本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

聞くということ

2017-04-19 20:55:10 | 住職の活動日記

食堂でのことですが、

席が近かったせいか、

隣で話す声が否応なしに

耳に飛び込んできます。

聞きたくもない話ですが、

まあ、大きな声でよくしゃべる

それも聞いていると、

一人が喋れば次に相手が喋る

ただ喋っているだけ

話しのキャッチボールもできてないし

話が展開しているようでもない

関西ならまだしも笑いもあったり

落ちもあったりするのですが

沈黙が耐え切れないかのように

話し続けているという光景に

出くわしました。

 

よく三浦先生からは

人の話を聞くときには

心を無にして全身を耳にして

身体中で聞きなさい

といわれたものです。

保護者会や生徒に話されるときにも

身体中を耳にして聞いてください。

と話されています。

 

話を聞く、

なんだか当たり前のようですけど

本当はとても難しいことのように

思います。

人の話を聞くということは

ただ聞き流すのであれば

別ですけど、

本当に聞くとなると

自分を無にして

自分の固執を捨てて

相手の立場に立って聞かなければ

聞けないものです。

 

聞くということが大事な修行の

第一であるということは

本当に聞くためには

まず自分の固執(煩悩)を

一時捨てなければ聞けないものです

修行は「聞・思・修」

といわれるように

聞く耳を育てていくということが

一番の修行です。

 

しかし、

今の風潮を見ていると

聞く耳を育てるということは

逆行しているようにも思えます。

国会においても

お互いに自分の言いたいことだけ

言って相手の話は聞かない

何も話が進展しない

ただ持論を言い張るだけ

後は数の論理で押し通す。

 

最近の若い子は

話をするというだけでなく

ただ自分の言いたいことだけ

言うだけ

というような気がします。

話を聞くという習慣が

育っていないような

自分の主張だけは上手に述べる

そういう習慣があるようにも

思うのですが、…

 

物事を調べるにしても

好き嫌いを越えて

実験観察しなければ

ものそのものの声は聞こえてこない

何をするにしても

聞く耳が育たなければ

何もできないような気がします。

映画を見るにしても

お茶を頂くにしても

お料理を頂くにしても

聞く耳を持たなければ

本当の姿は見えてこないでしょう

 

聞く耳を持つということは

自分の煩悩をどれだけ対治できるか

自分をどれだけ否定できるか

ということです。

自分を肯定した立場では

絶対に真実の姿は見えてこない

ということです。

 

色々な話も

音も

聞こえてきます。

そこに真実な声を聞き取る

それには「聞く」という修行が

一番難しいのです。

 

唯識を見ていると

ここまでも人間の煩悩を

見抜いているのかと驚かされます

そうするとわが身は煩悩だらけ

どこにその煩悩を脱する道は

あるのか?

経典では「依附している」(えふ)

とかいてあります。

小さな種が仏の心にくっついている

その種を聞くことによって

仏の種を大きくしていくのだと、

だから仏心を開くには

聞法、法を聞くしかない

ということが述べてあります。

 

聞くということ

たかが聞くことかもしれませんが

されど一番大切な行なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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