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掛川藩1

2016-12-28 |  掛川藩・横須賀藩

20161227

掛川藩 ;遠江国(静岡県西部)掛川に存在した藩。政庁は掛川城に置かれた。

室町時代

 足利尊氏が始めた室町幕府、それから応仁の乱を経て戦国時代。この頃の遠州や掛川の状況についてご説明しておきましょう。

 掛川周辺の様子ですが、府中の今川家と尾張斯波家の境界付近と云ことで大きな力同士がぶつかり合う場所だったようです。今川家は足利宗家の親族・吉良家(三河本拠、家康と三河をめぐり何度かぶつかる。江戸期にも大名として残り、忠臣蔵事件に)の分家にあたるが、室町期の有力大名に。一方で斯波家は足利家の有力守護大名で細川・畠山と交替で管領を務める立場。両者の間で、東遠州の中小豪族は今川についたり斯波側についたりで力が拮抗していた地域だったようです。

 掛川城については築城の時期ははっきりしないとされています。下記の辺りがその時期と推測されています。

 「1473年将軍足利義政が今川義忠に遠江国懸革荘をあずける」という記録があり、更に今川家略記という書物には、この指示を受けて「今川義忠は家臣朝比奈備中守に急ぎ掛川に新城を築かせた」とあるようです。また掛川城主歴代には「永正10年(酉年)朝比奈備中守、三千石、御建被成る」ともあるようです。いわゆる今川方の前線基地として急ぎ建てた城という形だったと思われます。

 しかしこの城とは現在の城郭跡の東北側にある子角山・天王山にあった砦のようなもので、家臣はすぐ南側にある現在の第1小学校あたりに住まわせたとされています。

(以上は静岡新聞社「ふるさと百話」の記述を軸に)

戦国時代・今川時代

 駿河の守護大名今川家は足利時代からの名家。今川氏親の時代に守護から戦国大名に転身を果たし、1500年頃には遠江は今川領になっていた。今川義元は武田(甲斐)・北条(相模)と同盟を結び東部を安定させたのち、三河・尾張を抜け京へ向おうとしたが、桶狭間で織田信長に討たれる(1560年)。後継者今川氏真は武田に攻められ、重臣朝比奈を頼り掛川城へ。しかし徳川家康に攻められ落城、今川家は滅びる。こうして遠江は徳川領に(1569年)なった。翌1570年家康は岡崎から浜松に本拠を移し浜松城を築くことになった。しかし遠江をめぐる情勢はまだまだ安定せず、武田が甲斐から駿河に入り遠江には北の信濃から南進してきます。二俣城・高天神城を落とし三方が原の戦いでは徳川も大きな痛手を負います。織田信長の勢力を伸ばし、豊臣秀吉の時代になる頃には、徳川も三河・遠江から駿河・甲斐・信濃の大部分まで領土を拡大します。この間、家康は譜代の家臣、石川家成・康通父子を掛川に入れ、やっと遠江自体は落ち着いてくることとなります。 

 <豊臣時代

 豊臣秀吉が小田原征伐を終えると、家康はそれまでのすべての領地を返還し江戸に移されます。この時、秀吉は万一家康が大阪に攻め上る際にはと、東海道の城を子飼いの家臣に守らせることになります。掛川城は山内一豊に任せます。しかし秀吉死後は家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、自らの居城である掛川城を真先に家康に提供し、家康に与することを正式に表明してその歓心を得たといいます。関ヶ原後、その功績を賞されて一豊は掛川から高知に遷り、土佐国に加増移封されたのである。

<徳川時代> 

関ヶ原後は徳川の親族や昔からの家臣が東海道の城には入ってきます。掛川城には慶長6年2月、下総国小南から家康の異父弟・松平定勝(※)が3万石で入るが、定勝は慶長12年に伏見城代となって伏見藩に移封、掛川の地は次男・松平定行が継いだ。なお、長男の松平定吉(定友)は慶長8年に自害し、定勝はこれを弔うために遠江塚(※)を築いている。定行は元和3年、伊勢国桑名藩に移された。 

(掛川藩2へ続く)

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