心の風景 認知的体験

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セキュイティ

2007-01-13 | 心の体験的日記
講演場所の地図が送られてきた。
ところが、セキュイティがかかっている。
その番号は、別メールで送られてきた。
ところが、それを入れても開けない。
うーん。セキュイティ厳重は、たちまち不便さに
つながってしまう。

そこで、面倒なのでセキュイティをはずしてしまうと
そこをつけ込まれるから困る。

いずれにしても、どうしたらよいかなー。
セキュイティをはずしてもらうかなー

聖徳太子度チェックリスト

2007-01-13 | 安全、安心、

A)聖徳太子度(多重課題処理能力)をチェックする
自分が「もっともあてはまるとき”5”」、「まったくあてはまらないとき”1”」の5段階で判定してください。
1)2つ以上のことを同時に並行してできる( )
2)作業の手を休めることなく人の話を聞ける( )
3)騒がしい状況でも、相手の話を聞き取ることができる( )
4)作業に集中しながら、同時に他のことも考えられる( )
5)途中で中断しても作業にすぐ戻れる( )
6)複数の人の話を同時に聞いても混乱しない( )
7)周りが騒がしくとも気にせず作業できる( )
8)うまく気持ちの切り替えができるほうだ( )
「得点化」
8項目の判定値を合計してください。大学生・専門学校生389人の平均値は、23点(標準偏差は5.7点)ですので、それと比較して自己診断をしてみてください。(鈴木大輔ら「注意機能尺度の作成の試み(2)」日本応用心理学会第69回大会発表論文集、p59。「注意の能動性」尺度の転用)
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わかりやすさの認知工学

2007-01-13 | わかりやすい表現

わかりやすさの認知工学
      海保 博之
   筑波大学 教授(心理学系)


●わかりやすさとは

 ある調査で「パソコンの機種を決定する時に何を重視しますか」という質問をしたところ、驚くべきことに「操作のしやすさ」を最重要ポイントにしている。逆に言うと、パソコンは操作がしにくいとういうことであって、その裏にはいろいろな意味での「わかりにくさ」が隠れているのではないかと察するわけである。
 この種の機械は専門家だけが使ってればそれほど問題はないが、誰でも、どこでも使うような時代になってくると、「わかりにくさ」というようなものが非常に大きな問題になってくるということである。要するに、人間と機械との関係が、コンピュータの出現によって複雑になってきたと言える。コンピュータには、こういう構造的な問題があるとのではないかと思う。そのへんに対する反省から「簡単操作」といったようなことが一つの大きな話題になる時代になったわけである。
 このように「わかりやすさへの希求」、あるいは「わかりやすさを求める」背景がある一方で、世の中は情報が非常に溢れるようになってきて、情報の受け手の側がわかりやすい情報を求めるようになった。それを押し上げているのは情報公開といったようなことではないかと思う。そういう大きな時代の流れも「わかりやすさ」というようなことに人の関心を向けている。
 一方ではコンピュータの問題、一方では社会情勢の問題、こういうものが相まって「わかりやすさ」というものを、いろいろなところにどのように組み込んでいくか。たとえば説明書やマニュアルの中に「わかりやすさ」をどのように作り込んでいくかということが重要視されてきているようである。つまり、かつて技術情報は素人がわかる必要はなかった。専門家同士がコミュニケーションしている限り、テクニカル情報のわかりやすさということはあまり問題にならなかった。しかし今日では、かなり高度なテクニカルな情報にも「わかりやすさ」が求められるようになってきているということではないかと思う。
 図1は、1枚のマンガ風に描かれた絵であるが、この絵に見られることは何かと言うと、コンピュータの持っている構造的、本質的な「わかりにくさ」をみごとに表現している。

 (図1を入れる)
 
