クマのプーさんは子供かおじさんか

『クマのプーさん』という本がある。わたしも岩波から出ている石井桃子訳の絵本を持っていて、子供のころ、おそらく読み返した回数は、何万回という単位になるはずだ。

大人になって、イギリス人とその本をめぐって話をした。
彼は、あれはさまざまなイギリス人のカリカチュアだ、と言った。
クリストファー・ロビンは典型的な中産階級の男の子、孤独で、親の生活とは切り離されて、身近に同年代の友だちがいるわけではなく、田舎に住んでいる。
そうしてウィニー・ザ・プーは中年のおっさんで、ちょうど田舎の郵便局の局長によくいそうなタイプだ。小さな仕事ならちょこちょこやってるんだけど、間が抜けている。それなりに愛されてはいるけれど、大きな仕事は勤まらない。
ほかに登場する動物たちも、全部イギリス人、ただティガーだけが例外で、あれはアメリカ人のメタファーになっている。

わたしはすっかり驚いてしまった。クリストファー・ロビンがイギリスの中産階級の男の子、というのは納得できる。児童文学に出てくるイギリスの男の子は、みんな孤独で、学校にも行かず、乳母や家庭教師の世話になり、きょうだいを除いては友だちもいない、そんな子供たちばかりだったからだ。

驚いたのは、ウィニー・ザ・プーの解釈である。プーはぬいぐるみ、言ってみればクリストファー・ロビンと同等の子供なのだろうと思っていたのである。じじつ、わたしが読んだ石井桃子の訳では

「そうなんだ。いないんだ。すると、ぼく、かんがえごとのさんぽ、ひとりで、しなくちゃならないんだな。いやんなっちゃう」


となっている。ここから伝わってくる語りは、小さな男の子の語り口、というより、「本の中に出てくる、育ちの良い男の子のしゃべり方」である。

だからわたしは聞いた。あれは子供じゃないの?
子供ではない、という。イギリス人じゃないとなかなかわからないかもしれないけど、あれはイギリス人のいろんな典型をうまく拾い上げて造型してるんだ、と。

原文は以下のようになっている。
"That's what it is. He's not in. I shall have to go a fast Thinking Walk by myself. Bother!"

別にこの文章を

「そういうことか。彼はいないか。となると、ひとりで足早に思考散歩をしなくてはならないな。厄介なことだ!」

と訳しても、まったく問題はないわけだ。
石井桃子の訳でも、プーは子供っぽいが、イーヨーは「おまえさんも、ごきげんよう。木曜日はなおのこと」とおじいさんくさいし、フクロは「しかしながら、天候は迅速に回復するものと予想されます」と学者めかした物言いをする。これらのイメージは、わたしが話を聞いたイギリス人の意見とも重なっていく。大きくちがっているのはプーなのである。

さて、いまではプーというと、A.A.ミルンの本で読む人より、ディズニー・アニメで見る人の方が多いのかもしれない。あれはプーの声優をやっているのはおじさん、それも極めておっさん臭い、のっそりとした声だ。さらに、原作の挿絵を描いているシェパードの絵よりも、ディズニーのオリジナルのアニメーション(というのは、のちのTVバージョンのアニメーションは絵が変わっているからなのだが)では、さらにおっさん臭い。なんとなく、クマのぬいぐるみのかわいさ、という系列の絵ではないように思うのだ。

ウィニー・ザ・プーは子供なのだろうか。それとも、おじさんなのだろうか。

ひとつ、考えに入れておかなければならないのは、大人と子供、何がちがうというと、子供は変わっていく、ということだ。三十歳の大人が十年経って四十歳になるのと、十歳の子供が十年経って二十歳になるのでは、まるでその意味がちがう。

クリストファー・ロビンは最後に百エーカーの森を出る時期を迎える。おそらく寄宿学校に行くことになるのだろう。彼はそこでプーや百エーカーの森の住人たちと別れる。プーが子供なら、クリストファー・ロビンと共に成長できるのではないか。プーは、イーヨーやピグレットやオウルやティガーと同じく、そこから先にはもはや、子供が大きくなるようには成長しない大人なのではないか。自立した世界を営んでいる百エーカーの森の住人たちと、子供であるクリストファー・ロビンの人生が、一瞬交錯したのが、あの物語なのではないかと思うのである。

プーの物語には、失われた子供時代への郷愁のようなものはない。もちろん最後の場面は大人になって読み返すと、涙を流さずにはいられないものがあるのだけれど、作品そのものとしては、かなりあっさりと別れていく。それは、クリストファー・ロビンの気持が、もうつぎの世界を向いているだけでなく、プーもクリストファー・ロビンの存在に依存していないからだろう。

彼がそこから出ていったあとも、百エーカーの森は失われたりせずに、そこにあるはずだ。クリストファー・ロビンの存在から自立して営まれている世界だからこそ、「百エーカーの森」がクリストファー・ロビンにとってかけがえのない世界ではあるにせよ、彼はそこから出ていける。そこが彼にとって唯一最高にすばらしい世界なのではないことを彼は知っている。

そうしてまた、前を向いて歩いて出ていけるのは、百エーカーの森がそこに変わらずあることで、自分の何かが失われるのではなく、そこにいたときのまま、のクリストファー・ロビンは大人になっていけるのだろう。

子供時代に繰りかえし繰りかえし読んだ『クマのプーさん』にしても、『ピーター・ラビット』にしても、もう少し大きくなって読んだ『宝島』や『ツバメ号とアマゾン号』にしても、大人になって読み返すとき、自分の子供時代のノスタルジーに浸って読むことは、まずない。その年齢なりの読み方で、その年齢なりの味わい方で読んでいる。もう少し言えば、自分がいま抱えている問題意識に接ぎ木しながら、その答えをそんな本の中から探している。

そういう読み方ができるのも、そんな本が前を向いていて、そこから先に目を向けているからなのかもしれない。

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