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シチメンチョウ(七面鳥)は すごかった

2002年の ふゆだったでしょうか。

わたしは「ニワトリをしめる あつまりが あるんだけど、こないか?」と さそわれ、えーーー いきます!!!!と よろこんで参加したのでした。

わたしが はじめて脱肉食(ビーガン)をやっていたのが高校1年のときからで、高校3年のころからビーガンから「サカナをたべるベジタリアン」になりました。

大学に はいってからも、しばらくはサカナをたべるベジタリアンだったのですが、チューカ料理店でアルバイトをはじめてからは、肉をたべることに制限をおかない生活になりました。

あのとき、わたしが おおきく誤解していたのは、ベジタリアニズムを二者択一で とらえていたということです。べつに、毎日 肉をたべてもベジタリアニズムに矛盾しないのに。「肉食に制限をおくのは、もう やめた」。そんなふうに かんがえてしまったのです。いま ふりかえると、残念なことをしました。

なぜなら、わたしは肉に たよらない料理をつくるのが、かなり上手だからです。


はなしをもどしましょう。

わたしはベジタリアンで、鶴田静(つるた・しずか)さんの『ベジタリアンの文化誌』という本の愛読者でした。いまでは文庫版が でています。おすすめです。


この本で、死んでしまった愛犬をたべた おじさんの はなしが紹介されていて、感動して よんだのです。鶴田さんも、肯定的に紹介しているのですよ。もちろん。(追記:愛犬じゃなくて、野犬でした。「家畜を殺した野犬」をつかまえて、「その犬を食べようと決心」し、そうしたというはなしです)


肉をたべることに制限をおくのをやめても、わたしが こだわりつづけたのは、肉をたべるひとは、動物を、なんのためらいもなく ころすべきだということでした。ここに、わたしの内なる「神様やろう」な発想をみつけて、いまでは苦笑しています。

韓国に はじめていったときも、なにが たべたいと きかれて、わたしはイヌが たべたいと いったのです。だから、たべるためなら、わたしはイヌを平気で ころすことが できます。わたしにとって、イヌをたべるということは、そういうことでした。そういうこととして、イヌをたべました。


だから、ニワトリをころす機会をもらえて、たいへん感謝したのです。「まえから夢だったんですよー」と、お礼をいいました。

で、その当日、わたしは遅刻しました。

いってみたら、ほとんど おわってるのです。それでも、ておくれでは ありませんでした。わたしはニワトリを一匹ころしました。首の両側に包丁で きりこみをいれて、さかさに つるすんですね。そしたら、ばーーと血がでる。しばらく つるしておいて、それから熱湯に いれて、毛をむしる。内臓をとっておく。内臓も たべるんですよ。もちろん。

とても たのしかった。

で、シチメンチョウも のこっていたので、だれかが ころしたんですね。そしたら、血の量がニワトリより断然おおいわけですよ。あれは圧巻でした。

ぶわーーーーっと。


宮沢賢治(みやざわ・けんじ)は、つるたさんが『ベジタリアン宮沢賢治』という本をかいているように、菜食の思想をもっていました。その宮沢賢治が、「毒もみの好きな署長さん」という小説をかいていることに、わたしは ものすごく共感するのです。

署長さんは、法律で禁止されている毒もみをやってたんですね。川に毒をながして、サカナをころしてしまう毒もみを。そして、それが ばれて、署長さんが いうのです。ああ、たのしかったと。そんな短編小説です。

わたしは、いきものをころすのが だいすきです。おもしろいから。けれども、だいすきだからこそ、なるべく ころさないで いようかなと、あるとき おもうようになったのです。


ベジタリアニズムは、一枚岩では ありません。いろいろ あります。だから、ベジタリアニズムとは なにか?なんて議論は したく ありません。

わたしは、どうするのか。その主体的な一点だけ、かんがえたいと おもいます。


けれども、肉をたべるとは、どういうことなのかは、じゅうぶんに議論の意義があるはずです。

いったい、肉で腹をみたすために、どれほど ゼータクなことをしているのでしょうか。肉の値段は、もっと たかくて いいはずです。それこそ、金もちだけが たべてれば いいんです。なんで肉がファーストフードに なりえるんですか。

わたしたちは、いびつな社会をいきています。
追記:野犬をたべたはなしは、田島征三(たしま・せいぞう)『土の絵本』という本に かいてあることです。そのうち、よんでみます。かさねて、『ベジタリアンの文化誌』を、おすすめしておきます。
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わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ

きのうも肉をたべたように記憶しています。けれども、わたしはベジタリアンです。

読者のみなさんも、きのうも きょうも肉をたべたかもしれませんが、ベジタリアンです。

まえに、「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」という文章をかきました。

これにたいし、タカマサのきまぐれ時評2さんからトラックバックをもらいました。いまさらながら、補足をかねて、おへんじをかきます。

「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは正論だとはおもうが…の後半部分をとりあげます。タカマサさんは、わたしの記事に、つぎのようにコメントしています。
■たとえば、「ひとは すべて、倫理的、宗教的、健康的、体質的、味覚的な理由から たべるものをえらんでいる。すべての食材をたべるひとは どこにも いない」「人間すべての本質でもある」という記述は、人類学的には ただしい。■しかし、だったら、「ヒト=ベジタリアン」ということになってしまう。なにしろ「すべての食材をたべるひとは どこにも いない」んだし。
■でも、「ベジタリアン」というのは、限定形容詞でしょう? つまり、「全体」よりちいさな「部分」であるはず。つまり、hituziさんの立論は、「全体=部分」という、パラドクス(逆説)の言明になってしまう。■同様に、「肉をたべるベジタリアン」という表現も、論理階梯に混乱を生じさせているとおもう。「ヒト=ベジタリアン」のなかで、限定しているってことはわかるんだが、「ヒト=ベジタリアン」って素描が意味があるか、問題なんだから…。
■とするとだね。「ベジタリアニズムは人間集団に普遍的で、むしろ これから完全に自由な存在はほとんどかんがえられない」というべきだとおもうんだね。以前、ヒトはなぜペットをくわないか? みたいな、くだらん立論してよろこんでいる先生がいたが、それと全然ちがった、ふかい人類学的考察ではあるとおもう。■しかし、「ヒト=ベジタリアンであるがゆえに、差別・異端視するな」という差別論におわるとしたら、つまらない。
■もちろん、「イヌくうな」「クジラくうな」式の暴論を検討するなんて、ちいさな課題にとどまらない。■「動物性たんぱく質をこのむ人間存在ってなんだ?」「植物さえも殺生することをいやがるタブー意識ってなに?」「食糧の配分の正義はもちろん、動植物を殺生するヒトの権利はどこまでまっとうといえるか?」なんてこともふくめて、とても射程のながい提起であることは、あきらか。
「ヒト=ベジタリアン」ということになってしまって、全然いいじゃないですか。とっても いいじゃないですか。

「「ヒト=ベジタリアン」って素描が意味があるか」。あるに きまっています。なにって、政治的な意味があります。社会運動的な意味があります。「南北問題」的に意義があります。

タカマサさんは、「「ベジタリアン」というのは、限定形容詞でしょう? つまり、「全体」よりちいさな「部分」であるはず。」と いいます。

だれにとって限定形容詞なのでしょうか。「やつらにとって」なら、わたしは そんなもの気にしません。「「全体」よりちいさな「部分」」になんか させません。

野菜をたべるという点において、あるいは、あかちゃんなど、肉をたべていないという点において、わたしたちは、みんなベジタリアンです。

ベジタリアンである程度が、それぞれ ちがうということです。

わたしが問題にしたいのは、つぎのような潔癖主義です。


「肉をちょっとでも たべているならベジタリアンではない。」「その資格はない。」「そう名のるべきではない。」

とんだ たわごとです。

潔癖主義にたつことで、たくさんのベジタリアニズムを否定し、排除する。おとしめる。エリート主義です。


ははは。


うそうそ。


そうじゃない。


反ベジタリアニズムの思想の もちぬしが、ベジタリアンを限定形容詞にしてしまうのだ。なぜか。そうすることによって、ベジタリアニズムを他人ごとにしたいからです。にげたいからです。自分から、きりはなしたいからです。自分とは関係のないことにしたいからです。


きょうは、野菜をたべよう。そんなとき、あなたは すてきなベジタリアンです。

きのうは肉をたべました。それでも、あなたはベジタリアンです。


そういった ゆるい思想。ゆるい連帯。資格をとわない社会運動が必要なのです。


きょうは、これだけする。きょうは、やすむ。けれども、めざすところは、脱肉食である。野菜をたべることをたいせつにする。


わたしたちは、すでに みんなベジタリアンです。そして、思想的ベジタリアンになるならば、脱肉食に、さらに ちかづきます。わたしたちは、脱肉食に もう すでに あゆみよっています。そこを、さらに あゆみよることができるのです。