 「わかりにくさ」の一つは同型性の欠如と直接性の欠如の問題である。 同型性の欠如の問題は、たとえば、キーボードを操作する場合、操作とその結果として起こるマジックハンドで靴の紐を結ぶということの間に何ら同型性がなくてもよい。つまり、強く押せば強く後ろに下がるし、右に押せば右に動くのが普通の道具と機械の関係で、それは同型である。同型に作ることによって「使いやすさ」を保証しているわけであるが、コンピュータは同型性がなくてもよい。そのことが「わかりにくさ」につながる。
 また、直接性の欠如の問題は、やることが空間的に離れている。あるいは時間的にも、たとえば、こちらで朝やって、夜何かが起こるというようなことがあっても一向に構わない。これも「わかりにくさ」につながる。言い換えると、直接性の欠如がコンピュータのパワー発揮の源になっているのではないかと思う。このように、コンピュータそのものの中に、同型性、あるいは直接性の欠如という形で、「わかりにくさ」が内蔵されているということでる。
 もう一つは多機能性である。普通の機械は、その機械の目的、目標は非常に単機能である。あるいは大きなカテゴリー、適当なカテゴリーの中で一つの仕事をするということが定められている。たとえばOHPにはいろいろな細かい仕様があるが、拡大投影機という目標は非常にはっきりした人工物である。しかし、コンピュータになるとまったくドメインの違うものに使う。たとえば料理をするのに使う一方で、飛行機を飛ばすのにも使うというように、いろいろなことに使える。そういう意味での多機能性というのが「わかりにくさ」につながる。これが実はコンピュータのパワーを発揮させるところでもある。  いずれにしても、コンピュータそのものの中に、本質的、構造的に「わかりにくさ」を含んでいて、そういうものが世の中に広まってきたことによって「わかりやすさ」ということが問題になってきている。  そういう状況を踏まえて、機械、あるいは機械との接点であるインタフェースに「わかりやすさ」をどういうふうに作り込んでいくかを考える枠組みを提案してみたいと思う。
 「わかりやすさ」の枠組み
 まず、大きな枠組みとして「わかりやすさ」を次の3つに分けて、具体例を交えながら考えてみたい。
 第1は「知識」である。ユーザーが持っている知識をどのように配慮して「わかりやすさ」を作り込むかということである。
 第2は「知識の運用」である。われわれは知識を頭の中に持ってはいても、それをタイミングよく使うことは意外に不得意である。目の前に非常によく知っている人がきても、突然その人の名前が思い出せないという経験、あるいは試験の時に夕べ勉強したあの本の右上に書いてある蛍光ペンでマークしたあの人の名前なのだけれどどうしても思い出せないというような経験は多々ある。頭の中には知識があっても、それをうまく引っぱり出せない。人間はそういう動物であるから、そのへんを配慮した「わかりやすさ」の作り込みが必要である。言い換えると、知識の運用をうまくできるような情報環境を設計してすればよいということである。
 第3は「アフォーダンス」という概念である。この概念は、最近は非常に一般化したコンセプトであるが、考えなくてもわかるという仕掛けを組み込めないかということである。  (1)知識   認知心理学、あるいは認知科学の蓄積をベースにして「わかりやすさ」を作り込んだらどうかということを考えてみた。これまでも何人かの人たちが、環境、人工物、あるいは機械に「わかりやすさ」を作り込むにはどうしたらいいかについて提案している。たとえば、アップルのデスクトップ画面を設計する時の10の指針というのがある。  1)ユーザーの知識に配慮するということ。  人間の知識は非常に多彩な知識で構成されているが、認知心理学では、こういう知識のtaxonomy(分類)として、「宣言的な知識」と「手続き的な知識」という分類がある。「宣言的な知識」は、さらに「意味的な知識」と「エピソード的な知識」の2つに分かれている。意味的な知識というのは、事典類やテキストに書いてあるような知識を頭の中に持っているということである。一方、エピソード知識というのは、何かで見た知識の分類で、いつ、どこで、だれがというようなことに関する知識である。こういう知識の分類があって、ユーザーの知識に配慮するという時に、意味的な知識に配慮するということで用語の問題がある。特に技術の世界ではテクニカルターム、あるいは業界用語が素人ユーザーの世界になだれ込んで浸透してきて、そこでわかりにくいという問題が起こっている。「手続き的な知識」は、たとえば、われわれは字を書く時にほとんど無意識に書いているが、実はその字が書けるというのを支えている知識が人間の中にはある。自転車に乗れるとか、料理ができるとか、ほとんどものを考えなくても何かができるという時に、それを支えている知識である。  この2つをユーザーの知識に配慮するということに関して、簡単な例を述べる。  第1は、表現の問題である。パソコンやワープロなどのマニュアルや取扱説明書を見ると「××をセットしてください」というような表現が頻繁に出てくるが、実は初心者ユーザーはこれが大問題なのである。何が問題かと言うと、「セットしてください」と言っても、初心者にとって「セットする」ということは膨大な要素動作が必要なわけである。「フロッピーって一体何?」というところから始まって、フロッピーの裏表がわからない。差し込むといっても、どう差し込んでいいかわからない。このように沢山の要素動作があるのに、習熟すると「セットしてください」というたった一つの言葉でわかってしまう。つまり、わかり過ぎた人がマニュアルなどで初心者に伝えようとする時に「1を選択してください」などという簡単なことは何も問題がないのではないかと思われるかも知れないが、「1を選択する」ためには、カーソルを動かして実行キーを押すといった要素動作があるにもかかわらず、これで済ましてしまう。これが、設計者、あるいはよくわかっている人がわからない人に説明する時の大問題である。
