統合医療日記

ここでの統合医療とは単に西洋医学と東洋医学の統合ではなく、病気を肉体と精神と社会及び自然環境の4視点から見ていきます。

高橋信次と統合医療(最終章2続き)

2017-09-24 23:22:54 | ドクターKの宗教問答(悟りのための医学)

人工ラドン温泉

昨日に続きます。

 巣鴨にいた電気治療の療術のT先生が、伊豆で人工ラドン温泉(当時はそういう風には言ってはいませんが)で泊り込みで、病気の人を見ていると聞いて、家内と二人で行ってみました。1981年の事です。ラーキー博士のホルミシス効果発表のまだ一年前です。巣鴨では結構多くの職員を抱え、治療所も繁盛していましたが、離婚した後治療所は奥さんに譲り、ちっちゃな民家のようなところで数人の病人を見ていました。私も一泊しその微量放射線を利用した人工ラドン温泉に家内とともに入りました。

 すごい湯煙が天井から出てきてやや怖い感じで、放射能は大丈夫かなと思いながら入りました。風呂を出てからは爽快感が有りましたが元々からだが特に悪いわけではなかったので良く分かりませんでしたが、家内が入浴前に出来ていた私の顔のニキビが消えてしまっていると驚いていました。

 

東北の医療村

 他に職員がいるわけでもなく、T先生自ら食事も作っていました。東京の時の治療所と比べとても質素な感じでした。1978年頃九州で研修をしている頃にT先生から手紙が来て、東北で自然を利用した医療村を計画しているのでぜひ参加して下さいとのことでした。以前T先生は私に「私たちは医者ではないので患者を診察する事も診断することも治療する事も出来ない」といつもぼやいていました。療術の力で病気を治す力が有るのに、医師法で医師免許のあるものしか認められていないので、それは医師でしか許されない。だから私の力を借りたいということでした。

 しかしながら当時私は西洋医学の修得に大変な状況でしたのでお断りしましたが、ガンを自然の力で治すという事は大変興味が有りました。当時は医師免許がある事を当然のことと思い何も意識しませんでしたが、真摯にまた情熱的に病気の人を治したい思いや、また治す力が有っても医師免許がなくてはそれは出来ない療術師の人が沢山いることを改めて知りました。

 効果的な治療法ですが微量放射線による治療で使っている放射性物質の種類や放射線量も分からないし、また管理がおそらくとても法的に大変であろうと思い、がん治療に私が人工のラドン温泉を使うことは出来ないだろうと当時思いました。

健康温泉アパート「カーサテルマエ」全景

 時間が有りませんので、それから40年飛びます。結果的の私が九州ではありますがその原型をほぼ作りました。1978年ごろに私が不可能と思っていたラドン療法が可能になりました。こともあろうに福岡県で一番、全国でもおそらく10番目くらいには入ると思われるラドン濃度が78.9マッヘという高濃度の天然ラドン温泉を、2017年にクリニックの横で発見しました。東京での経験が無ければラドン温泉(熊井温泉)は永遠に見つからなかったと思います。高橋信次先生やT先生のご縁というものでしょう。まだ中身が充実していませんのでこれからのところも多いですが、何んとかこれからも頑張ろうと思っています。

 カーサテルマエの玄米菜食料理教室に来た女性で、カラーセラピーをしている女性から、信次先生の弟子の三木野吉さんが書いたノアの箱舟という本をお借りしました。GLAや信次先生のことがよく書かれているので面白く読みました。第1部には私の記憶に強くある部分があり、転載させていただきましたので参考までに載せました。

 著書「ノアの箱舟第一部」に懐かしいところが有りました。以前東京の病院で研修をしながら、時にこのH先生のところで修行をしていました。あるとき国立大学のしっかりした仲間が修行中に踊りだし完全に発狂してしまいました。H先生は大変困って私に何とかして下さい」と頼んできたので、結局私が病院につれていかざるを得なくなったことが有りました。後日H先生のところに行くとH先生は大変喜んで「あの事件でみんな恐れて、修行に来ていた人は誰もいなくなりました。熊井先生も来なくなったので家内にクラリオに降りてもらいどうしたらよいか相談しました。そうしたらクラリオが彼はイエスの時代に直接イエスの教えを受けているので正法(信次先生の説く法)を離れることは有りません」と言ったとのことでした。H先生は少し頼り有りませんでしたが、彼の奥さんはすごい霊能力が有りました。この小金井の道場はホントに悪魔と天使の戦いが激しかったのです。

