読みながら歩き、歩きながら読む
陰陽師的日常
めぐり逢えても
Kiwiさんのキウィの楽園に「おっさんの魔法」というエントリがあった。
ルイ・アームストロングがおっさん……。
ま、いいですが。
ルイ・アームストロング、いいですね。わたしはおっさん、じゃなかった、サッチモの "As Time Goes By" が好きで……とコメントを書こうとして、何かヘンだなと思った。
何のアルバムに入っていたんだっけ。
検索しても、出てこない。でも、確かに"Kiss to Build a Dream On" と一緒にアルバムに入っていた、わたしはテープを持っているはず……。
検索してみて、わかった。
わたしが持っていたテープは "Sleepless In Seattle" のサントラだったのだ。
そうして、"As Time Goes By"はジミー・デュランテが歌っていて、つぎのアームストロングの"Kiss to Build a Dream On" とごっちゃになっていたのである。
このサントラではジョー・コッカーが "Bye Bye Blackbird" を歌っているし、ドクター・ジョンのデュエットもあるし、ひところはテープを毎日聞いていたものだった。
"Sleepless In Seattle"、直訳すると「シアトルの不眠症」になるのだが、邦題は《めぐり逢えたら》というなんとも甘ったるいものになってしまった。とはいえ、この映画が《めぐり逢い》を下敷きにしているので、あながち的はずれでもない。
監督をやっているのは、ノラ・エフロン、わたしはエフロンのコラムが好きで、いろいろな雑誌を探し出しては読んでいた。
エフロンが『大統領の陰謀』を書いたカール・バーンスタインと結婚していた、というのもびっくりしたが、その結婚が破綻した顛末を『ハートバーン』というタイトルで小説にしたというのにはさらにおどろいた。《心みだれて》という邦題になった映画まで見に行ったぐらいだ。主演はメリル・ストリープとジャック・ニコルソン、"heartburn" という単語を直訳すると「胸焼け」になるのだけれど、実際そのタイトルにふさわしい、胸の焼けそうなカップルで、ふたりがでかいスクリーンに登場して、過剰にやり合い始めると、ちょっとやれやれではあったのだが。
ともかくそんなエフロンが監督した、というので、《めぐり逢えたら》も勇んで見に行った。
奥さんを亡くしたばかりのトム・ハンクスが、ラジオで思い出を語る。いまも妻のことを考える、息をするのも、吸って、吐いて、と自分に言い聞かさなくてはならないほどだ、と話す場面では、カーラジオでそれを聞いてもらい泣きしてしまうメグ・ライアンと一緒に涙にくれたし、要所要所で流れる音楽のセンスに、これはエフロンが選んだのかな、と考えたりもした。
ところで、わたしはその映画をたった一回しか見ていないのだが、未だに忘れられないシーンがある。1993年の映画だから、なんと14年の歳月を経て、忘れられない強烈なシーンである。
シアトルに住むトム・ハンクスの八歳の息子は、新しいママがほしい。それでラジオにママ探しを依頼する(そこで、ハンクスが現在の心境を語る)。ニュー・ヨークで働くメグ・ライアンには婚約者もいる。距離も離れているし、そんなことをしている場合ですらないのに、子供の声とハンクスの声が忘れられないライアンは、子供宛てに手紙を書く。
メジャー・リーグの強打者の話題を書きかけたところで、ハッと我に返り、レポート用紙のような紙をぐしゃぐしゃに丸めてくずかごに捨てる。
そこにライアンの同僚のロージー・オドネルがやってきて、くずかごから拾って皺を伸ばし、うまく書けてるじゃない、と言うのだ。
つぎのシーンでは、「この手紙、最高!」と男の子が喜んでいるのだが、その手紙には皺こそ伸ばしてあるが、皺だらけなのである。
……そんな、くずかごに一度捨てたような手紙を、そのまま出すか?
わたしはもうそのことが気になって気になって、映画の顛末より(どうせうまくいくのはわかりきっている)、よほどそちらのほうが気になった。これは何かの伏線なんだろうか、と思ったのである。あるいは、主人公の雑駁な性格をあらわすための描写なんだろうか?