 これを解決する手段は基本的にはないと言ってもいいと思う。今企業などでやっているように、ライターがマニュアルを書くと、わかり過ぎている人が書くから問題が起こるわけである。したがって、ライターと設計者を分離するか、あるいは設計者とライターを分けて共同で書くような組織を作ってやれば、今のような問題を解決することができるが、基本的には非常に難しい問題である。  知識の問題の一つとして、手続き的な知識の問題について述べたが、もう一つの例を使って、いくつかの問題点を指摘してみたい。たとえば、コピー機で使われている機能を表現する「コピーアウトプット」という用語があるが、これをユーザー調査をしてみると、ほとんどの人たちが「コピーを出力するところ」という理解の仕方をする。テクニカルタームには比較的合成用語が多いが、コピーもわかる、出力もわかる。しかしそれを合成すると、見るほうは一つの言葉として見ないで「コピーを」「出力する」というように単語に分解して一つのセンテンスを作り、それによってその機能を理解しようとする。その結果が勘違いにつながるわけであるが、こういう一つの機能を表現する機能用語、あるいは専門用語を無造作に使い過ぎるということを指摘しておきたい。  ある企業では、用語の専門家を通さないと新しい用語を使えないようにしているところがあるそうであるが、そこまで気を使ってもらえればいい用語が使われるようになるのではないかと思う。
 第2は、用語の問題である。コピー出力というのは実はコピーを出力するモードなのである。コピーを出力する様式、つまり「丁合にしますか」「スタックにしますか」「ホチキスにしますか」という様式がある。ホチキスはいいとしても、丁合、スタックというような言葉に注意していただきたい。コンピュータは、いろいろな仕事をその中に取り込んでシステム化するわけであるが、その時に、業界用語、つまり印刷業界、編集業界で使われている言葉を非常に無造作に取り込んで、そのままコンピュータの機能を示す用語として使ってしまう。これではユーザーにはわからない。もう一つ初心者ユーザーは、コンピュータそのものの用語がわからない。つまり二重にわけのわからない言葉に直面するような状況が発生するわけである。ここのところも非常に注意を要することであるから、もっとユーザーが日常的に使っている言葉で表現できないかということにも考慮していただきたい。つまり日常の言葉を使って済むところは日常の言葉でよいではないかということである。たとえば、丁合、スタックに関しても、実際に調査をしてみるとわかる。どういう言葉を使えばわかるかというと、「1ページごと、1部ごと」というような言葉を使うと、75%以上の人がわかる。
 第3は、コンピュータの世界で使われる用語は、階層性を持っているということである。たとえば、ユーザーがスタックという仕事をしたいという時に、スタックという仕事がどういう上位の用語の中にあるかを判断したり、あるいは記憶しておかなければいけないから、非常に記憶の負荷がかかる。さらに問題なのは、生物が植物と動物に分かれていて、動物が脊椎動物と無脊椎動物に分かれているといったような意味的な階層性であれば、ある程度教育で片が付くが、コンピュータの場合には「アドホック・カテゴリー」などという言い方をすることがある。ある特定の仕事を想定して、それに必要な機能をくっ付けていく。たとえばキャンプに行く時に、われわれはどういう手順で仕事をするか。「キャンプに行く」というトップの名称があって、その中にいろいろな仕様が入ってくるというアドホック性。その場限りの非常に便宜的な名称の付け方をする。そういう階層性というものをどう克服するかというと、一つの手としては、これを全部見せてしまうというやり方があり、かなり一般化したやり方として使われている。
 (2)知識の運用  
 われわれは知識を沢山持っていても、それを適切に運用できないということがある。それをうまく運用するような情報環境を設計するということが大きな問題として出てくる。 たとえば、ローマ字で文章を出されると、これを処理するのに20秒かかるとする。これを漢字仮名交じり文で表現すれば10秒で済む。また、これにどこかでポーズを入れると意味の取り方が変わってくる。つまり、切り方によってまったく意味が違ってくる。したがって、ユーザーの持っている知識をうまく運用させるという点では、こういう情報環境を提供するのはあまりよくない。やはり、日本語の場合は、漢字仮名交じり文で提供すれば20秒かかるところが5秒で済む。つまり、単位当たりの処理効率が高まり、単位当たりの処理効率が高まればそれだけ情報が頭の中に入ってくるわけで、それが「わかりやすさ」につながる。
