HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

大連港第二埠頭 - かつての日本との玄関口

2013-12-26 | 大連を歩く
大連の海の玄関口、大連港旅客埠頭です。


(十五庫から撮影してみました)

韓国の仁川、国内では威海、煙台、長海県などへのフェリーが発着しています。
日本租借時代は満鉄が経営管理を担っていました。
当時は日本との間に定期連絡船があり、大連や満蒙開拓団として入植した日本人はここから大陸に入りました。戦後行われた引き揚げのときにも同様です。延べ100万人以上の日本人が利用したと思われます。

当時は埠頭まで線路が引き込まれており、下船したらすぐに鉄道に乗ることができたそうです。
今もところどころに線路の跡が残っています。


(線路の跡です。埠頭の先の方まで伸びています)


(線路の跡が静かに歴史を語っているようです)

来るとき、帰るとき、日本人はどんな気持ちだったのでしょうか。

僕の祖父も陸軍の新京満州部隊として大陸に入り、長春や大連に滞在したことがあります。
僕の実家には、祖父が長春から実家の祖母に宛てた手紙が残っています。

大叔父のひとりは大連で南満州ガス株式会社の職員として勤務していました。

別の大叔父は、満州軍に配属されてハイラル方面の守備に当たりました。

彼らはいずれも70数年前、この場所から中国に降り立ちました。

祖父たちの目には、大連の街はどのように映ったのでしょうか。
今となっては聞く術もありません。
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1 コメント

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宇品港 (b.stone)
2013-12-27 20:54:12
線路跡とといえば以前住んでいて廃線の跡地をジョギングコースにしていた宇品港を思い出しました。宇品港も1889年(明治22年)当時優良港のなかった広島県に完成したそうです。日清戦争が始まると、山陽鉄道の西端であった広島駅から宇品港まで軍用鉄道宇品線が敷設され、大陸への軍用輸送基地となり、多くの兵士が宇品港から出兵したとのことです。その中には大連に向かった方もあるのでしょうね。
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