自由と人権はどこへ。「私」への進入を恐れるー共謀罪法の強行採決(2017年6月16日中日新聞)

2017-06-16 08:36:24 | 桜ヶ丘9条の会
自由と人権はどこへ 論説主幹 深田実 

2017/6/16 中日新聞
 いわゆる「共謀罪」の導入で、私たちは何を得て何を失うのだろうか。

 得るもの。テロ防止に少しは役立つのかもしれない。政府の言う通りなら外国からテロ関連情報も来るかもしれない。もちろん想定上の話で具体的に示されているわけではない。イスラムテロを防ぐのなら貧困や失業の対策など本を絶つ方が効果的にも思われる。

 では失うものは。

 一番は自由ではないか。日本ペンクラブの集会などでは、内心の自由、表現の自由への侵害の恐れが口々に唱えられた。それらの自由なくして闊達(かったつ)な社会はありえず、おそらく豊かさや繁栄まで奪われてしまうだろう。

 もう一つ恐れるのは人権が脅かされることである。起きてもいない犯罪を防ごうとすれば、捜査の網は必然的に広く深くなりプライバシーは密(ひそ)かに侵され、誤認逮捕や冤罪(えんざい)は不可避となるだろう。

 アメリカで9・11テロが起きたころ、ニューヨークの街でランチに出れば、三十回以上監視カメラに撮影されると話題になった。カメラは役立ちもするが、最近では米政府が巨大電算施設を使って国民のメールなどを「盗聴」していたと内部告発で明らかになった。

 通信や検索技術の発達は社会には利便を、権力には監視社会への誘惑を与えたともいえる。

 日本がアメリカのようになるとは言わないが、国家監視の恐れは消えない。

 見えざる恐れの中で、自由と人権が縮減するのなら私たちの社会の最も大切な共通価値である民主主義が後退してしまう。共謀罪の是非とは健全な民主主義の成否にも等しいのである。

 失われたのなら取り戻さねばならない。取り戻す力はそれでも民主主義であり、権力監視であり、国民の良識である。
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「私」への侵入を恐れる 「共謀罪」法が成立 

2017/6/16 中日新聞
 「共謀罪」が与党の数の力で成立した。日本の刑事法の原則が覆る。まるで人の心の中を取り締まるようだ。「私」の領域への「公」の侵入を恐れる。

 心の中で犯罪を考える-。これは倫理的にはよくない。不道徳である。でも何を考えても自由である。大金を盗んでやりたい。殴ってやりたい-。

 もちろん空想の世界で殺人犯であろうと大泥棒であろうと、罪に問われることはありえない。それは誰がどんな空想をしているか、わからないから。空想を他人に話しても、犯罪行為が存在しないから処罰するのは不可能である。

犯罪の「行為」がないと


 心の中で犯罪を考えただけでは処罰されないのは、根本的な人権である「思想・良心の自由」からもいえる。何といっても行為が必要であり、そこには罪を犯す意思が潜んでいなければならない。刑法三八条にはこう定めている。

 <罪を犯す意思がない行為は、罰しない>

 そして、刑罰法規では犯罪となる内容や、その刑罰も明示しておかねばならない。刑事法のルールである。では、どんな「行為」まで含むのであろうか。

 例えばこんなケースがある。暴力団の組長が「目配せ」をした。組員はそれが「拳銃を持て」というサインだとわかった。同じ目の動きでも「まばたき」はたんなる生理現象にすぎないが、「目配せ」は「拳銃を持て」という意思の伝達行為である。

 目の動きが「行為」にあたるわけだ。実際にあった事件で最高裁でも有罪になっている。「黙示の共謀」とも呼ばれている。ただ、この場合は拳銃所持という「既遂」の犯罪行為である。

 そもそも日本では「既遂」が基本で「未遂」は例外。犯罪の着手前にあたる「予備」はさらに例外になる。もっと前段階の「共謀」は例外中の例外である。

市民活動が萎縮する


 だから「共謀罪」は刑事法の原則を変えるのだ。

 「共謀(計画)」と「準備行為」で逮捕できるということは、何の事件も起きていないという意味である。つまり「既遂」にあたる行為がないのだ。今までの事件のイメージはまるで変わる。

 金田勝年法相は「保安林でキノコを採ったらテロ組織の資金に想定される」との趣旨を述べた。キノコ採りは盗みと同時に共謀罪の準備行為となりうる。こんな共謀罪の対象犯罪は実に二百七十七もある。全国の警察が共謀罪を武器にして誰かを、どの団体かをマークして捜査をし始めると、果たしてブレーキは利くのだろうか。暴走し始めないだろうか。

 身に覚えのないことで警察に呼ばれたり、家宅捜索を受けたり、事情聴取を受けたり…。そのような不審な出来事が起きはしないだろうか。冤罪(えんざい)が起きはしないだろうか。そんな社会になってしまわないか。それを危ぶむ。何しろ犯罪の実行行為がないのだから…。
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 準備行為の判断基準については、金田法相はこうも述べた。

 「花見であればビールや弁当を持っているのに対し、(犯行場所の)下見であれば地図や双眼鏡、メモ帳などを持っているという外形的事情がありうる」

 スマートフォンの機能には地図もカメラのズームもメモ帳もある。つまりは取り調べで「内心の自由」に踏み込むしかないのだ。警察の恣意(しい)的判断がいくらでも入り込むということだ。

 だから、反政府活動も判断次第でテロの準備行為とみなされる余地が出てくる。市民活動の萎縮を招くだろう。こんな法律を強引に成立させたのだ。廃止を求めるが、乱用をチェックするために運用状況を政府・警察は逐一、国民に報告すべきである。

 ロシアに亡命中の米中央情報局(CIA)のエドワード・スノーデン氏が共同通信と会見し、米国家安全保障局(NSA)が極秘の情報監視システムを日本側に供与していたと証言した。これは日本政府が個人のメールや通話などの大量監視を可能にする状態にあることを指摘するものだ。「共謀罪」についても「個人情報の大規模収集を公認することになる」と警鐘を鳴らした。「日本にこれまで存在していなかった監視文化が日常のものになる」とも。

 大量監視の始まりなら、憲法の保障する通信の秘密の壁は打ち破られ、「私」の領域に「公」が侵入してくることを意味する。

異変は気づかぬうちに?


 そうなると、変化が起きる。プライバシーを握られた「私」は、「公」の支配を受ける関係になるのである。監視社会とは国家による国民支配の方法なのだ。おそらく国民には日常生活に異変は感じられないかもしれない。だが気付かぬうちに、個人の自由は着実に侵食されていく恐れはある。


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