 信次先生は針灸などの東洋医学が好きでしたが、中華料理が好きでメタボがたたり、昔からの予言どおり48歳でなくなりました。なくなる半年前の熊本の講演ではもっぱら健康についてでした。しかしながら残念な事に次ページの「医師が教えた間違いだらけの油選び」の結果?で半年後になくなりました。魚は食べないといけません。バターよりマーガリンを選べば命取りです。

 まあ、信次先生も医師ではありませんし、当時の医学も食に関してはいい加減でしたので、しかないところが有りますが、これからこそが真の統合医療が注目されてくると思います。最近補完・代替療法がバッシング受けていますが、確かに単なる健康食品では危険な場合が有ります。西洋医学と東洋医学と精神医学と自然医学を統合したもので無ければなりません。

 最近、比較的若い人で高橋信次先生を知る人が来ることが有ります。喜ばしいかぎりですが皆さん誰もが信次先生に会ったことがありません。当時信次先生を知る人ももうほとんどなくなりました。出来ればこういう人達に信次先生の最後の語り部として、話せたら良いなと思います。

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高橋信次と統合医療(最終章2)

2017-09-22 21:29:50 | ドクターKの宗教問答(悟りのための医学)

いざ東京へ

さて、無事医師国家試験にも合格してとりあえずは大学の内分泌内科に入局しました。しかしながら卒業試験のときに、インスピレーションに従い東京に行くべき時を考えていました。東京に出た偉大な人が高橋信次であることは既に分かっていました。しかし当時は厳しい医局のノルマが有りました。このままではずっと東京には行けないと思い、入局して半年後に教授に退局覚悟で教授に「東京に行きたいので行かせてください」と言ってしまいました。さんざん叱られましたが、「出来ないなら退局して行きます」という私に根尽きて「それなら他の先生の手前も有るので、川崎の百合丘というところに病院が友人がいるので、そこの病院に大学からの出向ということで行きなさい」との許可を得たのです。

 

救急病院と森田療法と療術

7月か8月頃病院の官舎に住み、そこを拠点にして動きました。しかし、信次先生も忙しくなかなかあえませんでした。病院も救急があり、私も忙しく日々が過ぎてゆきました。そこで今度は病院長にまた我がままを言い研究日と称して、高円寺の古閑義之先生の自宅で森田療法を学ぶ日を貰いました。古閑義之先生は森田療法の第一人者で、慈恵医大の後聖マリアンナ大学の学長をしていました。森田療法は知らない人も多いと思いますが、当時世界的にも知られた日本発の有名な精神療法の一つです。夜の9時に外来もしくは入院、私はそれを手伝っていました。しかしながら東京の偉大な人には会えずとりあえずは、信次先生の弟子にはあえました。小金井の波場先生や巣鴨の電気治療の療術師、阿佐ヶ谷の太極拳の先生のところに通いました。東京では信次先生にはなかなか得ませんでしたが、その代わり色々なことを東京で勉強することが出来ました。

 

人工ラドン温泉

その中で療術師が多くいました。信次先生は西洋医学よりも療術に興味が有ったようです。巣鴨の療術の先生とは長い付き合いでしたが、「ガンには微量放射線が効くんだよ」とよく言っていました。1976年の事ですから。今から考えればこれは本当にすごい言葉でした。というのは微量放射線にはガンなどの色々な病気に良いホルミシルス効果が有ると世界で初めて1982年に発表したのが、アメリカのラッキー博士ですが、私は療術師より既に5年早く聞いて知っていたのです。その後私は彼が伊豆で人工ラドン温泉の治療的なことをしているという事で

 

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高橋信次と統合医療(最終章1)

2017-09-18 13:21:00 | ドクターKの宗教問答(悟りのための医学)

右が「心経の言霊」といって信次先生が書いた「心経」の解説書で462ページあります。

左が「反省のかなめ」と言って反省の方法を解説したもので250ページほどあります。

多分聖書より具体的で分かりやすいと思います。現代のGood Newsと言っても過言ではありません。

いつも持ち歩いている心経が書いてある証本ですがもうボロボロぼろです。暗記しているので持ち歩く必要もないのですが、魔よけです。事故に会いません。暗記しているのは死んだ時にも潜在意識に残り、魔戦う力にるからです。

