曙 町 か ら

一立川市民の
ご近所・町内
観察日記





since 2005

緑町 跡地

2007-10-31 | sketch/単発記事・短期連載/その他
ファーレに損保ジャパン立川ビルが建っている。その北隣りの
緑町に属する土地は、最近まで屋外駐車場として使われていた。
駐車場が閉鎖されて、舗装部分を解体工事しているのだが、そ
の様子がこの二枚の写真。


昔この場所に建っていた格納庫の写真が「失われた近代建築 in
TOKYO」というサイトのこのページに掲載されている。
1995年の撮影との事だが、モノレールの線路と、手前にはファーレ
の整備された歩道が既に出来上がって写っている。上二枚の写真は
そこに写っている歩道上の車止めの位置から撮影した。
goo地図

富士見町 残堀川に流れ込む湧水

2007-10-30 | sketch/単発記事・短期連載/その他

中央線下り電車は、立川駅を出て残堀川の鉄橋まで半地下の
線路を走っている。写真は残堀川の鉄橋。
地面を掘削して線路を敷設する際に大量の地下水が出た。こ
の付近の地形は段丘になっていて、湧き水が豊富であった為
だが、当時の様子は立川村十二景にも描かれている。


この絵は地下水が線路に流れ込まないように、根川へ逃がして
いるようだが、当時の根川は現在の残堀川と流路が重なるよう
だ。
つまり根川が天然の河川であったこの時代はここを流れ、残堀
川は(何度か流れるコースを変更したと言われている)もっと
立川駅寄りの場所を流れていた。


そしてその地下水は、今でも鉄橋横の排水口から残堀川へ注いで
いる。goo地図

日野煉瓦(3)

2007-10-24 | sketch/連載/その他
多摩川の河川敷にて。中央線鉄橋の橋脚の内、何本かはまだ
甲武鉄道開通時の煉瓦が残っているようだ。


こちらは橋脚ではなく、日野側の護岸部分。煉瓦が見られる。
検索してみたが、これも日野煉瓦製かどうかは不明だった。だ
が、橋脚の煉瓦と見比べて風化具合が同じである事、鉄橋の工
事を行う際に同じ部材を別業者に発注するのは考えにくい事な
どから、これも日野煉瓦製であると思われる。


goo地図

日野煉瓦(2)

2007-10-23 | sketch/連載/その他
昨日紹介した「広報ひの」の資料によると、日野煉瓦製造所は
明治20~21年設立。そして2年間だけ操業し、社長の急死によっ
て廃業している。


甲武鉄道の新宿~立川間開業が明治22年4月11日。わずか4ヶ月後
の8月11日には立川~八王子間が開業している。つまりこの跨線橋
が造られたのは118年前という事になる。


線路の反対側には煉瓦は見られなかった。goo地図


日野市大坂上 日野駅

2007-10-20 | sketch/単発記事・短期連載/その他
昭和十二年に出来た駅舎らしい。以下、JR東日本のサイトより引用

<「昭和初めの面影残す木造駅舎」
 日野駅の開業は明治23年で、現在の駅舎は中央線の複線化(昭和12年)を機に建築
 されたものです。外観はその頃の駅周辺の風景に溶け込むように、武蔵野の民家風
 にしたというのが通説。現在もほとんどそのままの姿を保っており、入母屋造りや
 太い丸太の柱が駅の年輪を感じさせます。>

周辺の景色に溶け込んでいたのは何時頃までなのだろうか。
今では「昭和初めの~」と形容する程までに、廻りの風景は変わった。
goo地図


日野市日野 馬頭観音(1)

2007-10-18 | sketch/単発記事・短期連載/その他
甲州街道の新奥多摩街道入口交差点から、少し北へはいった場所に
馬頭観音がある。街道・古道沿いには、馬頭観音や庚申塚が見られ
るが、このケースは少し離れすぎているように思う。
甲州街道は多摩川の氾濫で、何度かその道筋を変更している。旧道
がこの前を通っていたのではないか。


前の道を北上すると、立日橋南詰に出る。そこはかつて日野の渡し
場があった場所で、旧道はそこからこの馬頭観音を通って日野宿へ
向かっていたのだろう。


goo地図