肉食の不合理を意識することによって、ベジタリアンの思想を獲得できるのです。


肉をたべるには、動物をそだてなければなりません。さて、どうやって そだてましょうか。水をあたえるだけでも、たいへんな資源を消費します。水は ただではありません。動物は、水だけでは そだちません。穀物などの野菜が必要となります。

わたしをふくむ、先進国のひとたちは(=不当にだれかに経済的に まずしい生活をおしつけているひとたち)は、あらまあ おいしそうに肉をたべます。

経済的に まずしい生活をおしつけられているひとたちは、なにをたべているでしょうか。そのひとたちの生活環境は、どのように なっているのでしょうか。


肉食は破壊だ。


おおきな動物をたべずに、ちいさな生物をたべよう。ムシを積極的にたべるのも、ベジタリアニズムです。わたしたちは、すでにベジタリアンです。そこから にげるのは、とりあえず、やめましょう。



え、なに?

いま、批判的な こえをききました。

おまえは、おまえたちは、破壊的な肉食者なのだと。

だれでしょうか。このこえは。神様?

おまえは、だまってろ! この神様やろう。
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オチを つけるために

グーブログ(gooブログ)で かきはじめて、4年ちかく なります。びっくりです。

グーは、機能的にみて、あんまり おもしろくないので、そのうち ほかのブログサービスに移転します。

けど、「オチを つける」までは、ここで かんばりますので、よろしく!


意味ある オチを つけるために!
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「こんなブログが いやだ!」をかんがえる

横スクロールをおしつける。

画像に代替テキストが ついていない。

文字が かぶさって表示される。

絵文字をつかっている。

漢字表記の なまえや地名に、よみがなをつけない。

英語が あたりまえのように つかってある。日本語訳が ついていない。

「ここ」って どこだよ、そのさきに なにが あるんだよ!って おもわせるリンクの はりかたをしている。

こういうのって、いろんなパソコンと、いろんなウェブ ブラウザで みてみないと わからないよね。わたしのパソコンは、iMac(アイマック)で、ブラウザはOpera(オペラ)です。検索マニアさんには、オペラが おすすめですよー(Opera ブラウザ)。


さて、「hituziのブログ 無料体験コース」の こんなところが いやだ!ということについて、コメントを おまちしています。
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種差別とは

「種差別」ってのは、あんまり日本では いわれてないね。

けど、最近は けっこう翻訳本が でてるみたい。

あたしは国粋主義者ですから、翻訳本よりは日本語で かかれた本が よみたいです。

まず、「種差別」 - ウィキペディア
種差別(しゅさべつ、speciesism)とは、性差別や人種差別などにならって作られた用語で、人間とは種が異なるとことだけを理由に異なる価値や権利を付与すること。人間のみを特権づけ他の生物をないがしろにする差別(人間中心主義)は不当だとする、ピーター・シンガーら動物の権利(アニマルライツ、animal rights)の唱道者らによって使用されている。
わかりやすい説明ですね。

で、本をご紹介しておきます。

田上孝一(たがみ・こういち)2006『実践の環境倫理学—肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティブ』時潮社

いいですねえ。題をみるだけでも。

わたしは まだ よんでないのですけどね。この本が でた当時から、注目だけは してました。

たがみさんの文章は、「動物権利論の実像」『人権21—調査と研究』2007年12月号というのをよんだことが あります。
 責任能力があり義務を遂行できる存在のみに権利があるというのならば、幼児をはじめとする多くの人間が無権利のまま放置されることになる。そうならないためには、例えば「自我がある存在は権利を有する」という程度までハードルを下げなければいけないが、そうすると今度は権利を人間以外の存在にまで拡張する必要が出てくる(19ページ)。
いいですねえ。

種差別については、ジェームズ・フィン・ガーナー『政治的に正しいおとぎ話』や『もっと政治的に正しいおとぎ話』でも とりあげられていましたね。

『政治的に正しいクリスマス物語』をまだ よんでいないことを残念に おもいます。

わたしは、人間中心主義に たっています。おそれながら。

けれども、人間中心主義に たちながら、動物との関係において めちゃくちゃ倫理的になるというのも、ありだと おもうのです。それの どこが人間中心主義なの? ってゆーくらいに。

