hokutoのきまぐれ散歩

ブログも11年目、遂に3900日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

井の頭線トリビア(1)

2016-10-10 05:00:25 | 日記

『鉄道シリーズ』その154。先週より始めた井の頭線各駅停車にちなみ、井の頭線トリビアをいくつかあげてみたい。

トリビアその1、『井の頭線には延伸計画があった。』井の頭線の開業は1934年。しかし、それ以前から利光鶴松(小田急電鉄創業者)には実はもう一つ山手線の外に第二山手線的な鉄道を作る構想があり、1926年には東京山手急行電鉄という会社を作った。

路線は大井町〜雪が谷大塚〜自由が丘〜駒沢〜梅ヶ丘〜明大前〜中野〜新井薬師前〜江古田〜下板橋〜板橋〜田端〜北千住〜曳舟〜南砂町〜東陽町〜洲崎とぐるっと東京の周りをまわる壮大なものであった。しかし、昭和恐慌のため、それどころではなくなり、まずは免許を得ていた渋谷急行電鉄を東京山手電鉄に合併させて、帝都電鉄とし、井の頭線を開通させたのである。

そのため、後々のために明大前駅の先の陸橋には井の頭線以外に同じ幅の線路を走らせる用地を確保、しかし、使われることなく現在に至るのである。

トリビアその2、『井の頭線は戦前は京王でなく、小田急の系列であった』先ほど述べた通り、帝都電鉄は小田急系の会社であった。しかし、戦時の企業合併により小田急、東急、京浜急行、京王、相模鉄道とともに1942〜44年に合併、大東急と称した。戦後、1948年に分割解体されるが、小田急と京王で争い、井の頭線は京王の所有路線となったのである。

その名残としていくつか遺産が残された。まずは下北沢駅での乗り換え。小田急線と井の頭線、2つ違う会社にも関わらず、改札がないのである。

さらに井の頭線のゲージは小田急と同一で京王とは異なるため、京王線の車両は井の頭線には入ることができない。戦後すぐに井の頭線の車両が空襲で被害を受けた1945年に小田急線世田谷代田〜井の頭線新代田駅間に連絡線を設け、小田急の車両を搬入して井の頭線で走らせたこともある。
(以下、次回)

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