第八図「人牛倶忘」
これは、本物氣功を学び、本物の氣を浴びて、私なりにインスピレーション(閃き)を得て組み立てた推論です。これはあくまで私なりに出した個人的見解であり、一つの意見、感想であると思っていただければありがたいです。では、第八図の「人牛倶忘」という題の三つの意味に沿って説明します。
1.「人牛倶忘」 1つめの意味 : 人や牛(本当の自分)を共に忘れるほど、人知を超えた力により、クリーニング(浄化)される(空の世界に入る)。人知を超えた力への最接近に伴い、強力なクリーニング(浄化)、好転反応、洗心が起こることを示す。
第八図は丸しかありません。これを見て、私の最初の直観では、これは青年が人知を超えた力に最も接近したことを表す象徴的表現だと思いました。第七図で迷いの世界にいた青年は、この第八図において、第七図までに形成した深い力みと心の人工物をある方法で手放していき(ある方法については次の2で説明します)、人知を超えた力と同調しながら近づいていき、近づくにつれ、自分という存在が丸ごとクリーニングされていきます。その過程で強い好転反応と深い洗心が起きます。そして最も人知を超えた力に近づいたときは、例えていえば、究極のコインランドリーに入れられ、ぐるぐると丸洗いされるような状態になるのではないかと思います。丸洗いされるとき、青年は人であることと本当の自分を忘れるのだと思います。第八図で、ついに青年は人知を超えた力に最も近づくところまで行き、心の中にあったすべての不自然な人工物(例えば、プラス発想の強化、きれいごと、使命感、修行しようとする心、理想にこだわる心など)は、人知を超えた力によって、完全に解除、解体され、クリーニング(浄化)されるのだと思います。この時、自動的に青年は空の世界に入るのではないかと予想されます(青年が入ったであろう空の世界については、残念ながら、私は今だかつて一度も入ったことがなく、本当のところはわかりません)。
ここで初めて、どうして一旦は人は迷うことになるのか、という理由が解明されます。何故人は迷うのか、それは、一旦迷わなければ(力み、不自然にならなければ)、空の世界に入るだけの解放のパワーは生まれないからです。だから、第六図において、牛(本当の自分)は青年を家(人工物の構築、力みと不自然)の方へと連れて帰るのです。それは、空の世界への解放のパワーを青年にたくわえさせるためだったのです。ここに青年が一旦迷うことになる深い理由があったのです。この気づきに至れば、ついに迷いもまた必要なことであったと自分の人生を全肯定できるのです。迷いや力みも空の世界に入るための必要なパワーだったのです。
2.「人牛倶忘」 2つめの意味 : 人や牛(本当の自分)を共に自然に忘れることで、人知を超えた力と同調していく。人工的、人為的な作為を自然にやめることで、人知を超えた力と同調していくことを示す。
私の直観では、この第八図は、本物氣功の謎とそれを解く鍵が隠されていると思います。何故気の操作をせずに、脱力して、手を当て、感覚だけにして待つと、人知を超えた力がやってきて、エネルギーブロック(気のつまり)が排出されるのか、私は不思議に思っていましたが、そのはっきりとした答えがこの図にはあると思います。
それを説明する前に、第一図から第七図に隠された意味をみてみます。その隠された意味とは、第一図から第七図までの全体が、無作為ではなく、人為的手段に頼り、何かしている(しようとしている)ことを示す図ばかりであるということです。第一図から第七図に共通していえることは、何かをしようとしている、何かになろうとしている、ただ在ることができないという状態であることを表しています。その多くが何かに向かって心と体が動いて静止していない図になっています。それらの図の中では、青年はただ在るということができず、何かしよう、何かになろうとするので、知らずに無理をして不自然になり、第七図では、心に人工物、体に深い力みが形成され、いずれ身動きがとれなくなり、祈り、何かにすがるしかなくなります。それを解決する唯一の方法は何でしょうか?それとは逆のあり方をすればよいという結論に達します。まさしく第八図で、この青年もまた、同じ方法をとったと思われます。では、中に何もない、この丸い絵だけの図に込められているメッセージとは何でしょうか?ちなみに、第一図から第七図までは思考想念(大脳)が中心に動いている世界、第八図は思考想念(大脳)がお休みしている世界と、対比的に見ることもできるでしょう。
ついでに、ここで、「人牛倶忘」という題の2番目の意味が見えてきます。それは、人や牛(本当の自分)を共に自然に忘れることで、人知を超えた力と同調しようとしたのではないかということです。人や牛(本当の自分)を共に忘れるというのは何もしない状態になっている、という意味にもとれます。そして、これこそ、青年がとった方法だと思います。そして、同時に1.で述べたクリーニング、好転反応、洗心が起こるためにも必要なことが、何もしないということだったのだと思います。