それは、「ヒトは悪魔か」や、「かくも「正しい」動物愛護」に かきました。

紹介『動物の命は人間より軽いのか』も よんでください。
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もっと妄想しよーぜ

わたしは、空想家です。

ゆめを みるひとです。おもいえがく ひとです。想像力が ゆたかです。

わーい。


妄想するのは、たのしいことです。たのしいことを妄想するのが たのしいというより、妄想すること自体が たのしいことです。ええ、わたしにとっては。


なにをいうときにも、「わたしにとっては」という注釈をつける。それが わたしのモットーです。


「性差別と性別主義」にトラックバックをいただきました。うれしいことです。反応をかくまえに、これまで かいた記事をご紹介しましょう。

「自閉症が わからない。人間像をぶちこわせ。」

「人間は、「なるもの」とか「であるもの」なんかじゃないんだ。するものなんだ。」

「ジェンダーは行為だ、するものなんだ。」


くりかえします。

「オトコとかオンナとかってのが実体として つよくイメージされていて、それが うたがわれることがない、という状態」を、わたしは批判します。

「人間というのは ただ、「にたものどうし」ってだけのことです。「人間の概念、さきに ありき」じゃ いけないのです。」

「「人間」なんて どこに いるんですか。人間こそ、想像上の幻想にすぎませんよ。家族的類似による「人間」の ぼやけたイメージをもっていて、そのイメージに そっている ひとを人間だと認識するのでしょう。だから、さきに「人間という総体」を想定してはいけないのだと おもいます。」

「はだかになろう。人間像をぶちこわしましょう。」

さて、いただいたトラックバックに おへんじします。

「ダブルスタンダードが生み出す妄想でしかない」Kazu'Sの戯言Blog(新館)

「いやがらせじゃないよ」ってのは、「わたしにとっては」っていう それだけのことです。

同じ理屈で「いやがらせ」だと感じるのも「わたしにとっては」っていうだけのことだろう(笑) って言われたらなんて答えるんでしょうか。
当然ながら、そのとおりだと こたえます。あたりまえですよね。で、なにか問題になるでしょうか。

いやなことをされているひとが「いやだ」という。そういうもんでしょ?

「え、あ、いやだったの? 気づかなかったよ。ごめん。」とか。

「ん、いやだって? しらねーよ、そんなもん。うるせー。」とか。

「そこで自分は、どう反応するのか」という主体的な問題です。
しかし、おかしいのは性差や年齢という括りは認めていないのに、人間という括りだけは認めているという点です。完全なダブルスタンダードですね。
ですねー。わたしも、かきながら気になりました。ええ。だから、「人間というのは ただ、「にたものどうし」ってだけのことです。「人間の概念、さきに ありき」じゃ いけないのです。」とも かいたんです。

結局のところは、「人間って なんなのよ?」って問題に いきつくわけですから。
その点を修正して、性差も年齢差も人間もそれ以外も認めないとするなら、個だけが残ることになり、個だけが残ればみんな違うって考え方が成立します。違うのであれば異なった扱いを受けるのはなんら不思議じゃ無い訳で、便宜上、効率上、括りも認めざるを得ないということになります。
で、「個だけが残る」という点については、個って なにを基準にするのよ?って問題をひきおこすようにも感じます。だから、「ひとりの人間とは なにか?という問題」について、かるく ふれました。

で、「違うのであれば異なった扱いを受けるのはなんら不思議じゃ無い訳で、便宜上、効率上、括りも認めざるを得ないということになります。」という ご指摘については、よく わかりません。「便宜上、効率上、括りも認めざるを得ない」のは、だれにとってでしょうか。

多数にとってとか、管理をするひとにとってなら、そのとおりでしょう。あるいは、わたしも そういう都合で くくりをみとめることが あるかもしれません。

ええ。

で、「わたしの都合」として、そういった「だれかが つくった くくり」を批判しても、べつに いいじゃないですか。


だれかが都合で くくりをつくって、また だれかが 都合で破壊して、あらたにまた くくりが つくられ、破壊され…。永遠に つづくかもしれません。

で、それで いいじゃないですか。



いっておきますけど、わたしはファイナル アンサー、最終的な結論をこのブログに かいているわけではありません。

わたしの文章には、ただ、時代的、文脈的、瞬間的な意味しかありません。それで いいじゃないですか。

ファイナル アンサーなんてものが どこかにあるなら、もー おわったようなもんじゃないですか。

最後に、むかし かいた文章をご紹介しておきます。

「断言しても仕方がない。だけども、それでも とりあえず。」
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「きょーかしょ(教科書)」という表現を やめる