ところが最後まで行って、そのしわくちゃの手紙が、「もしかしたら出さずに終わったかもしれない手紙だったが、結局出すことになった」という、いくつかある選択肢以上の意味を持たないことがわかって、わたしはいろいろ考えてしまったのだった。
というのも、わたしもそれまでに何度かアメリカ人から手紙をもらっていたのだが、実際、コーヒーをこぼしたあとがあったり、濡れたカップを置いた輪の跡が残っていたり、変な具合に皺がよっていたり、赤いボールペンで書いてあったり、封筒の裏側に宛名が書いてあったり、一度などはレシートの裏に書き殴ったメモ書きのような手紙さえもらったことがある。
それでも、それをくれる相手は、そういうことにあまりこだわらない人なのだろうと思っていた。
どうやら、アメリカ人の多くかどうかは不明だが、少なくともある程度の割合で存在する人々というのは、手紙というものを、きれいな状態で出さなければならないとあまり思わないのかもしれない、と思ったのだ。
だって、初めての手紙である。しかも相手は子供ではあるけれど、とにかく自分のことを気に入ってもらうために出す手紙なのだ。
それをくずかごから拾い上げて、皺を伸ばしたまま出すなんて。
手紙をもらうこともいまではもうまれになったけれど、手紙をもらう楽しみのうちの少なからぬ要素が、その人の自筆ということであり、便せんや封筒であったりする。
それはきわめて日本人的な感覚なんだろうか。それでもその人を語るのは、書いてある内容ばかりではない。
人と話をするときに、表情や、声のトーンや、言いよどんだり、弾むように喋ったり、そういうことが内容よりはるかにその人の気持ちを伝えるように、やはり手紙もそういうものだろうと思うのだ。
だから、初めての手紙がしわくちゃではまずいだろう、と、映画を見てずーっと気になったのである。あんまり気になったから、14年たって、こんなことを書いてしまったのである。
ルイ・アームストロングがおっさん……。
ま、いいですが。
ルイ・アームストロング、いいですね。わたしはおっさん、じゃなかった、サッチモの "As Time Goes By" が好きで……とコメントを書こうとして、何かヘンだなと思った。
何のアルバムに入っていたんだっけ。
検索しても、出てこない。でも、確かに"Kiss to Build a Dream On" と一緒にアルバムに入っていた、わたしはテープを持っているはず……。
検索してみて、わかった。
わたしが持っていたテープは "Sleepless In Seattle" のサントラだったのだ。
そうして、"As Time Goes By"はジミー・デュランテが歌っていて、つぎのアームストロングの"Kiss to Build a Dream On" とごっちゃになっていたのである。
このサントラではジョー・コッカーが "Bye Bye Blackbird" を歌っているし、ドクター・ジョンのデュエットもあるし、ひところはテープを毎日聞いていたものだった。
"Sleepless In Seattle"、直訳すると「シアトルの不眠症」になるのだが、邦題は《めぐり逢えたら》というなんとも甘ったるいものになってしまった。とはいえ、この映画が《めぐり逢い》を下敷きにしているので、あながち的はずれでもない。
監督をやっているのは、ノラ・エフロン、わたしはエフロンのコラムが好きで、いろいろな雑誌を探し出しては読んでいた。
エフロンが『大統領の陰謀』を書いたカール・バーンスタインと結婚していた、というのもびっくりしたが、その結婚が破綻した顛末を『ハートバーン』というタイトルで小説にしたというのにはさらにおどろいた。《心みだれて》という邦題になった映画まで見に行ったぐらいだ。主演はメリル・ストリープとジャック・ニコルソン、"heartburn" という単語を直訳すると「胸焼け」になるのだけれど、実際そのタイトルにふさわしい、胸の焼けそうなカップルで、ふたりがでかいスクリーンに登場して、過剰にやり合い始めると、ちょっとやれやれではあったのだが。
ともかくそんなエフロンが監督した、というので、《めぐり逢えたら》も勇んで見に行った。
