中央線下り電車は、立川駅を出て残堀川の鉄橋まで半地下の
線路を走っている。写真は残堀川の鉄橋。
地面を掘削して線路を敷設する際に大量の地下水が出た。こ
の付近の地形は段丘になっていて、湧き水が豊富であった為
だが、当時の様子は立川村十二景にも描かれている。
この絵は地下水が線路に流れ込まないように、根川へ逃がして
いるようだが、当時の根川は現在の残堀川と流路が重なるよう
だ。
つまり根川が天然の河川であったこの時代はここを流れ、残堀
川は(何度か流れるコースを変更したと言われている)もっと
立川駅寄りの場所を流れていた。
そしてその地下水は、今でも鉄橋横の排水口から残堀川へ注いで
いる。goo地図
多摩川の河川敷にて。中央線鉄橋の橋脚の内、何本かはまだ
甲武鉄道開通時の煉瓦が残っているようだ。
こちらは橋脚ではなく、日野側の護岸部分。煉瓦が見られる。
検索してみたが、これも日野煉瓦製かどうかは不明だった。だ
が、橋脚の煉瓦と見比べて風化具合が同じである事、鉄橋の工
事を行う際に同じ部材を別業者に発注するのは考えにくい事な
どから、これも日野煉瓦製であると思われる。
goo地図
甲武鉄道開通時の煉瓦が残っているようだ。
こちらは橋脚ではなく、日野側の護岸部分。煉瓦が見られる。
検索してみたが、これも日野煉瓦製かどうかは不明だった。だ
が、橋脚の煉瓦と見比べて風化具合が同じである事、鉄橋の工
事を行う際に同じ部材を別業者に発注するのは考えにくい事な
どから、これも日野煉瓦製であると思われる。
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昨日紹介した「広報ひの」の資料によると、日野煉瓦製造所は
明治20~21年設立。そして2年間だけ操業し、社長の急死によっ
て廃業している。
甲武鉄道の新宿~立川間開業が明治22年4月11日。わずか4ヶ月後
の8月11日には立川~八王子間が開業している。つまりこの跨線橋
が造られたのは118年前という事になる。
線路の反対側には煉瓦は見られなかった。goo地図
明治20~21年設立。そして2年間だけ操業し、社長の急死によっ
て廃業している。
甲武鉄道の新宿~立川間開業が明治22年4月11日。わずか4ヶ月後
の8月11日には立川~八王子間が開業している。つまりこの跨線橋
が造られたのは118年前という事になる。
線路の反対側には煉瓦は見られなかった。goo地図
昭和十二年に出来た駅舎らしい。以下、JR東日本のサイトより引用
<「昭和初めの面影残す木造駅舎」
日野駅の開業は明治23年で、現在の駅舎は中央線の複線化(昭和12年)を機に建築
されたものです。外観はその頃の駅周辺の風景に溶け込むように、武蔵野の民家風
にしたというのが通説。現在もほとんどそのままの姿を保っており、入母屋造りや
太い丸太の柱が駅の年輪を感じさせます。>
周辺の景色に溶け込んでいたのは何時頃までなのだろうか。
今では「昭和初めの~」と形容する程までに、廻りの風景は変わった。
goo地図
<「昭和初めの面影残す木造駅舎」
日野駅の開業は明治23年で、現在の駅舎は中央線の複線化(昭和12年)を機に建築
されたものです。外観はその頃の駅周辺の風景に溶け込むように、武蔵野の民家風
にしたというのが通説。現在もほとんどそのままの姿を保っており、入母屋造りや
太い丸太の柱が駅の年輪を感じさせます。>
周辺の景色に溶け込んでいたのは何時頃までなのだろうか。
今では「昭和初めの~」と形容する程までに、廻りの風景は変わった。
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甲州街道の新奥多摩街道入口交差点から、少し北へはいった場所に
馬頭観音がある。街道・古道沿いには、馬頭観音や庚申塚が見られ
るが、このケースは少し離れすぎているように思う。
甲州街道は多摩川の氾濫で、何度かその道筋を変更している。旧道
がこの前を通っていたのではないか。
前の道を北上すると、立日橋南詰に出る。そこはかつて日野の渡し
場があった場所で、旧道はそこからこの馬頭観音を通って日野宿へ
向かっていたのだろう。
goo地図
馬頭観音がある。街道・古道沿いには、馬頭観音や庚申塚が見られ
るが、このケースは少し離れすぎているように思う。
甲州街道は多摩川の氾濫で、何度かその道筋を変更している。旧道
がこの前を通っていたのではないか。
前の道を北上すると、立日橋南詰に出る。そこはかつて日野の渡し
場があった場所で、旧道はそこからこの馬頭観音を通って日野宿へ
向かっていたのだろう。
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