daiozen (大王膳)

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寅彦の功罪は?

2014年09月07日 | (転載・記事)  総 合

(引用文~要旨抜粋)
(自序)大正九年ごろから、友人、松根東洋城(まつねとうようじょう)の主宰する俳句雑誌「渋柿」の巻頭第一ページに、「無題」という題で、時々に短い即興的漫筆を載せて来た。それがだんだんに蓄積してかなりの分量になった。 元来が、ほとんど同人雑誌のような俳句雑誌のために、きわめて気楽に気ままに書き流したものである。 従って、身辺の些事(さじ)に関するたわいもないフィロソフィーレンや、われながら幼稚な、あるいはいやみな感傷などが主なる基調をなしている。 しかし、これだけ集めてみて、そうしてそれを、そういう一つの全体として客観して見ると、その間に一人の人間を通して見た現代世相の推移の反映のようなものも見られるようである。 中には、ほんの二、三ではあるが、「無題」「曙町より」とは別の欄に載せた短文や書信がある。これも実質的には全く同じものであるから、他のものといっしょにして年月の順に挿入することにした。 大正十三年ごろの「無題」に、ページの空白を埋めるために自画のカットを入れたのがある。その中の数葉を選んでこの集の景物とする。これも大正のジャーナリズムの世界の片すみに起こった、ささやかな一つの現象の記録というほかには意味はない。 この書の読者への著者の願いは、なるべく心の忙(せわ)しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたいという事である。 (昭和八年六月、『柿の種』)



(昭和八年六月号掲載分を読んで)

寺田寅彦は「柿の種」を出版するに当たっての意義をまず、ここに述べている。

友人・松根東洋城氏の俳誌「渋柿」に折々に載せていた漫筆が溜まったらしい。

そしてそれらの短文をまとめて小冊子として上梓する運びになったというのだ。

つまり同人誌の記事であって、完璧な内容とは考えていないと云うことらしい。


ともあれ、寅彦は身辺のささいな出来事を哲学的視点から捉えたと述べている。

それは寅彦の幼稚な感傷や嫌味な感情を伴っているとも言っているようである。

そのような発言ではあるけれど、全体を客観視した時、満更でないと考えたか。

寅彦が生きた大正時代の報道・大衆文化の表れであると締めているようである。


なるほど、寅彦の生き方は大正という時代を反映していると言いたいのだろう。

つまり、寅彦の功績は大正時代のジャーナリズムの功績であると謙遜してみる。

逆に、寅彦の過ちは大正時代のジャーナリズムの過ちであると開き直っている。

それなら、寅彦の存在は功罪いずれが大きかったかを問わねばならないだろう。


何せ、寅彦は東京帝国大学の一員として日本の文化に責任を取る立場であった。

私たちは寅彦の言動を面白がって済ますだけでなく、評価しなければなるまい。

寺田寅彦の功績は何なんだ?そして、寺田寅彦の罪科は何なんだ?功罪や如何?


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