第八図において、青年がとった方法とは次のようなものだったと私は思います。迷いの世界で無理をし、努力し、がんばること、これらすべては不自然で、無駄な努力だと気づき、すべてやめようと思い至り、心の人工物と体の無駄な力み、人工的な操作、無駄なあがきをやめようとしたのではないか。目的に対して動こうとする動きそのものを丸ごと投げ捨て、目的も捨て、作為を一切やめて、何もしない、考えることもやめ、思考想念を一切放棄するという結論を出し、それをやってみたのではないだろうか。そして、何かに向けて動こうとする意識や思い(思考想念)を手放し、放棄し、作為を一切やめ、考えることをやめることによって自動的にただ在る(何もしない)という状態に入ったのではないだろうか。そんな風に感じます。
さらに、第八図をじっと見ていて、インスピレーションが湧きました。ああ、人知を超えた力もまた、ただ在るんだなあと思いました。本物氣功のあり方について、松本さんは、手を当てるだけで「何もしない」とさかんにおっしゃいます。この「何もしない」は、裏を返せばただ在るということです。“ただ在る”状態の人知を超えた力と共鳴共振(シンクロ)を図り、現実にどんどん出てきてもらうには、我々人間もまた、何もせず“ただ在る”状態に入る必要があるんじゃないかと思いました。本物氣功において、自ら脱力し、何もしない(ただ在る)ことを練習し、その感覚をつかみ体得していくことによって、人知を超えた力と同調し、その同調率、シンクロ率の割合を少しずつ上げていくことを、松本さんは「パワーアップ」と呼んでいるのではないかと思いました。
第八図の題「人牛倶忘」(人も牛(=本当の自分)も共に忘れる)には、作為を自然にやめて自然で中立的なあり方を現わすという本物氣功と共通のテーマが隠されていると思います。第八図には、ただ座り続けることで、何もしない(ただ在る)ということを現わしていた当時の先人たちの真摯な思いも込められています。本当にご苦労様でしたと私は言いたくなります。しかし、今は、ただ座っているだけでは仕事にならないし、生活もできないので、それだけを一日やるのは現代向きではありません。ただ座り続けることの代わりに、今は本物氣功が何もしない(ただ在る)ということを実現させてくれるのです。本物氣功のあり方を実践すれば、何もしない(ただ在る)ことの練習ができますし、仕事にも役立ち、うまくいけば仕事にもなります。その結果、生活もできるので一石二鳥だなぁ、いい時代になったなぁと思います。
人間として、生きる力のパワーアップもまた、本物氣功で成し遂げられることだと思います。生きる力をアップさせるには、人知を超えた力との共振共鳴度を上げることが必要であり、人知を超えた力との共鳴とその力の現実への出現は、本物氣功のあり方の実践で可能となるからです。この本物氣功のあり方、何もしない(ただ在る)ことの練習次第で、生きる力もつき、日々パワーアップ、レベルアップしていけるので素晴らしいことだと思います。
松本さんは、今、現在の本物氣功のあり方、手を当てるだけで何もしない(無作為)ということに至るまでに、きっと色々と模索され、その結果、今のスタイルに到達され、本物氣功の氣を出せるようになったのだと思います。本物氣功の氣は無作為の氣であり、氣の操作は一切しないので、松本さんはいつも手を当てるだけで何もしない、感覚だけにして待つとおっしゃるのだと思います。私なりに理解していることは、何もしないということは、ただ在る状態であるということであり、ただ在るというこが真に体得できればできるほど、その人からは本当の氣が自然に出るといことなのだろうということです。
第八図の青年の体験を現代風にまとめていうとこうなります。
“自分の体と、自分の心と、自分の意識の隅々から、つまり、自分という全存在の隅々から、家族の中において、または社会に出て、それらに適合するために、身につけてきた、自分自身に対するコントロール(自己支配)をすべて外し、もともと自分の中にあった、もとの自然な状態に戻した時、多分人知を超えた力と完全に同調する状態に入る。”
このもとの自然なあり方、状態に戻すために、本物氣功のあり方が非常に有効な手段となるのは、私の本物氣功体験(今も継続中ですが)からいっても、ほぼ間違いありません。私なりに自分にとっての自然さ、ナチュラルさが表れる本物氣功のあり方をまとめると、次のようになります。
“本物氣功のあり方の基本である、脱力して感覚だけにして待つ、あとは何もしないという状態とその感覚が自分の中に確立されればされるほど(体得されればされるほど)人知を超えた力が、向こう(あちら)から私の方(こちら)へやってくる、(結果的には引き寄せる、あるいは出現する)。その確立度が上がり、人知を超えた力が現実に現れれば現れるほどその人はその人にとっての自然さ、ナチュラルさに戻っていく。 ”