 1)短期記憶の活動を最適化する  一度に沢山の情報が処理できるようにするためには、   
?チャンキング(区別化)を支援する
   ・情報のまとまりを見せる
?注意コントロールを支援する  
  ・階層化することによって、注意の配分を分ける
   ・眼球運動を定型化し、あるいは最小化する というようなことが必要である。
?と?では、われわれが取り込める情報の効率が変わってくる。つまり情報を区別して、大事なものとそうでないものとをきちんと分けるような設計思想を導入すれば、誰もが?のような表現をすると思う。?は区別するという発想はよいが、意味のまとまりをまったく無視して情報を区別化しているわけである。意味のまとまりと見た目のまとまりとが一致するような情報環境を設計してやれば、情報の取り込み効率は非常によくなるということである。このように情報の取り込みを上手に設計してやるということが知識の運用においてもっとも大事なポイントである。
 2)ユーザーの持っている既存の知識を活性化し、使いやすくする
 かつてのコンピュータは、コマンド方式、コマンド・インタフェース、あるいはキャラクター・ユーザー・インタフェース、文字で、あるいはコマンドで、インタラクションしていたが、コマンドを忘れてしまうとどうしようもない。そこで最近、新たに出てきたのが、見てわかる、見て選べばいいという「再認型インタフェース」で、記憶の負荷をかけないで知識を引き出しやすくするというものである。すなわち再生型から再認型へというようなことがある。あるいはアイコンというようなものも、実は、思い出す手がかりを豊富に提供するという点では非常に優れた手法である。アイコンを見ると、そうだ、こういうことなんだと思い出しやすくする。つまり、記憶の手がかりが豊富になる。しかし、何でもアイコンにすればいいというわけではなくて、適度の抽象性、適度の具体性のあるアイコンでなければ機能しないということは言える。  もう一つは、ユーザーはわけがわからない状況にさらされると非常に緊張したり思いこみをする。たとえば、ファクスが出始めた頃、いくら送っても送ったモノが出てきてしまうという不満を言った人がいた。送るということについてのわれわれのモデルは、送ったら手元には残らないというもので、こういう思いこみは当然ある。わけのわからない状況にさらされると、人間は思いこみをすることによって、状況をわかろうとする動物のようである。思いこみが適切なもの、あるいは妥当なものであればいいが、それを欠いた場合には事故や災害につながるというケースはよくある。そこで、ユーザーをできるだけわけのわからない状況にさせないということが一つ考えどころとしてある。そのためにはともかく情報を見せるということが大事である。
   要するに、コンピュータの状況、それからユーザーの状況は、複雑さ爆発を引き起こすチャンスが非常に大きくなってきている。そこで、こういう複雑さ爆発を起こさせない、あるいはもし起こしてしまったらそれを回復できるような情報環境を設計してやればよい。そうすれば効率的、納得的な情報処理ができる。ただし、この世界は、工学的、あるいは論理的な物理的な意味での正しい世界ではない。とりあえずこういうふうに考えてくれればいいというような世界である。
 具体例を挙げると、コンピュータで成功した「デスクトップメタファ」とか「オフィスメタファ」と呼んでいるものがある。これは、たとえの世界を人と機械の交流の間に差し込み、たとえの世界と交流する。事務室、オフィスで仕事をするかのように、あるいは机の上で仕事をするかのような世界を設計し、画面で見せて、この世界の中で交流するということで「わかりやすさ」を作り出していこうというわけである。これはたとえの世界であるから、この世界にも嘘の世界が潜んでいるが、それを補ってあまりある「わかりやすさ」が提供できるだろうという考え方で、今や技術の世界でもこういう情報環境を作り込んでいかなければならないような状況になってきていると考えればよい。このような環境を作ってやることも、わけのわからない世界に陥らせない一つのやり方である。
 それから、全体と部分の関係。これはコンピュータの画面などで使っているズームアップの手法であるが、全体と部分を常に見せてやる。最近、電子ブックで魚眼レンズ方式の目次があるそうだが、これは今読んでいるところは非常に詳しく、読んでいないところはかなり荒くというような表現である。しかし、常に全体があって、部分が表現されているという目次で、非常にいい目次ではないかと思う。このような趣向をこらすことによって、わかりにくい世界に入り込む水際で押さえる。あるいは、何が何だかわけわからない世界へ入り込んでしまったら、そこから回復できるような世界を情報環境の中に組み込んでやるという話が出てくるわけである。


研究者倫理

2007-01-13 | 心の体験的日記
研究費の流用
論文ねつ造
など研究者倫理が問われている

査読の現場でも、既発表のものを別の雑誌に再投稿
というケースに出あったことがある。
自分のものだから、という安易な気持ちからであろうが、
学会雑誌は、オリジナルが前提だから、これはだめ。