「近頃の年寄りは」だった。
ところで、どっちにしろこの「最近の若者は」と言う何となく批判的なこの言葉は、いつの頃から使い出されたものなのだろうか?
ある文献によると、かなり古い時代からのもののようである。
哲学者である古代ギリシャの、プラトン以前の話しに遡るようである。
なんと、紀元前1680年代とのことである。
現在のトルコに位置する辺りに、「ヒッタイト王国」なる国家があつたらしい。
その時代に残された粘土板に刻まれた書簡に、「最近の若者は」と言う苦情と言うか嘆きと言うか、はたまた批判とも受け取れる言葉が記述されていたと言うから面白い。
この現代でも通じる言葉は、その後何に対するご不満か知らないがプラトンも愚痴がましく述べている。
さてである、この若者批判でもあり時には愚痴でもあるこの言葉とは、大よそ見当違いの言葉がある日飛び出した。
我が園に通う園児のお父さんが、子供のお迎えのさいに言い出した言葉だ。
「あのジジィめ、適当なことを言い出しやがって、偉い面倒な時間を取られましてね、しかもお巡りさんまで呼んでですよ。
イチャモンもいいところだ」と、憤慨していた。
「どうしたね、事故かい?」と、聞いてみた。
「それがね、十字路だったんですがね、左折しょうとしたならね、曲がろうとしたその直前に、10トントラックが停車していたんですよ。
それでね、大きくカーブを切らないことにゃね、曲がれ切れないと思ったんです」と、宅配のお父さん。
「そんなもんでね、一度バックして曲がり直そうとしてね、バックにギァを入れた瞬間にね、コツンと言うような微かな音がしたんですよ。
変に思って車から降りてね、後にまわったなら軽の乗用車が私の車と接触していたんですよ」。
問題は、これからだった。
確かに、バックにギァを入れたことは事実である。
だが本人曰くには、一歩も車は動いていないと言う。
ところが、後の車はバックによって衝突されたと主張してきた。
その衝突したと言う傷を見たら、軽自動車の前のバンパーに微かに豆粒ほどの凹みが見えた。
園児のお父さんの車は、アルミ製で出来た長方形の2トン車である。
そんな関係で、一度はバックミラーで後方確認をしたらしぃが、後の軽自動車を確認できなかったと言う。
軽自動車は、自分の車に近づき過ぎて両サイドのバックミラーに写らなかった。
要するに、車間距離違反だと主張して踏ん張ったようだった。
相手は、バックによる追突だとこれも強気の主張だった。
この軽自動車の運転者は、どう見ても73,4に思えた。
場合によっては、「メガネの携帯の義務」もあるものと踏んだ。
その時点では、このお爺さんはメガネをかけていなかった。
話しをしているうちに、ポケットからメガネを取り出してその小さな窪みを確認していた。
取りあえず、事故だと言うのでさっそく近くの交番に携帯を入れた。
30歳前後のお巡りさんが、自転車でゆっくりと現場に現れた。
「人身事故じゃないってな、どれ、どこにぶつかった?」。
二人ともが、返事に窮した。
どっちがぶつけたかぶつけられたのか、意見の統一をまだ見ていないのである。
二人の言い分を聞いていたお巡りさんは、
「とにかくなぁ、事故と言ってもこんなやっと見える傷じゃーさ、今のことでのことだか、あるいは前からあったものか判断に迷うな。
双方の意見も違うしな、事故証明も難しいなぁ。
どっちも、保険に入っているんだったな、保険屋同士で、話しせいや、な?
バックが原因か、後の車が曲がるものと思い込んでさ、あるいは突っ込んでしまっとも考えられねぇ訳でもねぇしな、これは難しい判断だなぁ」と、お巡りさんが匙を投げた言い方だった。
それから4,5日して、この軽のお爺さんから電話があったという。
その内容は、調停にかけると言うものだった。
人に怪我も無い上に、傷と言っても微かな小指で押したような本の小さな窪みだった。
お巡りさんじゃないが、いつ突けた傷なものか判断に迷うほどのものである。
保険会社同士でも、判断に迷っていたらしい。
そんな時、ハッと思い当たることを思い出した。
自分の車の高さである。
と言うことは、トラックの後のバンパーは低車と言ってかなり低いはずである。
であれば、後の車の前のバンパーの上ではなく正面なはずである。
と言うことは、軽自動車の全面部分と言うことになり即ちバンパーと言うことになり、どう見てもトランクの上に当たると言うことはあり得ないことになる。
これは可笑しい話しだと、気がついたのであった。
その疑問を早速に、保険会社に報告した。
それから一週間も経ってから、相手がバンパーを新しくしたからその代金を払えと言ってきた。
その取り外した古い方のバンパーは、鉄屑屋にくれてやって今は無いと言う言い分だった。
普通なら、こんな程度のことだから各自で修理しましょうとか、大したことではないからお気に召さないようにとかと言うものである。
どう考えても、無理やり事故にしたい意向には若い彼は怒り出した。
「こうなったら、一銭なりとも応じられねぇ、頭に来ましたよ。
今時の年寄りは、始末におえねぇもんだね。
あのジジィめ、メガネを掛けていなかったから、車間距離が判らなかったんだ、きっと。
あんな年寄りに遣るこたぁーねぇや、年金なんてもったいねぇや!」と、憤慨していた。
こう言った年配者ばかりではないだろうが、時には自分の主張を曲げると言うことの無い頑固な人もいる。
とは言え、「事故証明」が出ないではどちらがいけなかったのか判らずじまいであろう。
よって、保証の仕様もないであろう。
と言うことよりも、傷ついたと言う証拠品を「くれたやった」は矢張り無いであろうと思った。
さて皆さんは、どちらの意見に賛成だろうか?
「無理やりに 唱えた意見 手に余し」、だったのだろうか?