奥さんを亡くしたばかりのトム・ハンクスが、ラジオで思い出を語る。いまも妻のことを考える、息をするのも、吸って、吐いて、と自分に言い聞かさなくてはならないほどだ、と話す場面では、カーラジオでそれを聞いてもらい泣きしてしまうメグ・ライアンと一緒に涙にくれたし、要所要所で流れる音楽のセンスに、これはエフロンが選んだのかな、と考えたりもした。
ところで、わたしはその映画をたった一回しか見ていないのだが、未だに忘れられないシーンがある。1993年の映画だから、なんと14年の歳月を経て、忘れられない強烈なシーンである。
シアトルに住むトム・ハンクスの八歳の息子は、新しいママがほしい。それでラジオにママ探しを依頼する(そこで、ハンクスが現在の心境を語る)。ニュー・ヨークで働くメグ・ライアンには婚約者もいる。距離も離れているし、そんなことをしている場合ですらないのに、子供の声とハンクスの声が忘れられないライアンは、子供宛てに手紙を書く。
メジャー・リーグの強打者の話題を書きかけたところで、ハッと我に返り、レポート用紙のような紙をぐしゃぐしゃに丸めてくずかごに捨てる。
そこにライアンの同僚のロージー・オドネルがやってきて、くずかごから拾って皺を伸ばし、うまく書けてるじゃない、と言うのだ。
つぎのシーンでは、「この手紙、最高!」と男の子が喜んでいるのだが、その手紙には皺こそ伸ばしてあるが、皺だらけなのである。
……そんな、くずかごに一度捨てたような手紙を、そのまま出すか?
わたしはもうそのことが気になって気になって、映画の顛末より(どうせうまくいくのはわかりきっている)、よほどそちらのほうが気になった。これは何かの伏線なんだろうか、と思ったのである。あるいは、主人公の雑駁な性格をあらわすための描写なんだろうか?
ところが最後まで行って、そのしわくちゃの手紙が、「もしかしたら出さずに終わったかもしれない手紙だったが、結局出すことになった」という、いくつかある選択肢以上の意味を持たないことがわかって、わたしはいろいろ考えてしまったのだった。
というのも、わたしもそれまでに何度かアメリカ人から手紙をもらっていたのだが、実際、コーヒーをこぼしたあとがあったり、濡れたカップを置いた輪の跡が残っていたり、変な具合に皺がよっていたり、赤いボールペンで書いてあったり、封筒の裏側に宛名が書いてあったり、一度などはレシートの裏に書き殴ったメモ書きのような手紙さえもらったことがある。
それでも、それをくれる相手は、そういうことにあまりこだわらない人なのだろうと思っていた。
どうやら、アメリカ人の多くかどうかは不明だが、少なくともある程度の割合で存在する人々というのは、手紙というものを、きれいな状態で出さなければならないとあまり思わないのかもしれない、と思ったのだ。
だって、初めての手紙である。しかも相手は子供ではあるけれど、とにかく自分のことを気に入ってもらうために出す手紙なのだ。
それをくずかごから拾い上げて、皺を伸ばしたまま出すなんて。
手紙をもらうこともいまではもうまれになったけれど、手紙をもらう楽しみのうちの少なからぬ要素が、その人の自筆ということであり、便せんや封筒であったりする。
それはきわめて日本人的な感覚なんだろうか。それでもその人を語るのは、書いてある内容ばかりではない。
人と話をするときに、表情や、声のトーンや、言いよどんだり、弾むように喋ったり、そういうことが内容よりはるかにその人の気持ちを伝えるように、やはり手紙もそういうものだろうと思うのだ。
だから、初めての手紙がしわくちゃではまずいだろう、と、映画を見てずーっと気になったのである。あんまり気になったから、14年たって、こんなことを書いてしまったのである。
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ぼくはハリソンフォード(だったと思う)が、ネクタイでメガネをきゅこきゅこ拭くシーンを観てえらいびっくりした記憶があります。いいんだ! と思って。映画は「モスキート・コースト」だったろうか。ネクタイ以外はうろ覚え。
以来、たまにネクタイでメガネを拭くことがあるのは内緒です。
お名前のつづり、まちがえてましたね。ごめんなさい。訂正しておきます。
ところ変われば品変わる、といいますが、アメリカ人も日本に来て驚くことはいろいろあるようです。
・朝からサンドイッチを食べている!