世界の片隅でニュースを読む : 教科書の出典がウィキペディアでいいのか

この記事に たいして、アナーキストのやねごんさんが「うーん……。むしろ教科書のほうにこそ「この項目は書きかけです」の注記が必要ではないかなあ。「教科書なんてあんまりあてにしないでね」と。」というコメントをつけています。

ずばりですね。これほど明確に教科書のありようを指摘した文章が、これまで あったでしょうか。

教科書批判といえば、ましこ・ひでのり2003『増補新版 イデオロギーとしての「日本」—「国語」「日本史」の知識社会学』三元社が おもいうかびます。ごつい本です。けれども、わたしの論文をたかく評価している ありがたい本です。だから よんでください。

共産主義者の常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)さんによる百万眼的な視点 - (元)登校拒否系も これからの社会をいきていくうえで、むきあっておく必要のある たいせつな文章です。


最近、わたしも教科書って なんだろうということについて、あれこれ かんがえていたのです。そして、かんがえました。ひねりだしました。

ああ、そうか。そういうことだったんだ。

きょーかしょ(教科書)の かわりになる表現は、ねたです。ねた。

「ねた」。


 はなしの ねた。

 授業の ねた。

 かんがえるための ねた。


ちがった意味もあります。

 国家の ねた。

 執筆者の ねた。

「ねた」ですから、もっと いいかえていくことが できます。
なんて生産的なんでしょう(らんらん)。


 あたしには わかりかねた。

 くだらないから授業中、ずーっと ねた。おきたら おわってた。

 ぱくって まねた。


くそ、あああああああああああああああ。
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性差別と性別主義

いまジェンダー論で ひとつの争点となっているのは、ひとことで いえば、「性別主義という問題について、あなたは どのように かんがえるのか」ってことだと おもう。一般的には「性別二元論」と よばれている。だが、三元論なら いいのか。六元論なら いいのか。そういう問題ではないと おもう。ずばり、性別主義が問題なのである。


性差別に反対するのは、まあ、そりゃ そうだよね。性別のちがいによって差別したり されたりしたら いけないよね。これは、はなしとしては納得のいくことのように おもう。じっさいのところは、「そうは いってもねー」と、差別が合理化=正当化されているのが現状なのだけど。

でね、性別主義ってのは、けっこう意識さえ されていないわけ。トランスジェンダーとか、性同一性障害ってのが話題になっても、なお。

オトコとかオンナとかってのが実体として つよくイメージされていて、それが うたがわれることがない、という状態。

「ただのオトコ」だの、「ただのオンナ」だのは どこにも いなくて、具体的な、ある肉体をもった人間しか存在しないのだけどさ。たったひとりの人間といってしまうと、ひとりの人間とは なにか?という問題になって、また問題になるんだけどね。わかるでしょ? からだが くっついて うまれた「ふたり」は、ひとりなのか ふたりなのか。うるせー。そんなの、どうでも いい。そういうふうに うまれて、いま、そういうふうである。ただ それだけのことだ。ごちゃごちゃ いうな!って、そういう問題ね。

とにかく、さきにオンナという実体、オトコという実体を「あるもの」だと かんがえては いけないものです。人間というのは ただ、「にたものどうし」ってだけのことです。「人間の概念、さきに ありき」じゃ いけないのです。


はなしをもどすと、「ジェンダー論」で問題なのは、性差別に反対しながらも、性別主義を問題とさえ認識していないひとが あまりに たくさんいるということです。

最近では、エイジズムといって年齢差別を表現しています。あれも、そう。

「年齢」「とし」ってものをうたがう視点が必要です。

だって、あなた。

としが いくら ちがおうと、3才のひとも、69才のひとも、27才のひとも、おなじ時代をいきています。同時代を共有しているのです。

いまをいきる わたしたちに、としが ちがうってことに、なんの意味が あるでしょう。「いまを共有する わたしたち」。それだけで いいのです。

3才とか10才とか、そんなもの でっちあげの数字です。ある文化的、政治的観点からみて、人間を数字で あらわしているに すぎません。年齢主義に支配されては いけません。

オンナとかオトコってのも、ただの いやがらせです。

「えー、で、わたしは どっちのトイレにいけば いいの?」

だれかに、そんなことをなやませている「性別」なんてものは、いやがらせでしか ありません。

「いやがらせじゃないよ」ってのは、「わたしにとっては」っていう それだけのことです。

性別主義を破壊しよう。

さよなら、男女別。

さよなら、「彼ら彼女ら」。

さよなら、「彼/彼女」。



人間よ! こんにちわ。

どうも、はじめまして。
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金メダルは天から ふってこねーよ

このひとが優勝だとか、このチームが金メダルだとか。

あはははは。

なにそれ。大本営発表みたいね。

「おかみの さばき」ってか? 時代劇の みすぎなんじゃねーの?