この本物氣功における状態と感覚の在り方の確立度が上がり、その人が自然でナチュラルになるにつれて、自動的にパワーアップし、ふわっと当てた手のひらから自然に出ている氣の中に、人知を超えた力が現実に出現し、自然に本物の氣が出る割合(パーセント)もまた徐々に増えていくのではないかと予想されます。
第八図での青年もまた意識的にも無意識的にも、色々な作為をしていたことに気づき、自然にすべての作為を手放し、余計なことは何もしようとしない、ただ在ること、という状態になるのだろうと思います。そのような状態になっていくことで、青年に自然さ、ナチュラルさがどんどん現れていき、青年もまた、自分にとっての自然さ、ナチュラルさを取り戻していくのだと思います。そして、多分、青年の在り方は、自然に第九図へとつながっていくのです。それは安らぎのの中に静かに自然にナチュラルにただ在ることができるという状態だと思います。この時、青年からは純粋でピュアーな本物の氣が自然に出ることになるのだと思います。
推測ですが、第一図〜第七図での在り方のように、何かをしようとすると、人知を超えた力ではないもの(不自然なもの、エゴの肥大化による、コントロールしようとする力みたいなもの)が気づかずに、無意識に氣の中に入り込んでくるのだと思います。それが心の人工物(人工的な有り方)、不自然なあり方、コントロール(支配)しようとする心などを形成し、その人を支配し、その状態が不自然なため、エネルギーブロック(気のつまり)の発生と蓄積の大きな原因の一つとなっているのではないかと思います。こうして蓄積されたエネルギーブロック(気のつまり)をよくする方法は、まとめると以下のようになります。
“自分の痛み、苦しみを自分で何とかしようとしない、作為を手放して、ただ在ること、自分からは何もしない。”こういう心の状態が確立されると、その人のあり方そのもの、ただ在る、という状態が人知を超えた力(ただ在る)と共鳴共振し、人知を超えた力が自動的に出現し、その痛み、苦しみのもとであるエネルギーブロック(気のつまり)を排出してくれて、結果的にその人は良くなってしまうのではないかと予想されます。これが自然体、あるがままということの持つすご味であり、本質であり、本当の意味だと思います。
3.「人牛倶忘」 3つ目の意味:(空の世界においては)人や牛(本当の自分)を忘れるので、空の世界はわからない。人知を超えた力はわからないということが悟りである。空の世界や人知を超えた力は言葉(文字)では表現できないことを示す(不立文字)。
第八図で、青年が人知を超えた力の皮一枚まで肉迫し、すぐ近くまで行き、すべての人工物もクリーニングされ、まっさらになってわかることは、感覚は人知を超えた力の痕跡をとらえているに過ぎず、その正体は実は一切わからないという事実なのだと思います。感覚をも超えた世界に人知を超えた力があるので、知ることはできないのです。
ああ、人知を超えた力はどこまでいっても人間には絶対にわからないんだなぁということがわかる。これを悟った時の衝撃で、青年のあり方は質的変化をするのだと思います。それは次のような変化だと思います。
空の世界に対しても、人知を超えた力にしても、最終的には人間にはわからないということ。この事実を完全に心身共に確認して、納得したら初めてわからないものをわかろう、知ろうとする心(意思や思い)の動きと、何かをわかろう、知ろうとする時にどうしても(無意識に)生じる体の力みや緊張を手放すことが、自然に自発的に起こり、そして無作為の状態に自動的になるのだと思います。その結果、わからないものをわかろう、知ろうとするときに生じる心と体の力み、緊張には、青年は不自然さと心地悪さを感じるようになると思います。
第八図においては、空の世界が人知を超えた力は最終的には人間にはわからないのだから、わからないことはわからないままいにしておくことだ、そのほうがよけいな力みと緊張から解放され、必要のない不自然さと心地悪さを味わわなくて済むのだよ、というメッセージが込められていると思います。人間には絶対に人知を超えた力はわからないことを心の底から知ると、人は何もしない(緊張しない、力まない、脱力)状態に入り、完全に力が抜けるのだと思います。このようにして、人は茫然自失(=人牛倶忘)的な心身の脱力感と自然発生的な無作為の状態を迎え、そこに自動的に入るのです。
これが、何もしない、ただ在るということに極力努める、そうあろうとする状態から、力みも緊張もなく、自然な形で、ただ在ることができる状態へと移行する大きな気づきの切り替えポイントとなり、ついに本物の氣が自然にかつ完全な形でそのままその人自身から現れ出る状態(第九図≒返本還源)を迎え入れるのです。
第九図(梅の花のみが咲いている図、返本還源)においては、もう作為をなくそうという意識もなく、悟ろうという意識もありません。余計なことは一切しなくとも、あるがまま無作為、無為自然、自然回帰、という状態が起きているのです。これが自然体としての自己像の完成であり、自分にとっての真の自然さ、ナチュラルさの確立なのです。