新奥多摩街道を横断してから100メートルも進まないうちに、
道が二股に分かれている。その左側に日野の渡しの碑が設置
してあった。この近所に渡し場があったと思われる。ここは
堤防の外なのでもう少し南だろうか。渡し場と言うとすぐ渡
し船を想像しがちだが、普段は仮設の橋で渡っていたようだ。
夏の増水期に橋が流される事がよくあり、その時にはワイヤ
ーと船を使って多摩川を渡っていた。
大正15年に日野橋が出来ると、徐々に利用者は減って今は記
念碑や「立川村十二景」で当時の様子を偲ぶのみと言うわけ
です。
この記念碑の目の前に庚申塚がありました。塚の形が墓石の
ようで誰かの位牌まで置いてあったので、墓地に見えました
が、正面に回り込むと庚申塚と記されており横に古い塚も添
えてありました。旧甲州街道はこの塚の正面を通って渡し場
まで来ていたのでしょう。
街道を行くシリーズ第一回、日野道はこれで終わりにします。
御付き合いくださって有り難うございました。
第二回の写真は撮ってあるのですが、現在整理中です。次の
更新で始めたいとおもいます。
道が二股に分かれている。その左側に日野の渡しの碑が設置
してあった。この近所に渡し場があったと思われる。ここは
堤防の外なのでもう少し南だろうか。渡し場と言うとすぐ渡
し船を想像しがちだが、普段は仮設の橋で渡っていたようだ。
夏の増水期に橋が流される事がよくあり、その時にはワイヤ
ーと船を使って多摩川を渡っていた。
大正15年に日野橋が出来ると、徐々に利用者は減って今は記
念碑や「立川村十二景」で当時の様子を偲ぶのみと言うわけ
です。
この記念碑の目の前に庚申塚がありました。塚の形が墓石の
ようで誰かの位牌まで置いてあったので、墓地に見えました
が、正面に回り込むと庚申塚と記されており横に古い塚も添
えてありました。旧甲州街道はこの塚の正面を通って渡し場
まで来ていたのでしょう。
街道を行くシリーズ第一回、日野道はこれで終わりにします。
御付き合いくださって有り難うございました。
第二回の写真は撮ってあるのですが、現在整理中です。次の
更新で始めたいとおもいます。