本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

投了(とうりょう)

2017-07-29 21:18:07 | 漢字

「投了」

この言葉も最近知りました。

藤井聡太四段、連勝記録が29で

止まりましたが、

この将棋とか碁の世界では

自分が負けました、ということを

言わないと勝負がつかない

そのことを「投了」というのです。

 

漢和辞典には出ていますが

もっぱら日本で使われるようで

中国では使われないようです。

 

「負けて勝」

ということもありますが

やはり、

負けるということは悔しいものです

しかしまた、

本当に負けを認めることができる

ということは

明るいものでもあります

 

師匠から叱られるというか

バッサリ切られるというか

まあ、よくぞそこまで

見抜いてくれたというか

自分自身でも気がつかない

ところまで見抜いて

そこを指摘される

おこられたというより

名刀で切られたようなもので

スッキリした気分にもなるものです

 

『十地経』のなかに

「過地」ということが出て来ます

「過」には(すぎる)という意味

通過するというような、

それと、(あやまち)という

意味もあります。

過失とかいうような、

 

地を過ぎて行く、ということは

初地から二地というように

地から地へと乗り越えていく

ということは

そこには必ず難関があって

ただ梯子段を上がっていくような

簡単なものではないのです

過失を見いだせた時

初めて乗り越えることができると

 

十地経の講義の中では

「過失を外に見ている間は

 自分は歩んではいない

 ただ不足を言っているだけ

 過失を自分の中に見出した時

 初めて歩みが出てくる」

と言っておられます。

 

なにかしら、

「投了」ということも

ただ悔しくて負けました

と言うのではなく

本当に自分の負けが明らかになる

明るく認められるのでは

ないでしょうか

 

地から地へというとき

「前のものが完成したことが

実は次のものを引き起こしてくる」

と、言っておられます

負けを認めるということは

今の現在の自分がそこで完成した

それによって

もう次のものを引き起こして

来ているということでしょう

 

勝負の世界と仏道の世界とでは

同じ負けるということも

違った意味合いがあるのかもしれませんが

自分自身の道を極める

ということに於いては

同じことかもしれません

 

「負けました、

とはっきり言える人は強くなる」

と、谷川浩司九段という方は

おっしゃっています。

 

「過」という過ちを

自分自身の中に見つける

すると、

次へと過ぎて行くことができる

ということでしょう

 

「投」には擲つ(なげうつ)

という意味もあり、

「了」にはおわるという意味と

さとる、理解する

という意味もあるようです

心から負けたものには

自分を擲つことができ

本当の自分をさとることができる

というような

深くも捉えることができるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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