(アメリカの多くの人は、なぜか朝、サンドイッチを食べません)
・サンドイッチに信じられないものが入っている!
(生クリームにイチゴのスライスが入ったものを見て。理解を絶するそうです)
・スシに砂糖が入っている!
(料理には砂糖を使わない+白砂糖は体に毒である、と信じている人が多いので、スシ=ヘルシーと思っている人が、スシのレシピを見て、信じられない! を連発するケースをこれまでいくつか見聞きしたことがあります)
おもしろいことに、アメリカの輸入野菜と聞くと、わたしたちはどちらかといえば化学肥料や農薬を使ったもの、というイメージで見てしまうのですが、在日アメリカ人向けのコミュニティ誌などを見ると、日本での殺虫剤の使用量はアメリカの約十倍、スーパーマーケットの野菜があんなに美しいのは、殺虫剤を使用している証拠、日本で野菜を購入するときは気をつけましょう、と書いてあったりします。
だから、「おっ」とびっくりして、「なんだ、こいつらは」、って思うんじゃなくて、「おもしれえな、こいつら」って思えればいいんでしょうね。
結局は、サー・お互い、じゃなかった、お互い様、ということで(わ、おやじギャグだ)。
以前、ラブレターの文面で「あなたの瞳は蛇のように美しい」という比喩があった、という話をうかがったことがあります。
「蛇のように美しい」って、確かにわからなくはないんですが、こんなのもらった日には、やっぱりカルチャーショックかもしれません。
「おもしれえな、こいつ」ってウケをねらったわけでもなさそうだし。
書きこみ、どうもありがとうございました。
だけどね、眼鏡のきゅこきゅこは、わたしもネクタイじゃなくて、シャツのすそとかでやっちゃうんだけど、《モスキート・コースト》かなあ。あれ、お父さんは農場主かなんかでしょ? で、文明化されたアメリカに嫌気がさして、農場を売って、ホンジュラスに移住する。ネクタイ締める場面はなかったように思うんですが、どうでしょう。
だけどあれってレンズに傷がつく、って、眼鏡屋さんに以前怒られたことがあります。
布で乾拭きするのが、一番傷になりますよ、って。中性洗剤をたらして、指であらったあと、自然乾燥させてください、って言われました。
それでも、ついうっかりやっちゃいますけどね、きゅこきゅこ。
「あなたの瞳は蛇のように美しい」で思い出すのは、「君は牛の糞のように美しい」という言葉。先般話題の金川欣二先生の「おいしい日本語」にでていました。
【アフリカのフルベ語には、「君は牛の糞のように美しい」という表現がある。蠅が牛の糞に群がるように男も群がるということなのだが(第8章 翻訳のおいしい話 ○言語と文化 より)】
牛の糞のように美しい、なんてラブレターをもらったら、カルチャーショック以前に、破って捨てられるでしょうね。
ルイ・アームストロングの話題が出たので、久しぶりに聴きました。Gershwinの曲です。暖かみのある中に哀愁を帯びたほっとする声ですが、最近は彼のようなしゃがれた声の歌手はいないですね。
As Time Goes Byは4曲持っていました。私はPeggy Leeがお好みです。
> 「君は牛の糞のように美しい」
比喩表現はむずかしいですね。
文化圏によって、受けとり方がどうしても変わってしまう。
以前、夕方に川沿いの道を、アメリカ人と歩いていたんです。空にコウモリが何匹も飛んでいたから、“コウモリがたくさん”と言ったんです。
そしたら相手が、コウモリだって? と驚く。あれはスズメだろ? って。
ちがう、スズメはあんな飛び方をしない。こんなに薄暗くなってあんなふうに飛び回るのはコウモリしかいない、って言ったら、わっ、ぎゃっ、って。ほんとに顔色が変わった。
家へ帰るよ、こんなところにはいられない、って。
コウモリが怖かったんです。大きい体をした人でしたが。
ジョン・キャンディだかだれだかのコメディでも、コウモリが屋根裏に巣を作った、って、みんなで大騒ぎする場面があったように思う。
アメリカ文化圏では、コウモリはおっかない生き物なんです。
