daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

選集『猿蓑』のこと②

2014年09月07日 | (転載・記事)  総 合

*病鳫(やむかり)の夜さむに落(おち)て旅ね哉
*海士(あま)の屋は小海老にまじるいとゞ哉
長谷川櫂さん> 『猿蓑』には…二句並べて収録されているが、入集に当たって凡兆と去来の間で議論があったことが『去来抄』に記されている。 其後先師曰、「病鳫を小海老などゝ同じごとく論じけり」と笑ひ給ひけり。

「病鳫と小海老」の違いが表層部分でしか捉えられない二人でしたわ。
病鳫は新生蕉門の「夜明けと出発」を告げる「取り合わせ」の句でした。
病鳫の句姿といい、勢いといい、未来性といい、何より意味は重い。
長谷川櫂さん> 近江蕉門は去来を中心とする京蕉門とともに遅れてできた蕉門である。どちらも芭蕉が古池の句を詠み、蕉風に開眼した時期に前後して誕生した。去来が芭蕉に見(まみ)えたのはまさに古池の句が詠まれた貞享三年の冬である。

スタート時期を論ずるなら確かに遅れた…けど、意味は正に当に今!
そして夫々の芭蕉門下の意味を論ずるなら、牽引役・しんがり等々。
そんなことを自覚していた芭蕉門下はいったい誰だったのでしょう。
長谷川櫂さん> 早くからあった江戸、伊賀、尾張の門弟たちの間では芭蕉の新風、いわゆる蕉風をめぐって意見が分かれ、のちに袂を分かつ人も出たのに対して、近江と京の門弟はみな初めから蕉風を浴びて育った蕉風の申し子たちだった。

芭蕉俳句の進化に付いていけない門弟は古い人たちの中に多くでた。
古い門弟ほど、諧謔性に慣れ親しみ・染まってしまっていたのです。
それは古い門弟ばかりの所為ではないし、温かな目で見ることです。
長谷川櫂さん> 『おくのほそ道』の旅のあと、芭蕉がここに二年以上も留まるのも、新風を世に問う選集『猿蓑』を江戸でなくここで編むのも、何よりも近江と京の門弟たちが蕉風の理解者であったからである。

理解者。でも、実際は蕉風の体現者・実践者・証明者的な役どころ。
芭蕉が京近辺に留まったのは、京近辺に留まる時だったからなのよ。
必要なら厠に移動するし、手水鉢に移動するし、室にだって入るわ。


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