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極下衆!?

よくテレビの芸能ニュースでは

「ゲスの極み…」なんとかという

名前というかグループ名でしょうか

耳にします。

よくこういう名前を付けたものだと

私たちの世代のものにとっては

一種の違和感を覚えます。

 

下衆・下種(げす)という言葉

とても嫌な言葉でした。

「下衆な根性」とか

「ゲス野郎」とか

人を侮辱した言葉です。

 

しかし、

漢字で書いてみると

「下衆」とも「下種」とも書きます。

それに対しては「上衆」(じょうず)

という言葉もあります。

ふと、漢字を見て思うのですが

「下衆」、下の衆生

ということにもなりはせんかと?

こんな言葉はありませんが、

「下種」、下の種子

種子(しゅじ)とは

物心すべての因と成るもの

という意味もあり、

考えようによっては深い言葉かも?

 

まったく意味合いは違うのですが、

昔のお祖師さまのなかには

愚かな禿げ頭という意味で

「愚禿」と名乗られた方も

いらっしゃいます。

あえて自分のことを愚かと

これは絶対の自己否定から

生まれ出た言葉でしょう。

 

ある面、

人間の根性は、

すぐ人と比較するし、

わしの方が上だろうと誇るし、

でなきゃ卑下するし、

また何かやったらその報酬を

要求するというように、

下劣というかゲスな根性しか

持ち合わせていないのです。

反対にちょっといいことをすれば

すぐ得意になる。

その心が人を小さくすするし

小さな世界に閉じ込めてしまうのです。

 

よく、人間の尊厳性ということを

いいますが、

そこには厳粛性ということも

考えなければいけないと思うのです。

一人ひとりの人間は誰とも

代わることの出来ない存在である

というところに、

一人の人間の厳粛性があるのでしょう。

そこには、

自分には自分の責任がある

ということです。

また、尊厳性ということは

考えて出てくるものではなく

実践として生まれてくるものです。

人間の尊厳性ということを

声高々に言っても、

やることなすことゲスな行いであれば

そこには尊厳性は生まれてきません。

 

自己関心で小さな個にとどまって

いる限り、私たちは

ゲスな根性しかないのかもしれません

下衆、下の衆生なのです。

その自覚から

聞法という教えを聞く

という行が始まり、

初めて自己関心が破れて、

一切衆生とともにという衆生関心が

生まれてきた、

その喜びが「初歓喜地」、

初めて自己関心が破れたという喜び

 

そこから、

「上衆」(じょうず)ということが

生まれてくるのかもしれません。

 

極下衆(ゲスの極み)

ということも、

私たちの世代からすると

毛嫌いする言葉かもしれませんが

静かに思い直してみると

私たちはゲスな根性しか

持ち合わせていないのかもしれません。

であればこそ、

なおさらその行いにおいては

尊厳性のある行に励まなくては

ならないのでは、

どうせ、

ゲスの極みと居直るのではなく

一人ひとりはかけがえのない

厳粛な存在なのです。

 

一人の人間として責任を

背負っていくところに

人間として生まれた価値を

見出していく、

その行が尊厳性を生み出していく

ということではないでしょうか。

 

下衆ということも極めていけば

おもしろい!!

 

 

 

 

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