こんなもの持っている人もいないと思いますが、今もっているのがもう古くなったので、たまたまこれが出てきましたので、これからはこれを持ち歩く事にします。

久しぶりのブログアップですが、新院長になり忙しく診療から帰ったら中国ドラマを見て、ギターを弾きながら歌を歌い癒して終わる毎日です。今日は台風が上陸したので、久しぶりにアップできそうです。2ヶ月もアップしないのに毎日アクセスが100以上ありPVが200以上有ります。特に最近高橋信次の所にアクセスしている人が多いようで、何か復活の兆しも感じます。

 自給自足農園:以前何処まで書いたか忘れましたが、今日は最終回(2回)にします。私は当時自給自足の農園に生まれました。中学生までは給食費以外はお金を使ったことがほとんど有りません。肉は大体鶏肉か豚肉、ヤギ肉、たまにイノシシやウサギの肉です。魚は玄界灘が近いので海魚も食べていましたが、個人的には大体コイかフナの寒露煮かなまずの蒲焼、ドジョウや川海老もたまに食べていました。病気の叔父が農園で花で生活していましたので、季節には四季折々の花が咲き、野草も咲いていました。果物もほとんど種類が有り、全ての果物が旬でもぎたて新鮮の美味しいのを食べていました。子供のときは農業の厳しい作業も免除され、ただ全の収穫のものを取って食べる。またそれがゲームの用に面白く退屈することは有りませんでした。

百姓の次男が医者になった理由(分け):そんな分けで高校生になっても自分は農学部しか行くところは無いと思い九大の農学部に行く事にしていました。ところが高校二年生のときのある日、「医者になりなさい!」という声が聞こえてきました。これは守護霊のことですが、誤解を招くといけないのでこれからはインスピレーションと表現します。「おかしなことが有るものだと思いましたが、その後書店に行き「職業適性の本」を見てみました。そこには医者になる3つの条件がかかれていました。1.博愛の精神を持っていること 2.健康と屈強な体力 3.勉強が好きなこと の3条件が書いてありました。私は即座に3つとも無し、ムリということで医者になることは見送りました。ところが、3年生の時の願書提出前にまたインスピレーションが下りてきました。今度は「今夜は医者になるかどうかを勉強は一切せずに考えろ!」とのことでした。今度は完全に精神がのっとられましたので、一晩中考えました。結局父親の医療の甲斐なく無残な在宅ガン死と、その後の母子家庭とガン遺児の不幸体験から、「確かに人生は厳しい、蝶や花よの生活だけではすまない。医者になったところで、この厳しいガン病や不幸の役には絶たないかもしれないが、いくばくかの抵抗にはなるかもしれない」そう思い一年留浪人する事にしました。

久々のインスピレーション:東京医科歯科大学に行くつもりが、学園紛争で東大の医学部入試が中止となり、その受験生600人が医科歯科大学を受けることになり、太刀打ちできず結局第2次希望の鳥取大学にしました。ガン遺児の母子家庭にとっては、勉学に6年も罹る事態が困難でした。片親を亡くした子供は誰もが「もう一人の親も死ぬかもしれない」という恐怖症にそれとなくなるものです。百姓なら怖くは有りませんが、今はお金のかかる医師への道で、さらに親死に経済的に絶たれれば、中途退学止むなしなのです。一刻も早く卒業し、二浪や留年は原則出来ません。6年後何んとか卒業試験にこぎつけたものの、既に20%は脱落しており、卒業試験でまた2割さらに国家試験で2割落ちますので、12月山陰の氷点下の中コタツの中で必死で勉強していました。3日猛勉強して最後の日はほぼ徹夜、試験が終わった日は一日だけ普通の日を送り、さらに3日という事が10何科目2~3ヶ月続くのです。若くないと出来ません。そんな時に久しぶりに例のインスピレーションが聞こえてきました。「お前はそんな事をしている場合ではない!今東京に偉大な人が出てきている。お前はすぐに会いに行け!」という場違いな声が聞こえてきました。「そんな事をしている場合ではない!?」とんでもない事を言って来たなと思いそのときは一蹴しました。あの世とこの世の時間間隔は大分ずれが有るようです。しかし、その後それが高橋信次の事である事が分かり、彼の死の3ヶ月前に2日間にわたる個人指導で、百姓希望の私を無理やり医師にしたインスピレーションと高橋信次に会えというインスピレーションが同じである次元のものであることが分かりました。

次回は高橋信次と会ったことが、何故私が統合医療を目指さざるを得なかったかについて、最終章その2とします。

 

コメント (2)
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