統制機関が発表した優勝だの準優勝だの、関係ねーよ。「はいはい(笑)」で すませば すむだろーが。

もっと みいだせよ。みつけろよ。
この「予選おちした」と やつらが発表した この選手、みてくれよ、これこれ。こりゃあ金メダルもんだね。すげえよ。歴史にのこる。いや、のこす。とりあえず、おれが死ぬまで のこる。は? 歴史ってのは、おれが うまれてから死ぬまでの時間のことなんだよ、そもそもが。しらねーのか? なに いってんだよ。なに歴史を おーげさに とらえてんだよ。そんなんだから やつらが「予選おち」だなんてゆー たわごとを、はい わかりましたって まともに うけとめちまうんだろーが。この。
こんなかんじで居酒屋談義ですよ。

そりゃもー、しゃべるのが仕事のテレビタレントなんて、すごいよ。もー うるさいってくらい自分だけの金メダルをかたりまくるわけ。

で、しまいには、だれだよ そいつってゆーよーな ひとをとりあげて、「このひと! このひとは金メダルだよ。もーね、すごいんだから。」


え、なに? そんなもん、純金のゴールドでもなんでもなくて、ただの こばなしじゃないかって? べっつに いーじゃねーか。

そもそもな、純金は価値が あるものだって発想だの、しくみだのが だよ、やつらが いってるだけのことじゃねーか。

もーね、あんたみたいなのはさ、天皇さま、おひさま、おひなさまで、もう天ばっかり あがめてなさいよ。それで しあわせなんでしょ。よかったねーーーーーー(笑)。
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スポーツは政治のはじまり?(笑)

オリンピックって いったい なんなんだとか、スポーツに政治をもちこむなとか。

あははははははは。


スポーツそのものが政治でしょ。


あらそい、かちまけ、きそいあう。


対戦型のスポーツは みーんな政治であり、政治的なんだから そういう「スポーツの祭典」が政治的でなくて、どうしますか。政治を期待しないで、なにを期待するんですか。

政治を期待するから応援したりするんでしょ。だから、国別でメダルのかずとか比較しちゃったりするんでしょ。オリンピックを誘致しようとしたりさー。

オリンピックに政治をもちこまないなら、きそいあわない。これ。

勝負しない。これ。最強。みんな最強。みんなが それぞれの基準において最強であるという最強。

そういうことは、あんまり いわれてないような気がしますね。けど、わたしの気のせいでしょう。


日本は柔道でメダルが とれなくなっただの、ばかばかしい発言が みられたりしますけども、なによそれ。

柔道に精神論をもちこむなと、あたしは むしろ そっちをいいたいね。

カラフルな格好で柔道しちゃいけないだとか、そんな はなしが なかったっけ? 日本語では なんとか「どー(道)」に美徳をみいだそうとしますやね。だれが? わたしではなくて、ほかの だれかが。

あの、「どー」って やつが きらいなのよね。精神論。茶道とか、ああいう上品ぶったのも だいきらい。だから柔道はスポーツじゃないとか いってるひとは、永遠に いっていてほしいですね。化石になるまで。

一方では柔道を精神論に おしこめて、また一方ではスポーツとして あつかってメダルが とれないって(笑)。

柔道はスポーツでしょうよ。わるい意味で。


スポーツに もっと いびつな意味あいをくっつけちゃいましょう(はあと)。
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いやがらせを たくらむ

その1: 肉が たべたくなくなるような小説風エッセイをかく。トラウマになって、肉なんて みるのも いやだという ひとを5人くらい つくるという盛大な計画。

肉食のマイナスの部分をあばきつらねる。そういうのって けっこう蓄積があるから、紹介しまくれば いいね!


