放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

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一関気仙沼南三陸紀行(9)志津川にて2

2016年11月05日 23時30分52秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 バスは再び丘を下り、国道45号線に向かう。
 やっぱり茶色い。津波で剥がされた地面が茶色い。もう5年も経つのに。
 でもこれで終われない。志津川の再生は始まっている。
 海に面した茶色い大地はどこも嵩上げ工事の足場でひしめいている。とくに志津川湾を遮るように組まれたそれは、まるでこれから戦でも始まるかのような物々しさである。
 バスはその一角にすうっと入った。
 「これからお見せする建物は、高野会館といって、われわれの系列の式場でした。」
 目の前に3階建て(一部4階)の建物が痛々しくもまっすぐ建っていた。
 「あの日ここには300人ほどのお客さんが利用していました。激しく揺れたあと、やはり津波が心配だということでお客さんはみんな外に出て避難しようとしたのですが、従業員で漁業経験者がおりまして、それが海の様子をみて、これはただ事ではないと、これは他に避難する猶予はない、と判断しまして―」
 周囲に建物らしいものは残っていない。ということは、津波の高さは・・・。
 「死にたくなければ階段を上がれ、と玄関でみんなを引き止めたそうです。」
 すごい決断だ。間違えれば全員の命はない。
 「みんなはまた階段を登りました。お年寄りもお子さんも、みんなで手を引き合いながら。やっとの思いで屋上まであがり、それでもまだ危ないということで、ついに屋上の、さらに機械室の上の狭いところにみんなで上がったそうです。」
 雨がすこし降ってきた。泣いているのだろうか。
 「津波は足元まで来ました。すぐ近くに志津川病院があったんですが、引き波のときに、ベッドごと流されてゆく患者さんがここから見えたと言います。助けたかったけど、どうすることもできなかったって。」
 少し雨が強くなってきた。
 ―つなみてんでんこ― である。どうすることもできなかった。そのとおりだ。次の瞬間には自分が波をかぶるのかもしれないのだから。
 「津波は屋上を越えず、奇跡的にみんなは助かりました。でも屋上で寒さに耐えながら朝がくるのを待ったなければならなかったそうです。」
 建物は半壊。もう中にも入れない。それでも、どうにかこの建物を震災遺構として保存できないか検討しているという。

 高野会館前を出たバスは国道45号線に出て、またすぐ左に入り、そこからバスを降りた。柵に囲まれた砂利道を歩く。そこに焼香台があった。その向こう、道路をはさんで目の前に南三陸町防災庁舎が建っていた。小雨が断続的に降り続いていた。
 「以前は近くまで行けたんですけれど、今は県の管理となりまして、柵で近寄れなくなりました。だから道路を挟んでここに焼香台を置いています。」
 ここも悲劇が襲った。避難を呼びかける声は津波に呑まれた。行方不明の職員もいる。生死の境は屋上のさらに上、通信塔の先端だった。
 防災庁舎はその後、災害遺構として存続と解体の両論が出て争い、被災者や遺族を苦しめている。今は宮城県がこの問題をいっさい預かるような形で建物を保管している。

 あらためて建物に向かい合掌する。
 海から潮の香りが届いている。
 少し陽が出て、雨粒がきらきら光った。
 もっと重苦しい雰囲気をまとった建物だと思ったけれど、意外とさっぱりしたもんだ。
 建物には何も非はない。ただその役割を全うしようとしただけだ。
                                              
 以上が語り部バスのルートだった。
 バスはその後お宿に戻って解散となった。

 バスの運転手さんは志津川の特産は、色々あるけど、夏は「蛸」だと教えてくれた。
 今日はまだ新鮮な海産物にありついていない。
 そうだ、歌津まで戻るつもりで海産物を探しに行こう。
 キラキラ丼も食べていないし、海藻類もおみやげにほしい。

 どうもまだまだやり残したことがあるようだ。
 ぼくらは車に乗って、本吉街道を北上した。
(おしまい)
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