本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

仏の質と量

2017-06-09 15:46:33 | 住職の活動日記

仏教というのは

全編が修行ということで貫かれて

いるのではないかと思います。

般若心経といっても

般若波羅蜜、波羅蜜という行です

六波羅蜜という六つの修行です。

 

修行する人を「行者」といいます

インドの言葉ではアーチャリヤ

阿闍梨(あじゃり)さんです。

真言行者とも浄土の方では念仏行者と

仏教を信じるということは

ただ傍観的に眺めているのではなく

実践するということが肝心です

だから広くは仏教を志す人は

「行者」阿闍梨さんです。

 

その中で、

お経の中に特に『唯識三十頌』に

「稽首唯識性 満分清浄者」

(けいしゅゆいしきしょう

 まんぶんしょうじょうしゃ)

と出て来ます。

「満と分」

ということがありますが、

「満」とは仏さまのこと

「分」とは私たちのことです。

 

ほとけ様と私たち

質という点では同じです

ところが

量という点においては違うのです

質は同じですが量が違う

 

私たちと神さま

これは質も違うし量も違う

神と人間とは質が違うのです

どんなに修行しても

神様になることはできません。

 

仏さまは私たちと同質です

だから

修行して仏になることができます

 

「満」ということは

法を完全に証して清浄になった人

ということです。

それに対し「分」とは

一部分を証した人ということが

できると思います。

 

得度して、修行に入る僧侶

面魂から清浄でまるで仏が

光臨したような雰囲気です。

「初発心時、正覚を成す」

ということがあります。

 

志(発心)を起こした時すでに

もう仏のさとりがきているのだと

ということがあります

確かにそうなんですが

それはほんの一部分が見えただけで

そこから修行が始まっていくのです

 

仏の心をいただいて

仏の修行をして行く

俗のままの心では修行はできない

のです。

俗の心を修行により

清めていくのではなく

仏の心(分)で修行し

それをさらに磨き

仏の心(満)にしていくのです

俗の心からは絶対仏の心は

出てくるものではありません。

仏の心がさらに仏の心になっていく

それが仏道修行だと思います。

 

『十地経』という経典も

全てが修行の行程を説いています

結論的には

修行して仏になるのではなく

修行していることが仏なのだ、

と言えるのではないかと思います。

 

よく、面白い表現ですが

こういうことを言います。

「普通は東京へ行く」と

ところが、唯識的には

「東京が来る」と

こういう言い方になると思います

東京へ行こうと思ったときには

心の中にはもうすでに

東京がきているのです。

東京へ行ったらあれしてこれして

なに食べてと、

もう心の中はすっかり

東京で一杯になっている。

 

オリンピックを目指す若い選手たち

心の中にはオリンピックがきている

その心を頂いて練習に励むのです

我武者羅にやるわけではありません

その心を頂いているからこそ

練習が清浄になるのです。

 

何やるにしても

到達点をめざす、というか

到達点の心を頂いて

目指していくのです

そうでなかったら

段々にではなく

到達点という仏の心が

あればこそ修行に励むことができる

というように思います。

 

人間と仏は異質なものではありません

同じ心が流れる同質なものです

ただ、量が違うということです。

そこに

修行の大切さも出てくるのでは

ないかと思います。

到達点という結果はないのです

その道程が仏の行なのでしょう

ほとけING、BUDDHAING

(勝手に造った造語ですが)

というものではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

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