その2: 「言語」「ことば」のマイナスな部分をとことん強調して、「ことばは すばらしい」とは くちがさけても いえないようにする文章をかく。ことばを賛美する無自覚な政治性に気づくようになって、「ことばの力」ではなく、「ことばの権力」を意識しまくる ひとを10人くらいつくるという まじめな計画。


その3: ことばのアナーキズムを実践する。これは、ふかい思想にうらうちされた、おふざけだけど、まじめな とりくみ。なにが なんだか わからないけど、なんか わかるなあ計画。


その4: すべてのコミュニケーションは文脈に依存していることを再確認する。明晰な言語によって状況をえがきだすのではなく、具体的な状況において なんらかの行動をおこすことに注目する視点をひろめる計画。
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本を よまねばなんだけど

えっとね。

◆小澤勲(おざわ・いさお)編『ケアってなんだろう』医学書院。対談とコメント文をあつめたものなんだけど、これが よんでいて やすらぎます。ねるまえに よむには最適です。

◆『ケアという思想—ケア その思想と実践1』岩波書店。これも なかなか。

臼井久美子(うすい・くみこ)「情報アクセス・コミュニケーション・ケア—聴覚障害者の立場から」
石川准(いしかわ・じゅん)「本を読む権利はみんなにある」も収録です。

三好春樹(みよし・はるき)さんの介護論は、やっぱり いいね。本、あれこれ よまなきゃ。たくさん ありすぎるけど。

◆松澤和正(まつざわ・かずまさ)『臨床で書く—精神科看護のエスノグラフィー』医学書院。

「臨床をどう記述するか」とか参考になる。ゆっくり よむかなあ。

あたらしく本をよむのは、どうも おっくうだ。いままで ちらっと よんだ本を、よみなおしてみるのが楽だ。ううむ。

◆けど、菅原和孝(すがわら・かずよし)さんの本をたくさん かったので、よまなくっちゃね。『会話の人類学』『身体の人類学』『感情の猿=人』。

『もし、みんながブッシュマンだったら』『ブッシュマンとして生きる』『フィールドワークへの挑戦』も よみなおすかな。

編著の『コミュニケーションとしての身体』収録の すがわら論文は、なかなか てごわい。あとは『語る身体の民族誌』を手にいれれば、ひととおりは そろうことになる。

◆すがわらさんが よい本だと紹介していたチャールズ・ハート『見えない病—自閉症者と家族の記録』晶文社が とどいた。よめるかな。

◆批評社の『発達障害という記号』は かるく よんだ。メンタルヘルス・ライブラリーの最近のやつね。おなじシリーズの『自閉症スペクトラム』は、これから よむところ。

◆久保田正人(くぼた・まさひと)『ことばは壊れない—失語症の言語学』開拓社は、なかなか よい本かもしれない。いまから よみます。
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死刑とか

「おれってさー、けっこう人とか殺すのすきなんだよねー。殺したことないけど(笑)」とか。

「人を殺すのって、おもしろいんじゃないかな」とか。

想像ではあっても、そういう「血まみれ」を実感として ともなわない死刑論議は、やめてほしいですね。

「え、わたし? ころすの? 死刑囚を? いやだよー」とか。

「ん? いんじゃない。え、このボタンおせば いいの? はいはい。ちょん」とか。

「………」とか。

そういう具体的な血のにおいのする話をぬきにして、死刑に賛成だとか、なにをいってるんでしょうか。

「はいはい。ちょん」のひとは、賛成してれば いいけどもさ。とりあえずは。ま、そのうち死刑は廃止に もちこみますので、賛成してもムダだけどさ。

え、なにを根拠にって うるせーよ。

血まみれ覚悟で、かえり血をあびるのを前提にしないでおいて、なーにが死刑ですか。



はあ。ひとが ひとをさばくということに、もっと絶望したい。

ひとが、どうして ひとをさばけるってんですか。裁判だとか、なにあれ。なにさまのつもり。


こういうことをいうとさ、けっこう共感してくれるひとも いるかもしれない。けどさ、ちょっと まってよ。

ひとが、ひとをさばくってのは、かなりの日常ですよ。やられて、やって、くりかえしてますよ。

学生に平気で点数つけたりできるのは、ひとが ひとをさばいてるってことだかんね。テストなんて、おそろしくて できねえよなあ。


神様になりたがる教祖たちよ。おまえは権力だ。

くつがえされてしまえ。ひっくりかえされて、すってん ころりん、ころんでしまえ。
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いきものを ころす

