忘備録の泉

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近代ヨーロッパの覇権(6)

2017-03-13 10:31:47 | Library
イギリスを先頭にして経済構造は、それまでの農業経済中心から、工業化を経て産業経済中心へとシフトしていく。
イギリスが先頭を切った工業化と産業経済中心への構造転換にたいし、ほかの国々も手をこまねいているわけにはいかなかった。
後発の資本主義国家は、先行して圧倒的に優位を占めているイギリスの経済力に押しつぶされないように、自らも経済の合理化や工業発展を実現しなければならなかった。
無為無策でいるならば、イギリス資本主義経済の支配下に組み込まれてしまう危険は大きかったから、それを意識した国や企業は、政策的誘導や政治的干渉のもとに工業化を急ごうとするようになる。
19世紀が殖産興業・富国強兵を旗印にしたのは、明治日本だけではない。
ヨーロッパの少なからぬ国々が先行して採用した共通の政策であった。
19世紀のイギリスは「世界の工場」といわれるように、繊維製品などの消費財を輸出していただけでなく、各種の機械や機関車、石炭などの輸出でも他国を圧倒していた。

1870年代半ばから90年代にかけて、世界は同時的な大不況に見舞われた。
進みはじめた自由貿易体制も崩れ、保護関税体制下での覇権争いへと転じていく。
経済覇権争いを激化させていく欧米諸国は、みずからの意図を貫徹するためには武力をもってしても世界各地に展開し、「富国」という国家目標を追求するためにとられた「強兵」政策は軍備拡張を進めた。
その結果、欧米諸国は相互の疑心暗鬼と相互牽制とから、軍拡競争と軍事同盟関係の模索という消耗で非生産的な方向へと向かってしまった。

19世紀をとおして第1次世界大戦にかけ、ヨーロッパ諸国による植民地帝国形成への動き、植民地争奪の展開は激化する。
この植民地帝国形成の先頭に立ったのは18世紀を通して優位を確保していたイギリスである。
そのイギリスを追ったのは、フランスであった。
後れて統一国家を実現したドイツやイタリアも、遅ればせながら植民地帝国形成に参入した。
とりわけドイツは、強力な富国強兵政策を遂行することによって、植民地争奪における台風の目のような存在となった。
ドイツによるイギリスとの軍拡競争、モロッコをめぐるフランスの展開への介入が、国際政治にあらたな不安定要因を加えていく。

独仏戦争後に、ドイツとフランスとの鋭い対立はいっそう増幅した。
ドイツはオーストリアと軍事同盟を結ぶと、さらにイタリアを巻き込んで「3国同盟」を結成した。
ドイツの強硬な軍事姿勢、外交姿勢に危機感をもったイギリスは、長年対立してきたフランスとの関係を見直し英仏同盟を結ぶとともに、ロシアとも英露協商を締結した。
これらの英仏、英露の協調関係は、仏露同盟とあわせて「3国協商」という同盟関係を結んだ。

政情不安定であったバルカン諸国を舞台に、独立や勢力圏をめぐる戦争が勃発した。
バルカンはオーストリアの膝元であり、こうした状況下でボスニアの首都サラエヴォを訪問していたオーストリアの皇太子夫妻がセルビアの青年に暗殺されるという事件が起きた。
オーストリアはセルビアに宣戦布告し、ロシアはセルビアを支持して総動員令を出すと、ドイツはロシアに宣戦布告、さらにロシアとの同盟国フランスに対しても宣戦布告した。
こうしてひとつの暗殺事件が大戦争を引き起こしていった。

(つづく)

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