ちょうど、ゴキブリを見て「きゃーっ!」っていう感じに近いかもしれない。理由のない恐怖をかきたてるような生き物なんですね。
こういうのはいくつもあって、歌詞で "crocodile smile"(ワニの笑顔)っていうのをこのあいだ見かけたんですが、これはおそらく「作り笑い」のメタファーなんだと思う。
辞書には"crocodile tears"(ワニの涙)っていうイディオムは載っているけれど、スマイルは載ってないんですが。
「ワニの涙」っていうのは、ワニはエサにした動物を食べるとき、生理的な理由で涙を流すらしい。それから転じて「うそ涙」として使われるんですね。
おまけにワニの口は曲がっていて、閉じているとなんとなく笑っているようにも見える。
そんなところから来ているのだろうと思うのですが、ワニそのものに馴染みのないわたしなんかは、ギザギザの歯を剥きだした、おっかない笑顔かな、なんて思ってしまいそうです。
だからこの「牛の糞」もフルベの人にとっては、おそらくわたしたちと全然とらえ方がちがうのだと思うのです。
日本人だって戦争中は道に落ちている馬糞を燃料にするために拾ってたんですよね。
そのころの「牛の糞」のとらえかたと、いまのとらえかたは、きっと全然ちがうはず。
だから、なに、それ、キモチワルイ、じゃなくて、「おもしろいなあ」みたいに思えるような、気持ちの弾みみたいなものは持っていたいなあ、なんて思います。
少なくともわたしは、君はバラの花のように美しい、なんて書いてあったら(だれも書いてくれないけれど)、うそこけ、と思うけれど「牛の糞のように美しい」とあったら、おもしれえな、こいつ、と思うかもしれません。もちろん、誰が送ってくるかによるのは言うまでもないのですが。
はてさて、ルイ・アームストロングのガーシュウィンは、聴いたことがありません、たぶん。
考えたら、ガーシュウィンとアームストロングって時代的に重なってるんですよね。
何か、不思議です。ガーシュウィンって、20年代の作曲家っていう気がして、アームストロングよりずっと古い時代の人のような気がするんだけど、生年はほとんど変わらないんですね。
ほんと、長く活躍したんだなぁ、って思います。
きっとあんなふうに音楽のなかに楽しみとか喜びとか見いだし続けることができた人だから、長くできたんだろうなあ、って。
arareさんがお持ちなのは、エラ・フィッツジェラルドと一緒に歌っているやつですか?
《サマー・タイム》、聴いてみたいな。
ご紹介ありがとうございました。
エラとサッチモの《サマータイム》
http://www.youtube.com/watch?v=1yKgAEkCKxY
エラ・フィッツジェラルドの声が、夏の宵闇のようにすうっとおりてきて、アームストロングのトランペットが入ったあとに、ボーカルが入ります。深い深い闇を感じさせる声。
もうすぐ夜が来るんだ、って。南部の、暗い夜。フォークナーが描いたような、あるいはトニ・モリソンが描いたような、闇。
この人は当たり前だけれど、影の部分も見てきたんだって思いました。
写真では、いつも大きな目を剥いてるか、にこにこ笑ってるか、で、何枚かアルバムを聴いても、まわりに自然な伝播力を持つような幸せな感じの音を出す人だって思ってたんだけど、こんなふうに闇を知っている人なんだ、と思いました。にもかかわらず、というか、だからこそ、というか、それをふまえての "What a Wonderful World"(この素晴らしき世界)なんだなあ、って。
いいものを教えてくださってありがとうございます。
あともうひとつ、おまけで "Summertime" といったらこの人を忘れちゃいけない。
これもすごいです。ジャニス・ジョプリンの《サマータイム》。この人は内面にどんな荒野を抱えていたんだろう、って聴くたびに思います。
http://www.youtube.com/watch?v=mzNEgcqWDG4
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