このまえ、職場のトイレにムカデが いたんですよ。まあまあ おっきいかな。10センチくらい? おおー、あぶねえ。ふんずけて ころしちゃうぜっと あしをふりあげて、まー いいや、にがしちゃえ。トイレのスリッパに はわせて手のほうに はってくるので うおとか いっぺん ほうりだしたりしながら、ともかく そとに にがしました。さようなら。

ムシにしろ、なんにしろ、こどものころ、やたらと ころしまくったので、いまさら ころしまくる気にも ならないのですよ。ヘビとかカエルとかコオロギとか、いっぱい ころしました。チーン。


きょうは流しで食器とか ちょっと あらってたら スポンジに ちっこいムカデが ひそんでいたらしく、ちょろちょろ はってるんですよ。ばしゃばしゃ水かけたりしながら、んー、どうしようかな。めんどくせえ(笑)と、ふんずけて ころしました。チーン。


だから どうしたというはなしでもなく。小学校のころ、家まで40分以上は あるかないといけなかったので、よく かえりに あそんでたんですよ。田んぼや川で。カエルつかまえるばっかりして、スズメバチふんずけて ころしたり、ヘビみつけたら みんなで石なげて こっぴどく ころしたり。


ころしあきてみようか。それで博愛の精神を発揮しようか。

それとも、もっと、俗悪になろうか。


どっちでも いいと おもってる。


けど、おとなになってからは ともかく、あんまり ころさなくなった。部屋にクモが いても、あ、クモだ。おわり。

いるに きまってるもの。


まえから おもってんだけどね、自然とか いうけど、そういうもんは、どこかに うつくしい自然があって、そこに いってこそ「いやされる」、「すがすがしい」気分になるってのは、どうも おかしいと おもうわけです。アスファルトに、草が ちろっと はえてて、そこに自然を感じる、自然をみいだす、というのが、わたしは だいじだと おもうのですよ。

べっつにアスファルトが すばらしいものだとは おもいませんよ。けれども、自然なんてものは、そのへんに ころがっているわけで、そのへんの どうでもいいもののなかに なにか感じるものが なければ、つまらないと おもうのです。


いきものをころすのは、基本的に すきです。たのしいから。

けど、べつに必要以上に ころすのも あきましたね。

もっといえば、ころす必要をうみだしつづけるのも、あきてみましょうか。


肉なんて たべなくても いきていけます。肉をたべるのは、ただのゼータクです。穀物を大量に消費しないと維持していけないゼータクです。


いきものをころすのは、たのしいことです。だから、みなさん、もっと ころしてみてください。ほんと。うそじゃない。ニワトリをころすの、めっちゃ たのしかったですよ。血が いっぱい でてさあ。シマヘビの皮をはいで さばいて たべるのも めっちゃ たのしかったですよ。うそじゃありません。

もっと ころしてみながら、同時に、肉をたべるのをやめていきませんか。やめてみませんか。

ひとは みんな俗悪なんだから、俗悪な どろどろをキープしたままで、ちょっとしたところでバランスをとってみても、それはそれで いいじゃないですか。


動物をころしてみよう。

そして、肉をたべるのをやめてみよう。

ムシだのヘビだの、あんなもん、いくら ころしたって、たいしたことは ないんですよ。けど、ウシみたいな でっかい動物をたべるのは、あまりに効率が わるいんですよ。
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マンガ『黒い羊は迷わない』1巻

1997年の作品。なかなか いいじゃないか。全2巻かあ。2巻も 古本屋にあるかなあ。

くみたてが うまい。

わたしは このマンガが提示するような人間観を坂口安吾(さかぐち・あんご)に まなんだので、それほど新鮮なことが かいてあるようには感じない。けれども、安吾的な人間論をよんでいると、やっぱり安心するというか、いいなあと たのしくなる。

安吾の「デカダン文学論」というのをよんでいただければ、わたしが どれほどに安吾の影響をうけているのかが、わかってもらえるのではないかと おもう。安吾だけでなくて、このブログも よんでくだされば、のはなしだが。

「デカダン文学論」をテーマや話題をずらして かきかえただけのようなことを、このブログに かいてきた。白状しておこう。

いつもいつも安吾を意識しているわけではない。けれども、気がつけば わたしのことばのなかに、安吾は いつも、そこに いる。

たったそれだけのことでもね。安心できるような気がするわけ。それだけでね。


まよわないから。まよっても、こわくないから。こわくても、いきていけるから。いきていっても、いつか死ぬのは わかっているから。死ぬのは こわくない。こわくないから、いきていけるの。
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