二〇三高地の北側中腹当たりにある、乃木保典戦死の場所と言われる石碑です。
(こちらは当時の写真です)
乃木保典(1881-1904)は、第三軍司令官だった乃木希典の次男です。
保典は、1904年11月30日、二〇三高地の攻略作戦中にロシア軍の砲弾を受けて命を落とします。22歳でした。
その5日後となる12月5日、第三軍は念願の二〇三高地の奪取に成功します。
保典殉死の場面は、ドラマ「坂の上の雲」(2011年)をはじめ、映画「二百三高地」(1980年)、「明治天皇と日露大戦争」(1957年)など、多くの映像作品で取り上げられていますので、ご存知の方も多いと思います。
さて、そこでこの石碑ですが、実は本物ではありません。レプリカです。
2000年頃に再建されたようです。
先ほどの2枚の写真を比較すると判ると思います。
文字の大きさやバランス、台座の形が違います。
したがいまして、僕がお客さんを旅順する際には、「ココに行きたい」と明示的な要望があったときだけ立ち寄るようにしていました。
二〇三高地は、日露戦争のハイライトになった場所ですから、旅順ではマストの訪問地なのですが、こうして消失してしまった遺構を作り直してまで名所に仕立てるのは、ちょっとやりすぎという気がします。
ないものはないままで良いのです。復元する必要などありません。
ありのままの姿でいいのです。
まあ、外国人である僕があれこれモノを言う資格もないのですが・・・。
(こちらは当時の写真です)
乃木保典(1881-1904)は、第三軍司令官だった乃木希典の次男です。
保典は、1904年11月30日、二〇三高地の攻略作戦中にロシア軍の砲弾を受けて命を落とします。22歳でした。
その5日後となる12月5日、第三軍は念願の二〇三高地の奪取に成功します。
保典殉死の場面は、ドラマ「坂の上の雲」(2011年)をはじめ、映画「二百三高地」(1980年)、「明治天皇と日露大戦争」(1957年)など、多くの映像作品で取り上げられていますので、ご存知の方も多いと思います。
さて、そこでこの石碑ですが、実は本物ではありません。レプリカです。
2000年頃に再建されたようです。
先ほどの2枚の写真を比較すると判ると思います。
文字の大きさやバランス、台座の形が違います。
したがいまして、僕がお客さんを旅順する際には、「ココに行きたい」と明示的な要望があったときだけ立ち寄るようにしていました。
二〇三高地は、日露戦争のハイライトになった場所ですから、旅順ではマストの訪問地なのですが、こうして消失してしまった遺構を作り直してまで名所に仕立てるのは、ちょっとやりすぎという気がします。
ないものはないままで良いのです。復元する必要などありません。
ありのままの姿でいいのです。
まあ、外国人である僕があれこれモノを言う資格もないのですが・・・。
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